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 2003年11月の独想録


 11月9日  死ぬことは悪いことではない。だが、・・・
 私は、今、一週間おきに地方にある末期癌患者のためのホスピスにカウンセラーとして通っている。心の悩みで訪れる外来の患者さんとのカウンセリングの他に、余命いくばくもない癌患者さんの心の悩みをカウンセリングしているのだが、癌患者さんの場合は、実際にはカウンセリングというようなものではなく、ほとんど患者さんの辛さや苦悩の訴えに耳を傾けているだけである。アドバイスのようなものは、ときどきはいうこともあるが、ほとんど口にすることはない。
 いったい、死を目前にした人に、どんなアドバイスがあるというのだろうか。
 「そんなに落ち込んでないで、もっと前向きに、ポジティブシンキングになりなさい」
 このようなことはいえない。以前は、苦悩している患者さんやご家族を前に、慰めになるようなことを何もいってあげられない自分に無力感と情けなさと、いくぶんの罪の意識を感じていたが、最近ではそのようなことはあまり感じなくなった。
 その理由はいくつかある。ひとつには、へたな慰めの言葉を口にするよりも、沈黙して相手の話のみに耳を傾け、一緒になってその苦しみを分かち合ってあげた方が、結果的に苦痛を和らげてあげられると思うようになったからだ。
 それから、もうひとつ大きな理由は(これは患者さんのことを考えるというよりも、自分勝手な価値観なのであるが)、「死ぬ」ということが、世間一般にいわれているような「悪いこと」「忌むべきこと」だとは考えなくなったからである。この傾向は葬式などにも最近とくに見られるようで、むかしは葬式から帰ってきたら、塩を身体にふりかけて「お浄め」をしたものだが、最近は、死というものを忌むべきものとは考えなくなって、塩をかけることが少なくなってきているらしい。
 隔週で通っていると、前回まで親しくお話していた患者さんが、今回行ってみると、もうお亡くなりになっていないということを、毎回のように経験する。この前は、友達のように親しく接し、握手をし、その感触とぬくもりを感じ、心を通わせて、お互いの存在を確認し合っていたその人が、来てみると、もうこの世には存在せず、その人がいた部屋には、新しい患者さんがいるのだ。
 そういう経験をするたびに、人生は短いというか、ある意味で「あっけない」ように感じるときがある。特に、若い人が亡くなるのを経験するときはなおさらだ。今まで私が経験した中で一番若かった人は、30歳だった。この病院では、過去に17歳の女性が癌で亡くなっており、その女の子の写真が、病院の中に飾られている。まだあどけない笑顔の可愛らしい女の子。たった17年、この地上に生きただけなのだ。
 癌のような病気にかかる原因は、心の中に抑圧された満たされない感情を抱えているといった説がある。私も、すべてとはいわないが、そのような傾向を感じることがある。こういう場合は、癌になって死ぬということは、やはり幸せなことだとはいえないのかもしれない。また、あまりにも若くして死んでしまうというのも、本人はもちろん、残された家族にとっても、痛ましいことであろう。
 しかしながら、死ぬという現象そのものは、自然なことではないだろうか。
 生まれ変わりというものが、本当にあるのかどうか、わからない。私はたぶん、あると信じているが、実証されたわけではない。だが、仮に生まれ変わりがあるとしても、たとえば私が「斉藤啓一」という存在で地上に生きたということは、たった一回だけのことなのだ。私の魂というものが、現世での記憶をいっさい失い、またどこか別の場所で、別の肉体をもって生まれ変わったとしても、実質的には、それはもう別の人間のような気がする。だから、私は生まれ変わりというのは、霊的にはあるのかもしれないが、「現世的には」、存在しないと考えた方が正しいと思っている。
 そうなると、人はたった一回の人生を、それが短いか長いかはともかくとして、たいていの人が、特にひどく悪いことをするのでもなく、特に偉大なことをするのでもなく、日常の小さなことで喜んだり悲しんだり、怒ったり落ち込んだりして、ああでもないこうでもないと叫んで、笑って、何らかの仕事をして、ちょっとした旅をして、そうして死んでいくだけのことなのだ。時間の観念は人それぞれなのだろうが、50年だとか70年などというのは、過ぎてしまえば本当に短い時間だ。人生が長く感じられるのは20歳までだ。それ以後は、時間はどんどんと短くなっていき、若い頃の1年間が、ついには四ヶ月くらいにまで短縮してしまう。
 そう思うと、人間なんて、何というはかない存在なのだろうかと思う。そして、そのはかなさを、そのはかないままで受け入れるときに、「死ぬ」ということが、自然なことのように思えてくる。犬や猫などを見ても、野望があるわけでもなく、食べて遊んで、いつのまにか死んでいく。人間は犬や猫とは少し違うけれども、そうたいした差があるわけでもない。ほんのわずかな人だけが、歴史に名前を刻むけれども、ほとんどの人がいつのまにか生まれ、いつのまにか死んでいくのだ。まるで夜空の花火のように。
 私の人生もあなたの人生も、お互いの存在など、ほんの一瞬のはかないものだ。それが人生の真実ではないだろうか。
 けれども、たとえそのようにはかない一瞬の火花であったとしても、愛した人のことは忘れられない。一瞬の火花であったとしても、それがもたらしてくれた美しい感動を、人はいつまでも心の中に刻み込んで、忘れることはない。人の偉大さは、どのくらい生きたとか、社会的にどれほど偉大な業績を残したかなどではかれるものではない。平凡な人生を生きた平凡な人の、平凡な優しさの中に、偉大なる神に通じる何かがある。
 誰が死んだって、私はその死を不吉なこと、悪いこと、忌むべきことだとは決して思わない。
 だが、その人がいなくなって、もう話をすることができないこと、この世のどこへ行こうとも決してその顔を見ることができないこと、その体温に触れることができないということを、寂しく思うだけだ。
 死ぬことは悪いことではない。
 ただ、寂しいだけだ。たまらなく寂しいだけだ。

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