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 2003年3月の独想録


 3月2日  独力でマスターするということ
 物事を早く上達しようと思ったら、その道の専門家に教えを受けるのが、一番であろう。
 独習というのは、ともすると、しなくてもいい失敗をしたり、不効率なことをして、うまく上達しないものである。
 しかし、その道で一流の業績を築いた人というのは、けっこう独習タイプの人が多いようだ。一方、最初から指導を受けて伸びていった人は、どちらかといえば、二流で成長が止まってしまう傾向があるようにも思われる。また、独力タイプは、一度つかんだ成功を比較的ずっと保っているが、指導によって成功した人は、あまり長く続くという傾向は少ないかもしれない。
 もちろん、これは必ずそうだというのではなく、あくまでも傾向をいっているだけである。
 それにしても、この違いはどこからくるのだろうか?
 独力で物事を達成するというのは、相当難しい。最初に述べたように、無駄なことが多かったり、失敗もたくさん重ねることになる。それでも何かをマスターしたというのなら、それは不屈の努力と忍耐と、そして絶え間ない創意工夫を重ねていた、ということである。
 やや自慢に聞こえてしまうかもしれないが、私の場合を少しお話してみたい。
 私は、それなりに文章を書き、出版社からプロの原稿と認められてもらっているが、ライターの学校に行ったこともなければ、通信教育だとか、その種の教育を受けたことはない。文筆に関していえば、すべて独力であった。ただし、完全に自分で文章を習ったということではない。
 というのは、たくさんの原稿を書き、それを出版社にもちこんで、編集者の冷たい批判を受けながら、何回も書き直すことで文章を習ったからである。つまり、その編集者のアドバイスによって学んだということだ。だが、そのアドバイスは、私の教育のために行われたわけではなく、書いた原稿の批判という点から行われたので、容赦のない言葉が飛びかった。それは自信をうち砕くには十分の迫力があった。すべては原稿の出来で決まり、言い訳などいっさい通用しない。ダメならそのまま没となる。
 没になった原稿を出版社から持ち帰るときの気持ちというのは、とてもせつないものがある。会社員であれば、多少のミスや至らない点があっても、ボーナスや出世には響くかもしれないが、給料がなくなる、ということはないだろう。しかし、自由業や自営業というのは、その作品なり提供品がすべてであって、ダメならお金はまったく入ってこない。
 だから、必死になるし、どこがいけないのかと常に創意工夫するようになる。
 とにかく、そのようにして、私はどのような文章が通用するのか、自分なりにアイデアを蓄積していった。そして、ようやく少し認められたかなというときに、いわゆる「文章の書き方」といった本を見たら、私がさんざん苦労して得たアイデアが、そのまま書いてあるではないか。
 最初からこの本を読んでおけば、こんなに苦労することはなく、余計な労力や回り道をすることもなかったのにと後悔した。
 けれども、文章を書くという仕事は、いつも同じことを書いているのではなく、常に新しいテーマを研究していかなければならない。誰も他の人がやったことのないようなテーマを研究していくわけだ。ということは、先輩が誰もいないということ、誰もアドバイスしてくれる人がいない、ということである。そんなときに、ものをいうのは、自力で創意工夫をし、そこからアイデアをつかみとるという独習の力ではないだろうか。
 だから、最初から手取り足取り指導を受けて上達した人は、自力でアイデアをつかみとる力が弱いのかもしれない。だから、それ以上は伸びていかないのではないかと思う。
 しかも、何よりも大切なのは、決してあきらめずに、ひたすら忍耐強くやり抜くこと、どんなにけなされても、自信を失わず弱気にならない精神的なたくましさである。お金を払って指導を受けた人は、おそらく、それほどキツイことはいわれないだろうし、仮にキツイことをいわれたとしても、お金が入らないという状況には立たされていないだろう。だから、どうしても精神力という点では弱くなってしまうのかもしれない。
 では、結局は、どうするのが一番いいのだろうか?
 私は、目標をなるべく高く置くのがいいと思う。その上で、いろいろと指導を受けるのだ。目標が高ければ、それで満足できないから、自分でどんどんと創意工夫をしていくだろう。それから、勉強してから活躍しよう、というのではなく、勉強しながら、たとえ未熟でも実践に踏み切ってしまうことだ。私がやったように、とにかく原稿を書いて出版社に持ち込んでしまう。ピアニストをめざしているのなら、まだハ長調の曲しか弾けなくても、演奏会を自分で開いてしまう、といったように。たぶん、そうとう恥をかくし、プライドが傷つけられると思うが、それがタフな精神力を養うのには、何としても必要なことなのだ。そして人生というものは、プライドが傷つくことを恐れなくなったら、たいていのことは、それなりにやれてしまうものである。


