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 2003年4月の独想録


 4月4日  人間関係の悩み
 先日、最近まで大手の新聞社に勤めていて定年で退職し、フリーでビジネスを始めた男性と会って話をした。
 その男性がいうには、「今までは組織を背景に威張っていたけれど、いざ放り出されると、まったくの無能だったことが思い知らされる」といっていた。もちろん、その方は無能ではなく、いささか謙遜しておられたのだが、しかし、やはり定年退職して、その後フリーで事業を始めた他の同年輩の方も知っているが、同じことをいっていた。その人から見れば、私のように一匹狼で生きている人がすごく見えるらしい(実情は決してすごくないのだが)。
 そして、組織の中にいて、もっとも苦痛だったことは、人間関係だったという。その人は自分なりの信念や正義感をもっておられたようなので、ことさら組織の中にありがちな陰湿さや不正といったことに我慢がならなかったようだ。実際、この新聞社に関しては、他にも陰湿ないじめの話を耳にはさんだことがあったので、うなづけるものもあった。
 だが、程度の差はあれ、組織には人間関係の問題がつきまとう。良好な人間関係を保っている組織も、もちろんあるだろう。すぐれた経営者であれば、社員の人間関係をもっとも大切にしているはずである。いくら優秀な人材を雇っても、人間関係しだいでは、その力を発揮できないばかりか、つぶされてしまうことさえあるからだ。
 人間関係といっても、たとえば仕事上で意見があわないとか、そういうレベルならいいのだが、話を聞くと、まるで子供の喧嘩のような低いレベルであることが多い。青少年のいじめといった社会問題を扱っている新聞社の中で陰湿ないじめが行われているのでは、しゃれにもならない。
 だが、どうやらそれが現実のようだ。このような、あまりにも低いレベルの人間関係で悩まされたら、まともな人は仕事をする気になれないだろう。品位のある人なら、醜く争うよりは身を引いてしまうだろうから、出世できないということもある。立派な紳士が左遷されたり、さえない子会社に出向させられた例を、私もいくつか見てきた。気の毒だと思う。
 もちろん、だからといって、出世した人はみな悪人だというつもりもない。ただ、一般的に大きな組織で出世した人というのは、おそらく相当自分をだましたり、自分に嘘をついたりしてきたのだろうなという想像はできる。愚かな上司のご機嫌を取り、不条理な命令もそつなくこなし、常に利害関係だけで人と交際し、出世に関係がないと思った人間は切り捨てることができなければ、大きな出世はできないようにも思われる。
 もしも、正論を吐いたら、出世できないばかりか、地方の支社に飛ばされてしまうかもしれない。場合によっては、屁理屈をつけられてクビにさせられてしまうかもしれない。それでは、怖くて逆らえないだろう。それに、仮に逆らってみたところで、たいていは何がどうなるわけでもない。だから、そんな無力感の中で、ストレスをためながら仕事をしていくしかない。ある新入社員が一所懸命に働いて、すばらしいアイデアなどを提案したら「馬鹿野郎、仕事を増やすな」と上司から怒られたという、嘘のような本当の話がある。それでは社員はみんな腐ってしまう。
 では、自営業がいいかというと、もちろん、そんなことはない。うまくいっているときはいいが、そうでないときは、まるで地獄のようになる。サラリーマンなら、何か失敗しても、たいていは連帯責任であり、損害は会社が引き受けてくれる。出世の可能性は断たれるとしても、余程のことでもない限りクビにはならないだろう。また、病気などで仕事を休むことがあっても、有給休暇などもある。極端なことをいえば、会社に行きさえすれば、とにかく給料は入ってくる。しかし、自営業はそんなものはいっさいない。失敗したらすべて自分が損害の責任を引き受けなければならない。病気などをして休んだらお金は入ってこない。そして、とにかく満足な休日などはないのが普通だ。常に働きっぱなしである。しかも、働けば時間に応じて確実にお金が入ってくるのならいいが、そうとは限らない。嫌な上司との人間関係からは解放されているかもしれないが、自分だけが頼りだという不安と孤独に悩まなければならない。心が安らかになるという時間がなくなってしまう。
 こう考えると、どちらも辛いのであって、ただ、質的にどちらの辛さを引き受けるか、というだけなのかもしれない。不条理な人間関係の辛さか、すべてのリスクを背負って不安定で孤独に見舞われる自営業の辛さか、どちらかなのだ。
