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 2006年1月の独想録


 1月1日  発見して生きるということ
 子供は毎日が発見の連続であるに違いないが、大人になるに従い、その発見の数は減ってしまい、やがて発見などという体験がほとんど皆無のような状態になってしまう。
 だが、発見のない人生というものが、果たして本当の意味で「生きている」といえるだろうか?
 発見がなくなってしまうひとつの大きな原因は、目の前にある体験したものを、過去の似たような体験として決めつけてしまうことにあるのだろう。
 つまり、パターン認識しかできなくなってしまうのだ。たとえば、ひとりの女性がいて、ヒゲを生やした男性に出会ったとする。女性は、以前、同じようにヒゲを生やしていた男性と付き合っていたが、その元彼は最初は優しかったものの、しだいに暴力的になってきた。
 そこで、女性はこう思う。「きっとこの人も、つき合ったら最初は優しいかもしれないけど、やがて暴力的になるに違いないわ」と。
 そうして、つき合うことをしなくなるかもしれない。
 理性的に考えれば、ヒゲを生やしている男性すべてが暴力的とは限らないことは、すぐにわかるはずだ。ところが、しばしば、こうした考えは無意識の領域で行われてしまう。
 そのため、ヒゲを生やした男性と出会ったとき、この女性は、元彼のことを表面的には思い出したり連想したりしなくても、無意識の中で、この男性と元彼とをだぶらせてしまい、「何となく好きになれない。一緒にいたくない」という感覚が生じてしまうかもしれない。そうして結局、ヒゲのある男性は最初から恋人候補として除外してしまうことになる。
 すなわち、ヒゲを生やした男性でも優しい男性がいるのだという発見のチャンスを逃してしまう。
 数学という学問が嫌いだという人は少なくないが、数学そのものが嫌いなのではなく、数学の先生が嫌いだったのかもしれない。そうして、数学に秘められた数々の発見をする可能性が失われてしまう。クラシック音楽が嫌いなのではなく、音楽の授業が嫌いだったのかもしれない。そうして、クラシック音楽から得られるすばらしい発見の数々が不幸にも失われてしまう。その意味で、学校教育というのは、学問そのものを教えるよりも、学問の「楽しさ」を教えることに重点を置いた方がよさそうだ。学問を“楽しく”教えることができなければ教員にはなれないという制度にした方がいいかもしれない。
 人間というものは、どんなに理性的な人でも、たとえ科学者と呼ばれる人であっても、その論理の方向は感情的な好き嫌いに影響を受けていることがかなりあると思われる。感情的に「こうしたい」というものがあり、それを正当化させるための、ある種の「こじつけ」を後からもってきて、それを「理論」と呼んでしまうわけだ。
 何であっても、それができるという理屈は100も出せるし、それはできないという理屈も100は出せる。ある人が「できる理由」を述べたとしても、その理由は正しいといえるし、「できない理由」を述べたとしても、その理由も正しいのだ。
 つまり「理由」など、本質的な問題ではないのだ。それをしたいと思えば、それができる理由が見つかるのだし、それをしたくないと思えば、それができない理由が見つかるだけに過ぎない。できない理由が見つかったからやらないのではなく、やりたくないから、できない理由が見つかっただけなのだ。
 人間の成長は「発見」によってこそもたらされる。もしも、自らを成長させたいという情熱さえ失うことがなければ、人生における発見というものは、どんなに歳を取ろうと関係なく、常に少年のようなみずみずしい感動を伴ってやってくるに違いない。


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 1月9日  キリストと同じことをしている人
 先日、たまたまテレビのスイッチを入れたら、「夜回り先生」こと水谷先生が映っていた。
 ご存じのように、水谷先生は、夜の繁華街に出て不良少年や家出少女などを見かけては声をかけて話を聞き、共感的に導いたり、昼夜を問わず子供たちからの悩みを携帯やパソコンで受けては返事をかえすということを、ずっと続けている先生だ。ご自身、病気でありながら、そうしたことをひたすら行っている。最近は講演などで多忙であり、仕事は深夜に及ぶこともあるというが、それでもしばしば子供からの「先生、死にたい」といった電話を受けて仕事を中断し話を聞いてあげる。これほどの活動をしているのだから、自分の時間などほとんどないだろう。それこそ子供のために自分を捧げきっているような人生だ。
 私は、世の中にこういう先生が存在するということを知るだけでも、おおいに心励まされる思いがする。そして、水谷先生を見ていると、本当に「かっこいいなあ」という熱い思いがこみ上げてくる。
 水谷先生は、たまたまマスコミで取り上げられて有名になったけれども、世の中にはこのような先生が、数はあまり多くはないかもしれないが、それでもけっこういるに違いない。教師といえども職業だから、別に時間外に仕事などしなくなってかまわないのに、仕事、すなわちお金を稼ぐという目的以上の動機と情熱をもって子供たちを導くというところに、人間として一段階何かをうち破ったものが感じられる。水谷先生は、生徒が立ち直っていく姿を見るときの喜びに支えられ、エネルギーを与えられるから、こうして頑張っていられるのだと語っておられたが、現実には自分が世話をしたすべての子供が立ち直り、自分に感謝をしてくれるとは限らないだろう。膨大な時間と労力をかけてあげたのに、何度も悪いことを繰り返して失望させられたり、感謝されるどころか恨まれたりなめられたりすることだってあるだろう。むしろ、そういう場合の方が多いかもしれない。お金にもならず、苦労ばかり多くて報われが少ないという行為を、いっときだけの情熱ではなく、長い間にわたってひたすら情熱を燃やして続けるということは、何と偉大なことか。
 イエスキリストは、人類の罪を背負って犠牲となり、十字架上で死んだとキリスト教の教義ではいわれるが、毎日毎日、世のため人のために自分の身も人生も捧げている人は、いっぺんに捧げるか、少しずつ捧げるかの違いはあるが、本質的にはキリストの行った行為と同じなのではないかと思う。