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 3月12日  覚醒した人とは、どんな人か?
 覚醒だとか、宗教的な悟りの真意を人に伝えるのは難しい。もうずいぶん前のこと、クリシュナムルティの側近だった人が来日して、都内で講演会を開いたことがあった。講師はインド人で英語の通訳がついていた。質問の時間になったとき、30代半ばくらいかと思われる男性が、英語で「あなたのいっていることは違う」というのである。司会者が「(他の人にもわかるように)日本語でお願いします」といっているのに、英語で質問する。しかも、へたな英語なので講師が何をいっているのかよくわからず、結局、その質問者は日本語で質問をした。質問内容も、私からすると、まったくとんちんかんなもので、まるで喧嘩でも売っているような態度であった。
 クリシュナムルティを理解するとは、このような理屈をあれこれつつき回すことではない。しかも非常識な態度で。あらゆる精神世界や宗教のめざすところは、たったひとつしかない。それは「エゴの消滅」のはずだ。ところが、逆に「エゴ」を満足させるために、クリシュナムルティや宗教を利用している人がいる。エゴにとらわれた人は、競争心を燃やし、真実を探求する姿勢ではなく、批判的になる。そのようにして、相対的に自分を高めるために。

 むかしの資料を探すために押入の中をあれこれ引っかき回していたら、10年ほど前にいただいた、読者からの手紙が出てきた。その人は、精神病で20年も入院している中年男性であった。私は覚えていないが、文面から、どうも私は何かの本をその人に送ってあげたようだった。哀しみを背後に感じさせる、しかし淡々とした文体の礼状で、最後にこう書いてあった。「私は何という幸せ者か……」。
 20年も精神病院で生活し苦しんできた人が、自分のことを幸せ者だと語っているのである。私はそれを読んで涙が出てきた。それは、その人に対する同情というだけでなく、その人から伝わってくる魂の高潔さといったものに対して。
 ある禅者は、「禅のことを論じる人間を見ると吐き気がしてくる」といった。クリシュナムルティにしても、「ファウスト博士」にしても、覚醒の理屈を並べれば、それなりに哲学的な議論ができるだろう。だが、そんなことは本質とは何の関係もない。この種の問題を理屈でアプローチすることは、根本的に次元がずれているのかもしれない。それは、モーツァルトの楽譜を分析して「この音符は何分の何拍子で、イ長調で、……」といった理屈を論じて、モーツァルトの、あの天真爛漫な音楽を理解しようとするようなものだ。
 覚醒した人とは、耐え難い苦しみにじっと耐えながら、たとえどんなに小さくても、人の善意に対して「私は何という幸せ者か」と感じられるような人、そして、難しい理屈などまったく口にしないのに、その人から自然ともれてくる高貴な人間性を持ち得ているかどうかではないかと、思う。