 もっとも、中には山奥に入って自給自足の生活をしている人も、間接的だが知っている。その人の楽しみはギターであり、現金収入というのは、ほとんどないようである。しかし話を聞くと、ストレスもなく幸せそうなのだ。
 では、すべての人が、そういう生活をすれば幸せになれるかというと、そうではないだろう。やはり、そういう生活に適している人と、そうではない人がいる。また、はためには幸せそうだが、現実にはいろいろと苦労もあるに違いない。
 生活のために稼ぐ必要がない主婦になったとしても、それなりに苦労があり、近所との人間関係に苦しんでいる人もいるし、誰もいない家の中で生き甲斐を失っている人もいる。
 このように考えてくると、人間というのは、どのように生きても、辛いことは避けて生きられないのだと覚悟した方がよさそうだ。
 ただ、冒頭で述べた人のいった次の言葉を紹介しておいた方がいいだろう。
「組織を辞めてすっきりした。それだけで大変な癒しだった」
 彼は、これから自力で生きていかなければならない。自分の手で舵をとっていかなければならない。それは冒険であり、厳しいものとなるだろう。しかし、彼は生き生きしていた。
 もしも組織の中で生き生きできなければ、いろいろ生計上の理由はあるのだろうが、思い切って独立する計画を立てるのも手段かもしれない。あるいは、独立して自営業をやっていても、生き生きできなければ、本当は組織の中の方が適しているタイプなのかもしれない。家庭の中にいても生き生きできなければ、外で働いてみるとか、小さな事業を始めるということも、考えてもいいかもしれない。たとえ、すぐには実行できないとしても、未来にその夢を託して計画を立て、コツコツと努力していくことで、人は生き生きできる。「定年までこんな職場にいなければならない」と思うとストレスがたまるが、「そのうち独立してやるんだ」と思えば、少しはストレスも軽くなる。現状にあきらめないで、とにかく道を探してみるべきではないだろうか。少なくても、試してみるだけの価値はある。


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 4月9日  神様への手紙
 拝啓。創造主であり、自らを愛と名のる神様へ。
 春となり、桜は満開で、桜の花よりも一足先に、数多くの私たちの仲間が毎日のように血まみれとなって散っている今日この頃ですが、神様におかれましては、ますますご清栄のことと存じます。
 あなたは、毎日毎日、何の罪もない人々、幼い子供たちが血だらけになって死んでいくニュースをご覧になっておりますか?
 それとも、神様の住んでおられる所にはテレビなんて、ないのかもしれませんね。だからきっと、あなたは平気で沈黙しておられるのかもしれませんね。
 あなたは人間を創造なさいました。
 しかし、作品は、失敗だったのではありませんか?
 私たちがこんなにも苦しみ、むごい死に方をするような存在として、あなたは造られたのではありませんよね、まさか……。
 どうなのでしょう、自らを愛と名のる神様、返事をしてください。
「いや、人間は苦しみを通して教訓を学び、成長していくものなんだよ」
 こんな、陳腐な言葉を吐かないでください。
 苦しんで死んでいく三つや四つになる子供たちが、苦しみを通して人生の教訓を学ぶなんて、本気で思っておられるのですか?
 仮に百歩ゆずって、苦しみを通して成長していくのだとしても、私たち人間は、これほどの苦しみを味わってまで成長したいとは思いません。余計なおせっかいをなさらないでください。
 神様、あなたのことを信じているのは、もはや幸せな人たちだけだということに、気づいていますか?
 幸せな人たち、あるいはほんのちょっとだけ苦労している人たちだけの「娯楽」として、あなたの名前が唱えられているということを知っていますか?
 なぜ、私たちのような人間を造られたのですか?
 それとも、造った後はもう知らないなどと、そっぽを向いてしまわれたのですか?
 自らを愛と名のる神よ、私たちのこれほどの悲惨な苦しみも、あなたの愛の表現なのですか?
 もしそうであるなら、あなたの「愛」など、もういりません。
 愛なんていりませんから、苦しみを与えないでください。それともあなたは、ご自身の「愛」を、無理強いなさるおつもりですか?
 あなたは絶対的な力をおもちで、私たちなど、とうてい太刀打ちできません。
 しかし、もしも私があなたよりも強い力をもったならば、私たちの経験したすべての苦しみを、あなたにも味わわせてあげましょう。そのとき、あなたがどのような感想を述べられるのか、私にはとても興味があります。
 しかし、こんなことをいっても仕方がありませんね。
 神様、返事をしてください。
 なぜ私たちはこんなにも苦しまなければならないのですか?
