HOME独想録

 2003年7月の独想録


 7月1日  人生は夢なのか
 インド哲学の基本的な考え方によれば、この世界はすべて幻想(マーヤ)であるという。神の見る「夢」であるというのだ。そしてインドの宗教では、とりわけ「悪夢」であるから、この悪い夢から醒めるために修行をするのだといっている。
 このような考え方は、若い頃から知ってはいたが、あまり実感としては湧かなかった。人生はあくまでもリアルな現実であった。そして未来は常に可能性だった。嬉しいことも辛いことも、それは肌身として感じられる出来事であり、それが夢だなんてとうてい思うことはできなかった。そして時間は、とてもゆっくりと流れていた。10年先など、遠い遠い未来に感じられたものだ。10年先の自分なんて想像もできなかった。
 けれども、時間の流れのスピードは年齢を経るごとにどんどん加速していき、若いときの10年先など、今ではせいぜい3年先くらいにしか感じられない。そして40歳を過ぎた頃から、同じ年代の友人たちでも、ちらりちらりとすでに死んでしまったという人も出始めた。
 もしも今、死の床についたら、私は本当に、インドの哲人が説いた「人生は夢だ」という言葉をリアルな実感をもって受け入れるだろう。ビデオを早送り再生するように、今までの人生を思い返すとき、楽しいことも、辛いことも、いろいろな経験が目の前に浮かんでは消え、消えては浮かぶだろう。いろいろな人の顔が浮かんでくるだろう。しかし飛び込んでくるのは映像だけで、音声はない。私に何かを語りかけている顔が見える。でも、音が聞こえない。何といっているのかわからない。肉体は43歳だが、心はまだ小学生なのだ。私はまだ12歳だ。ちょっと小難しい知識を頭に詰めこんだだけの12歳の少年……。今私が死んでも、50歳の男が死ぬのではない。まだ12歳の少年が死ぬのだ!
 私の友達の中で、もっとも早く死んだのは、小学校二年のときの友人だった。夜、突然に脳内出血を起こしてそのまま死んでしまった。私たちは葬式に出て花を贈った。小学校二年といえば、8年の人生だったことになる。あっというまの人生だ。
 次に、中学時代の友人が、中学を卒業して5年くらい後、すなわち、20歳を少し過ぎたくらいの歳に、死んでしまった。死因はわからないが、彼は少し脳に障害があった友人だった。でも、とても気持ちのいい性格の持ち主で、大の親友というわけではなかったが、私たちは仲がよかった。
 次に、私が29歳のとき、同年代の高校の友人が死んだ。癌だった。3歳になる息子がいた。まじめな性格で、人一倍よく勉強していたが、成績はあまりよくなかった。でも、とても紳士的ないい男だった。
 そしてもう、こうした友人に会いたくても、決して会うことはできない。
 あの世というものが本当に存在し、先に死んだ友人たちと再会することができたなら、私は彼らに尋ねてみたい。「君は、自分の人生とは何だったのだと思う?」と。
 だが、「君はどうなんだい? 君の人生は、いったい何だったんだと思う?」と、逆にこのように尋ねられたら、私はどのように答えるだろう。
 まるで、何と題名をつけたらいいのかわからない内容を持つ本のように、頭を痛めるに違いない。それこそまさに「悪夢」ではないだろうか。
 人生が、たとえ「夢」であってもそれは仕方がない。事実、そのように思えなくもないのだから。
 けれども、たとえ夢であっても、タイトルだけはつけられるようなものにしたい。

このページのトップへ