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 2006年8月の独想録


 8月11日  男らしい女と、女らしい男
 私は、男女を問わず「男らしい人」が好きだ。女性に対して「男らしい人が好きだ」というのは問題があるかもしれないが、私のいう男らしさとは、「義のために非利己的になれる克己心をもち、筋が通せるたくましさをもっている」という意味だ。その意味では、日本古来の女性、武士の妻などは、「男らしかった」といえる。
 少し前に、いわゆるオタクを主人公にした「電車男」という物語が流行したが、電車の中でからまれている女性を助けるというのは、まさに男らしい行為であり、私はそういう人を「オタク」とはいわない。だから、正確には、あの物語はオタクが主人公ではないと思っている。風変わりな趣味をもっているかどうかなどは関係ない。私は彼を男として認め尊敬する。力の弱い者をいじめる行為は卑劣であり、それを見て見ぬ振りをするというのも、男としては情けないくらい卑劣だ。
 ちなみに、あるテレビ番組が「秋葉原のオタクは、女性がからまれていたら本当に助けるか」というテーマで、秋葉原の路地裏にオタクをおびき寄せ、そこにお芝居で柄の悪い男が若くてきれいな女性にからんでいるところに遭遇させた。果たして百人中、何人が女性を助けるか、という実験であったが、結果は意外(?)で、69人の“オタク”が女性を助けた。面白かったのは、というより感動したのは、彼らが自分の恐怖心と必死に闘いながら女性を助けている様子がありありと伝わってきたことだ。私はオタクというものをとても見直してしまった(これがテレビ局のやらせではないとすればだが……)。あの番組を見た友人が「いや、あれは女性がきれいだったから助けたんだ」といっていたが、しかし本当に腰抜けなら、たとえ相手がどんなにきれいでも助けることはできないだろう。
 実は私も、もう二十代の話になるが、電車の中で図体の大きい中年男が酔っぱらいながら、卑猥な言葉を吐いて女性のカラダに触っていたところを、電車の外に放り出したことがある。私はそのとき、いちいち女性の顔など気にしてはいなかった。私がそのとき思ったのは、もしここで見て見ぬ振りをしたら、私は男としての自信を失い、これから先、何かあるたびに逃げてしまうような情けない男になってしまう気がして、むしろその方が怖かった。その意味では、私が女性を助けたのは、本質的に自己中心的な動機だったといえるかもしれない。
 ところで、男女を問わず「男らしい人」が好きな反面、やはり男女を問わず「女らしい人」も好きだ。男性に対して「女らしい人が好きだ」というのは問題があるかもしれないが、私のいう女らしさとは、「しばしば自己犠牲を伴うほどの繊細な優しさをもっている」という意味だ。
 勇気というのは、野蛮人だってもっている。しかし、繊細な優しさというのは、野蛮人にはない。それはもっとも人間的な資質である。繊細な優しさを持ち合わせない感性というのは、要するに鈍感なだけであって、本来なら怖ろしいものなのに、それが怖ろしいことがわからないから立ち向かっていけるだけのことだ。それは本当の勇気とはいえない。本当の勇気とは、恐怖を感じながらも、その恐怖に支配されず恐怖に打ち克つことだ。
 繊細な人ほど、それが何であれ、人一倍強くいろいろなことを感じる。恐怖も人一倍強く感じるだろう。人の痛みも強く感じるから、優しさというものも出てくる。それほどの恐怖に立ち向かうには、最後の手段しかない。それは、自分を犠牲にしてもかまわないという覚悟だ。そうしないと非常に大きな恐怖を克服することは不可能であると思う。自分を犠牲にする覚悟ができれば、これ以上最悪のことはないから、恐怖に負けない偉大な勇気が出るに違いない。
 ところが、男性には、これほどの勇気を出すことはなかなかできない。自分を犠牲にする覚悟というものが男性にはなかなかできないのだ。その点でいえば、男性の勇気は、基本的に自己防御的だ。だから、ある程度までは勇敢だが、自己防御が不能だとわかると、とたんに参ってしまう。しかし女性はそうではない。自分が傷つき死ぬまで勇気を発揮することができる。その意味では、真に勇敢なのは男性より女性なのかもしれない。