 なぜこんなにも苦しまなければならない存在としてお造りになったのですか?
 答えてください。返事もされないというのは、創造主として無責任だとは思わないのですか?
「答えているのだが、おまえたちが聞こうとしないのだ」なんて、もっともらしいことをいわないでください。私たちは真剣に耳を傾けているではありませんか。あなたは、耳をお造りになる際、どこかミスをされたのではないのですか?
 私のこうした言葉を失礼だとお怒りになられますか?
 怒ることだけはちゃんとなさるのですね。
 あなたに対して不遜な私に、罰でも与えますか? そんな暇だけはあるのですね。
 どうぞ、罰を与えてください。
 肉体だけでなく、私の魂そのものを抹殺してください。
 死んで天国へなんかいきたくありません。この地上の悲惨を見聞きしたのですから、天国へいったって、心安らかではいられません。仲間たちが苦しんでいるというのに。
 だから、魂そのものを滅ぼし、いっさいの意識さえ奪い去って、完全な「無」にしてください。そんな罰なら、私はむしろ大歓迎です。
 神様、どうして沈黙なさっているのですか?
 自分の失敗を認めるのがいやなのですか? だから沈黙されているのですか?
 それはずるいですね、卑怯ですね、あまりにも無責任ですね。
 沈黙されておられるのであれば、もう自分を「愛」などと名のるのはやめてください。
 あなたにそんな資格はありません。
 それでは、私たちは苦しんで死んでいきますが、神様はどうぞいつまでもお元気で、私たちの悲劇を見物なさってください。そして、おおいに楽しんでください。
 それでは、さようなら……


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 4月21日  繊細では生きられない。繊細でなければ生きる価値はない
 感度のよいラジオは、とてもよく電波を受信するけれども、雑音も拾いやすい。
 同じことは、人間にもいえると思う。
 繊細で感受性豊かな人は、人生におけるさまざまなことを、人一倍の感度で味わうことができる。その喜びは深く、その感動も深い。しかし、その反面で、悲しみも苦しみも、人一倍深くなる。ということは、人一倍、傷つきやすいということだ。人が口にしたちょっとした言葉、ちょっとしたイジメや、からかいによって、とても深く傷ついてしまう。
 その点、鈍感な人は、そのようなものを何とも感じない。言われても感じないから、人に言うことも平気だ。人生の喜びは浅いもので、ひどくなると、感動といわれるようなものを感じることなく、感じるのは動物的な快楽といったものだけになってしまう。
 このような人たちが人生を生きていくのは、比較的楽かもしれない。けれども、果たしてそんな人生に、どれだけの意義があるのだろう。もちろん、他人の人生の意義など、とやかくいう筋合いではないけれども、人間として生まれてきた以上、人間が味わうことのできる可能な限りのレベルを味わって生きることが、人生の意義であり、価値ではないだろうか。
 たとえば愛の喜びにしたところで、ほとんど動物的な快楽のレベルしか味わえない人もいれば、とても甘美で、スピリチュアルなレベルまで味わう人もいる。愛のもつ繊細なやさしさ、あたたかさを、深く深く味わい、それに感動する人もいる。さらには、自己犠牲的な崇高な愛の深みにまで達する人もいる。そうした深みを味わえる人生こそ、真に豊かな人生といえるのではないだろうか。
 そういったものを味わうには、何よりもすぐれた感受性が必要不可欠だ。ところが、冒頭で述べたように、このように優秀な感受性の持ち主は、現代社会のように、荒々しい波動には耐えられない。無神経な人間の振る舞いに耐えられない。それで、神経症になったり、鬱になったり、引きこもったり、ときには自殺してしまったりもする。無神経な人たちは、そういう人たちを弱者呼ばわりするかもしれないが、感度が悪いラジオが安い値段で売られ、感度がよいラジオが高い値札をつけているように、弱い強いの問題ではないのだ。
 とはいえ、この現実に私たちは生きていかなければならない、ということも事実である。繊細なら生きていけない。繊細でなければ、生きている価値はない。
 こんなジレンマを、私たちは抱えながら生きているのではないだろうか。
 いったいどうすればいいのだろうか?
 一番いいのは、繊細にして、なおかつたくましく生きていく道であろう。だが、そんなことは、どうすれば可能になるのだろうか?
