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 2003年8月の独想録


 8月12日  高野山の宿坊に泊まる
 先日、和歌山県の高野山に行った。大阪のなんばの駅から高野山行きの電車に一時間ほど乗り、さらにそこから十分弱、かなり急勾配なケーブルカーに乗り、さらにバスで十分ほど行くと高野山の中心街にたどり着く。
 高野山といえば、真言密教の空海が開いた山で、真言宗の総本山である金剛峯寺(こんごうぶじ)がある。その他、多くの寺院や墓があるが、もともと高野山全体を金剛峯寺というのだそうだ。なかでも圧巻だったのが、奥の院と呼ばれる広大なお墓で、太くて高い巨木と共に、無数の墓石がこれでもかこれでもかとある。
 そして、中心街から少し離れた寺院の宿坊に泊まった。宿坊といっても、立派な日本旅館なみの設備である。ただし、朝は6時半からおつとめ(読経)に参加しなければならない。
 そこで、この宿坊に住みこみで修行している若いお坊さんと話をする機会を得た。まだ16歳で、この宿坊から高校に通っているという。なぜこの道に進もうと思ったのか尋ねると、中学生のときにちょっとした演説をして、終わったら友達が「とてもよかった」といってくれた、彼がいうには、そのとき「人と人との触れあいのすばらしさ」を感じたのだという。
「なぜ仏道を志すようになったのか?」という質問に対して、彼は、このエピソードを語ることで、その回答にしたようだ。つまり、「人と人との触れあいのすばらしさ」ということと、仏の道(宗教の道といってもいいのかもしれないが)とが、彼の心のなかでひとつに結ばれたのであろう。
 religion(宗教)という言葉の語源は「再び結びつけるもの」という意味らしい。宗教の場合、確かにそれは「神」との結びつきを意味するのかもしれない。けれども、あの若いお坊さんは、少なくても最初は、「神(仏)」との結びつきのすばらしさを発見したのではなかった。彼はあくまでも「人」との結びつきのすばらしさを感じたのである。
 なぜ、彼は、人との結びつきから、神仏への結びつきへとつながっていったのだろう?
 彼は、人間の中に神仏の存在を感じた(予感した)のかもしれない。人間の本質、仏教でいう仏性を見いだしたのかもしれない。したがって、彼にとって、人との深い触れあいは、そのまま神や仏と出会う道であると感じたのかもしれない。
 彼の若い感性が、真理をかいまみたのだと、私は信じたい。
 神も仏も、人間の中に存在する。だから、他者と深く交わり、他者との深い触れあいを通して、人は神仏と出会うのかもしれない。
 だから、ひとり孤独に修行をしていたり、たとえ熱心に信仰していても、他者といがみあって和合することを知らない人は、神や仏と出会うことはないように思われる。自分が創造した神の「ビジョン」を見ることはあるかもしれないが、本当に神を見いだすとは思えないのだ。
 かといって、他者を自分の目的のために利用しようとする人と、見せかけの和合をしたとしても、そこに神を見いだすことはないだろう。和合とは、本当にお互いに愛し合うということだろう。単に表面的に喧嘩をしない、波風を立てない、ということではない。自分が一方的に相手を愛するだけでは、おそらく神は見いだせないか、見いだせても不完全であろう。愛し合わなければならないのだ。神や仏を見いだすには。
 しかし、自分が愛するだけでも難しいというのに、相手からも愛されるというのは、何と難しいことだろう。本当に愛し合っている人たちには、神や仏についての理論だとか、教義なども必要はない。朝6時半の「おつとめ」などもいらないのかもしれない。なぜなら、もし本当にお互いに愛し合っていれば、そこには神も仏も存在しているからだ。
 逆にいえば、私たちが神や信仰についての、雑多でややこしい理屈や教義を学ばなければならないのも、早朝から読経などをしなければならないのも、すべて私たちが愛し合っていないからではないだろうか。すべての人と愛し合っていれば、そんなものはまるで必要はないのだと思う。愛し合っている人々は、おそらく、神を探したりはしない。

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