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 3月27日 死ぬくらいなら悪人になろう
 人は、どういうときに死にたくなるのだろう。肉体的な苦痛や、鬱病といった精神的な苦痛に耐えきれずに死ぬ人はいる。しかしこの場合、必ずしも他の自殺と同じにはできないと思う。鬱病で自殺した人は、むしろ鬱病に殺された(つまり病死)と解釈すべきではないだろうか。拷問には耐えられないように、鬱の苦しみで自殺したとしても、それは病気のために死んだのだと思うべきではないだろうか。
 こうした場合は別として、人が死にたくなるのは、「苦しみ」よりも「空しさ」のためではないかと思う。「生きていても仕方ない」といった気持ちである。
 そういう気持ちがあっても、娯楽など楽しみごとで憂さを晴らすことがうまくできれば、何とか生きていけるかもしれない。しかし、今日のように不況が深刻となり、経済的に苦しくなって娯楽もできなくなり、仕事も忙しくてこきつかわれ、家に帰っても、ろくに家族から大切にされず、粗大ゴミのように扱われたり、おまけに家のローンに追われていたりすると、いったい自分は何のために毎日苦労して生きているのだろうかと思うに違いない。楽しみも何もなく、ただ生きる(生存する)だけの人生……、実質的に、これでは古代ローマやエジプトの奴隷とほとんど変わらないといえるのではないか。
 現代人の多くは、空しさを抱えているのではないかと思う。そして、空しさを忘れさせてくれる要因が、経済的な、あるいはその他の理由で失われてしまったときに、自殺の危険が迫ってくるのかもしれない。事業で多額の借金を抱えて自殺する人が急増しているそうだが、それは借金を返すために、残された人生をずっと質素な生活をしなければならないとして、先が見えてしまうからであろう。質素な生活そのものが自殺の原因なのではない。だとしたら、もっと多くの人が自殺しているはずである(私なんかとっくにこの世にいない!)。先が見えてしまうこと、それに伴う空しさが、自殺の原因ではないのだろうか。
 逆に言えば、空しさがなければ、人間はかなりの苦しみにも耐えていけるに違いない。娯楽なんかなくたって、苦しくたって、自殺をすることは少なくなると思う。
 では、人間はどういうときに空しくなるのだろうか。
 そのひとつは、「目的」をもたなくなったときだと思う。「夢」といってもいい。前を向いて「追いかけるもの」がないと、人はとたんに空しさに襲われてしまう。ただ毎日を生活するだけに生きること、ただ老後の安定のためだけに生きるといった毎日を送っていると、酒の量がしだいに増えて、老年を迎える前に病気で死んでしまうという、笑えない喜劇を演じてしまうこともある。
 だから、何か目的や夢をもって、それを追いかけるように生きると、空しさが消えて、相当な苦労にも耐えられて生きることができるかもしれない。
ところが、目的や夢をもつ、ということが難しいのだ。「目的や夢をもてない人生だから死にたくなるんだよ!」といわれるかもしれない。
 では、どうして目的や夢をもてないのだろうか?
 いろいろ原因はあるだろうが、その大きな理由のひとつに、「善い人」というのがあげられると思う。自分が夢を追いかけたら、家族が迷惑するとか、他の人に迷惑をかけるとか、世間体が悪くなるとか、そのような理由で、目的や夢をもてないのではないだろうか。
 確かに、人に迷惑をかけるのはよくない。人に迷惑をかけないで生きられるのなら、それに越したことはない。しかし、そのことのために、あなたが空しく、そして自殺しようと考えているのであれば、考え方をあらためた方がいいと思う。
 人間は、決して完全な善人にはなれない。あなたが生きて悪いことをすれば、まわりの人は悲しむだろう。しかし、あなたが死んでも悲しむだろう。つまり、どちらにしても人を悲しませることになる。
 しかし、生きていれば、人を喜ばせることもできる。死んでしまったら、残された人を悲しませるだけで、喜ばせてあげることは決してできない。
 だから、もしも善人のまま自殺するのだったら、悪人として生きた方がいいと私は思う。「悪のヒーロー」として生まれ変わり、人殺し以外のどんな悪いことでもすればいい。こんなことを書くと、お叱りのメールをもらうかもしれないが、死ぬよりはいいと思う。世界を見渡せば、毎日、数え切れない人が、虫けらのように人を殺し、また殺されている。そんな現実世界において、いくらあなたが悪いことに精を出しても、たかが知れているだろう。
 死ぬくらいなら、悪人になろう。そのくらいの境地になれば、人生に目的が生まれ、生きる気力も湧いてきて、道も開かれるのではないだろうか。善人でいようとするからいけない。自ら命を断つくらいなら、少しくらい悪い人間になってもいいから、とにかく目的をもって、生きることを最優先にすべきだ。

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