 私には、わからない。傷つかないで、なおかつ、繊細な感受性をもっているなんて、私には想像ができない。
 ただ、最新式の優秀なラジオは、感度もいいし、雑音もない、というものがある。
 原理としては、フィルターと呼ばれる装置が内蔵されているためで、要するに、雑音の周波数だけをカットするのだ。
 感受性豊かな人は、思いやりがあり、美しいものを感じて、それを表現する才能をもっている。このように、世の中に対してすばらしい影響力を発揮する自分自身を、何よりもまず貴重な存在だと考えなくてはならない。それはうぬぼれではなく、ある種の使命感のようなものとして。
 そして、世の中のためにも、「雑音のようなくだらないこと」から、自分の身を守らなければならないのだと決断しなくてはならない。くだらないことのために、貴重な存在がダメになってしまうのは、この世界の損失であり、悲劇なことだと、心の底から強く思うことだ。
 そのような思いをもったとき、それがある種の「フィルター」のような働きをして、完全には無理かもしれないが、ある程度、無神経な言動から自分を守ってくれるようになれるかもしれない。


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 4月30日  人生の跳び箱
「跳び箱」には、その子供の、今後の人生に対する姿勢が予見されるかもしれない。
 ある子供は、最初から跳ぶ気持ちなどないことが明白で、だらだらと走っていって、跳び箱に触っておしまい。別の子供は、やはり最初からあきらめたように走っていって、跳び箱の上にどしんと腰掛ける。また別の子供は、一応、真剣に飛ぼうとして走るのだが、直前になって怖くなって、跳ばなかったり、跳んでもおしりをついてしまったりする。また、ある子供は、自信なく走っていくけれども、何とか勇気を発揮して、多少あぶなかしいながらも、何とか跳び越える。そして、自信に溢れた子供だけが、最初から威勢よく助走していって、高く飛び跳ねて見事に着地するのだ。
 跳び箱を跳ぶという行為は、それほど高度な技術だとか、生得的な運動神経が必要なわけではないだろう。おそらく、人並みの身体をもっていれば、ほとんどすべての子供が跳ぶことができるはずである。なのに、なかなか跳べない子供がいる。
 それは、跳び箱に対して恐怖心をもっているからだ。恐怖心がなければ、ほとんどすべての子供は跳べるに違いない。その意味で跳び箱は、運動能力を問うものというよりも、子供の勇気を問うものだといえるかもしれない。
 確かに、跳び箱は怖い印象を与える。実際、跳び箱から落ちて怪我をする可能性も皆無ではない。だが、跳び箱から落ちて死んだとか、重症を負ったという話は聞かない。ほとんどの場合、何も心配はないのだ。ならば、思いきって力の限り跳んでみることだ。そうすれば、跳び箱なんて、自分が思っているよりもずっと高い段まで跳べるだろう。
 歳を取ってこれまでの人生を振り返るとき、そのほとんどすべての心配や恐怖は、まったくの無駄であったことがわかる。ほとんど現実に起きなかったことばかりだ。たとえ、心配や恐怖していたことが現実になり、いっときは辛い思いをしたとしても、立ち直ることができたものであったことがわかる。そればかりか、その辛い思いが、自信や教訓という「報酬」を払ってくれたりもする。
 犯罪だとか麻薬、暴走行為といった、よほど取り返しのつかないようなことでもしない限り、人生において致命的な失敗や挫折というのは、ほとんど皆無ではないだろうか。
 それなのに、そのほとんどないものに対して、私たちは不合理な恐怖心を抱いていることが多い。人生におけるさまざまな「跳び箱」を前にして、最初からそれを乗り越える気持ちなどないのが明白なほど、だらだらと努力して、「やはりダメだった」などとなってしまう。
 大多数の人が、「跳び箱」を乗り越えられないで人生を終えてしまうのは、恐怖心のために力を出し切れず、やる前から萎えてしまうからだ。恐怖心さえなければ、思い切り助走して、鮮やかに跳び越えられるのである。たとえ一回や二回くらいはコツを飲み込めないでうまくいかないことがあったとしても、恐怖心さえなければ、いつか必ず跳び越えることができるに違いない。
 もしも「跳び箱」を本当に跳びたいと思うなら、覚悟を決めて全身全霊で助走していかなければならない。最初から結果がわかっているような、だらだらした助走をしてはダメだ。

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