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 1月22日  人間なら話せば分かり合えるか?
 「人間なら話せばわかり合える」といわれることがある。それは本当だろうか?
 たとえば、数学のように誰が見てもあいまいな点がないような分野であれば、意見の食い違いがあっても、普通の頭脳の持ち主であれば、話せばわかるに違いない。
 しかし、世の中のほとんどは、数学のように明確な解答があるわけではない。むしろ世の中はきわめてあいまいである。特に、宗教だとか精神世界のような分野になると、意見が違う人でも話せばわかるということは非常にまれなことになってくるかもしれない。たとえば違う宗教を信仰している人どうしが、話し合いによって、「どちらの宗教がすぐれているか」などと話をしたところで「なるほど、確かに私の信じていた宗教は間違っていた。君の信じている宗教の方が正しい」ということにはまずならない。お互いに決してゆずることなく、喧嘩別れするのがオチであろう。
 それぞれ、どのような環境に育ってきたかによっても、人によりさまざまな見解の相違が出てくる。貧乏に育ってきた人は、給料が少ないということは決して許せないことである。性的に厳しく育てられた人は、結婚前に同棲するというのは許せないことである。しかし、そのようなことに対しておおらかに受け入れられる人もいる。そういう人にとって、結婚する相手が少しくらい月給が低くてもそれほど気にはしないだろうし、結婚前に一緒に暮らすことに憤慨する人を見て、なぜそんなにも目くじらを立てて怒らなければならないのか理解できないだろう。
 こうしたことは、もともと理屈ではなく感情的なものであるから、いくら話し合っても、なかなか共通の理解というものは得にくい。そうして結局、この世の中は、いつまでたっても争いというものがなくならない。
 強制収容所からようやく解放された精神科医のフランクルが、こんなエピソードを語っている。仲間の一人が種を植えたばかりの畑を踏みつけて歩いていったのである。それを見てフランクルが「(せっかく農民が苦労して植えた種を)踏んではダメだよ」と注意すると、その仲間は怒ったという。「俺たちは過酷な強制収容所の生活をしてきたんだぞ。畑を踏みつけることくらい、なんだと言うんだ!」
 この仲間からすれば、フランクルという男はなんと小さなことにこだわる堅い奴だと思ったに違いない。しかしフランクルから見れば、彼自身語っているように、自分が強制収容所の生活をしていたことと、畑を踏みつけて農民の苦労をだいなしにすることは、あくまでも別なのだから、そういう行為をすることは悪いことだと思っていたのだ。
 どちらが正しいのだろう? あの、あまりにも非人道的で過酷な強制収容所が犯した罪の重さからすれば、畑を踏みつけることなど、まったく問題にもならないほどの罪ではある。そう思う感覚は決して間違いとはいえない。しかしフランクルのいうように、だからといって農民に迷惑をかけていいわけではない、という感覚も、決して間違いではない。
 この二人が「話し合い」によって理解し合えることができるのだろうか?
 それはかなり難しいように思う。
 しかし、これだけはいえるだろう。あれほどの極限状態を体験し、結果として、畑を踏みつけることなど何も感じなくなってしまった仲間よりも(大部分の人はそうなるかもしれないが)、にもかかわらず、畑を踏みつけることはよくないのだとしっかり認識できる感性を持ち続けていたフランクルの方が、はるかに強い人間であったということを。
 弱い人間は、プライドを傷つけられるのを怖れて、真実というものを見ることができない。ひとりよがりの理屈や観念に逃げてしまい、もっともらしい理屈に固執して、決して自分の非を認めようとしない。強い人間だけが、エゴの小さなプライドなどよりも真実を大切にできる。そしてもし自分が間違っていたら、潔くそれを認めることができる。
 真に強い人間どうしが話し合うならば、たとえどんなに意見が対立したとしても、話し合えばわかり合えることができるのかもしれない。

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