 だから、もし男性であっても、そうした女性らしさをもっていたら、それは逆説的であるが、非常に男らしいということである。その意味で、女性らしい男性もまた、私は好きだ。
 一般的にいえば、女性は「男らしく」なれる可能性を秘めているが、男性が本当の意味で「女らしく」なれることは、かなり難しいと思っている。言い換えれば、女性は、母親と父親の両方の役割を担うことはできるが、男性が母親の役割を担うことは、完全にはおそらく無理ではないかと思う。母親の自己犠牲的な愛は、男には無理だ。
 そういう点から考えても、女性というのは、偉大であると思う。


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 8月20日  運と因果関係
 「弱者は運を信じる。強者は因果関係を信じる」
 この言葉は確かエマソンだったように思うが、私はこの言葉に共感する。占いを研究している私が「運を信じない」というのは奇妙に聞こえるかもしれないが、占いというのは、もともと科学の範囲外にある因果関係を応用したものであって、「偶然」という意味での「運」というものは、実は根本的に否定している立場だ。
 それはともかく、民主国家に生まれ、五体満足に生まれてきたら、あとはその人が幸せになるかどうかは、成功するかどうかは、ほとんどが自分の責任だといえる。
 これは、私自身への自戒である。
 幸せという結果、成功という結果があるということは、そうなるための原因を作りだしたからに他ならない。仕事で成功しないなら、成功しない原因を作りだしてきたからなのだ。異性にモテないのも、モテない原因を作りだしてきたからだ。別に運が悪いからではない。
 しかし、人間は自分に問題があるとは思いたくないので、それを自分とは関係のない事柄のせいにしたがる。それがつまりは「運が悪い」という言葉になって口から出る。
 もちろん、運がいいとか、悪いといったことは、人生にはよくあることだ。しかし、成功者が運だけで成功したかというとそうではない。不幸で人生に敗残したような人が、運だけでそうなったのかといえば、決してそうではないだろう。
 一時的に運だけで成功することはあるかもしれないが、そういう人はすぐにダメになってしまう。恋愛にしたって、「自分はハンサムではないから女にモテない」ということはない。ハンサムでなくても女性にモテている男はたくさんいるし、特にキレイではないが男から愛されている女性もたくさんいる。
 因果関係を信じないと、「自分を好きにならない相手が悪い」といった奇妙な妄想を抱くようになり、好きな女性を振り向かせるために、泣き言をいったり、脅したりするようになる。恋愛はボランティアでもなく、商取引でもないわけだから、泣き言をいったり脅したりしても、どうなるわけでもない。その女性から愛されないということは、その女性の愛を勝ち得るほどの魅力が自分にはない、ということなのだ。それは厳しい現実認識かもしれないが、事実である。
 それを認めることはショックかもしれないし、辛いかもしれないが、その事実を受け入れるなら、つまり、自分を甘やかさずに、すべては自分に原因があることを悟れば、女性に愛されるよう自分を変えていこうという努力をするだろうし、そう努力するなら、いずれは人生がいい方向に進んでいく可能性が大きくなる。
 また、「自分はこんなにも才能があるのに、世間が認めてくれないから成功できないのだ」といいたくなるときもあるかもしれない。仮に、本当に自分に才能があったとしても、それを周囲に認めさせる努力をしなければ(そういう原因を作り出さなければ)、認めてもらえるはずもないのは、道理からして事実である。だから、そういう努力をしない自分が悪いということになる。
 このように、自分に起こる結果を、決して自分以外のせいにするのではなく、すべて自分のせい、というより、自分が因果関係に基づいた行動をしてこなかったせいだと思えるなら、その人は、どのみち人生をうまくやっていけるようになるに違いない。なぜなら、運よりも因果関係を信じる人は、自分自身を絶えず成長させていく動機をもっているだろうからだ。
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