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 2006年3月の独想録


 3月26日  幸せのセンス
 毎日の人生が不幸だと感じていたが、それ以上に不幸なことが起きて、これまでの生活がいかに幸せであったか思い知る……ということがときおり起こる。神経症で悩んでいた人が、生きるか死ぬかの一大事に見舞われて努力奮闘せざるを得なくなり、気がついたら神経症が治っていたといったことがあったりする。
 私たちが普通、「幸せ」というとき、それは苦しいこと、辛いことがなく、ただ楽しいこと、楽なことばかりあるといったイメージがある。一般的に、苦しいことはなく楽しいことばかりある生活はお金があれば手に入ると思われているし、ある程度はそういっても間違いではないだろう。
 しかし、ならばお金持ちは幸せかというと、ひそかに心の空しさを抱えていたり(その空しさを埋めるために宝石や高価なものを買わなければならないといったこともあるだろう)、鬱病になったり、はなはだしい場合は自殺などということもある。
 ホームレスのように、路上で寝なければならない人にとっては、一泊千円ほどのベッドだけの簡易宿舎で寝られることは幸せであろう。しかし、簡易宿舎で寝られたら、今度はバス・トイレ付のホテルに宿泊しなければ幸せを感じなくなるかもしれない。安いホテルに寝られるようになると、今度は高級ホテルでないと幸せを感じなくなるかもしれない。
 そうして、私たちは「幸せ」というものに対する感性をどんどん麻痺させていって、幸せを感じることをできなくさせてしまっているのではないだろうか。
 だとすると、「幸せ」になるためには、「幸せを感じるセンス」を回復しなければならないことになる。
 そのためには、ある種のリセットをするために、あえて不自由なこと、苦しいこと、辛いことを経験してみることが必要になってくるのかもしれない。
 病気になったとき、健康であるというだけで、いかに幸せであったかに気づく。愛する家族を失ったとき、たとえ小さな家でささやかな食卓であったとしても、家族と一緒に過ごす団らんがいかに幸せであったかに気づく。
 けれども、できれば病気になったり家族を失ったりする前に、幸せのセンスを取り戻したい。
 自ら路上で生活してみるとか、断食をするとか、独り山奥に籠もるとか、そういったことをしたら、もしかしたら幸せのセンスが回復し、現在の生活に幸せを感じることができるかもしれないが、実際にはそういうことはなかなかできるものではない。
 私たちはつい、もっているものを見ないで、もっていないものを見て自らを不幸にしてしまう。
 人間はどこまでも向上していくべきであるとはいえ、本当の向上とは単に、もっていないものをもつように努力することにあるだけではなく、もっているものを活かす心というものも育てていくことにあるのかもしれない。

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