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 2006年11月の独想録


 11月5日  でくのぼう・・・
 訪問ヘルパーの仕事をしている私の友人が、ときどきご自身の体験をメールで報告してくれる。その内容はしばしばとても感動的で、考えさせるものなので、私はこの友人からのメールをもらうのが楽しみだ。先日も、次のようなメールをくれた。私ひとりだけが読むのではもったいないので、許可を得てここに一部を掲載させてもらうことにした。
 
 佐藤さん(仮名)さんは、40過ぎの知恵遅れの方です。独身で料理もうまくできません。でも、何を言ってもニコニコしています。人がしまい忘れたものを、倉庫にしまったり、人が出した空き瓶もきちんと、所定の位置に捨てたり、自分がしたことでなくても、後を片付けます。仕事も単純作業ですが、文句もいわず、夜6時30分まで残業もしています。メッキするものを棒に引っ掛ける仕事らしいのですが、イヤとは言わないで、がんばってきます。私は、佐藤さんは人間として上なのではと思ってます。
(中略)
 もちろん先輩のほうが、たくさんの仕事をこなして如才なく仕事をこなし地位もあります。・・・・(中略) 仕事は、単純作業しかできなくても、文句も言わないでいる佐藤さんが、崇高な心をもっているのではと感じました。ですから、その佐藤さんのヘルプに行っても、楽しいのです。疲れません。

 このメールを読んで、私は宮沢賢治の有名な詩「雨ニモマケズ」を想い出した。

 雨にも負けず
(原文は漢字交じりのカタカナだが、読みやすくするためにひらがなに直した)

 雨にも負けず
 風にも負けず
 雪にも夏の暑さにも負けぬ
 丈夫なからだを持ち
 欲はなく
 決して怒らず
 いつも静かに笑っている
 一日に玄米四合と
 味噌と少しの野菜を食べ
 あらゆることを
 自分を感情に入れずに
 よく見聞きしわかり
 そして忘れず
 野原の松の林の蔭の
 小さな萱ぶきの小屋にいて
 東に病気の子供あれば
 行って看病してやり
 西に疲れた母あれば
 行ってその稲の束を負い
 南に死にそうな人あれば
 行ってこわがらなくてもいいといい
 北に喧嘩や訴訟があれば
 つまらないからやめろといい
 日照りのときは涙を流し
 寒さのときはおろおろ歩き
 みんなにでくのぼうと呼ばれ
 ほめられもせず
 苦にもされず
 そういう者に
 わたしはなりたい
 
 宮沢賢治についてはさまざまな研究が行われており、賢治の人格は、この詩のような立派なものではなかったとする研究者もいる。それはともかくとして、この詩に描かれているような「でくのぼう」と呼ばれる人、そして、最初のメールに描かれていた知的障害の方の様子を聞くと、何となくホッとするというか、「人間はこうでなければいけない」という気持ちになってくる。
 世の中には、権力や金にものをいわせて不正なことをしておきながら、それが知られそうになると、口達者で狡猾にごまかしたり、巧妙に他人のせいにして責任を逃れようとする人がいる。そんな人は、一般にいわゆる社会的地位の高い仕事をしているから、世間からは尊敬されている。
 一方、メールに書かれてあったような、障害をもって単調な仕事をする工場労働者などは尊敬されるようなことはない。いくらまじめに正直に、コツコツと努力しても、社会では軽く見られるのが現実だ。私も人生のある時期、お世辞にも楽とはいえない工場労働をしばらく経験していたことがあるからよくわかる。そして宮沢賢治の詩に描かれているような「欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている」人などは、なめられてしまうのが世の中だ。この社会で尊敬されるには、「欲をもち、怒り、いつも虚栄をはって」いなければならないようにさえ思われたりもする。
 けれど、本当の良識と美的感覚をもった人であれば、こんな人を尊敬するような気持ちは起きないと信じたい。そして、メールに書いてあったような人、「雨ニモマケズ」で描かれているような人をこそ、本当に尊敬するのだと思う。
 メールに書いてあった方は、確かに経済的な生産性という点では低い価値しか生まないかもしれない。しかし、あのような、自然に人の魂を浄めてしまう生き方を通して、他者に与える人格的な影響力という点では、非常に高い価値を生みだしているのではないだろうか。
 こういう人を尊敬し、憧れる人が世の中にもっと多く出てこなければ、この世の中は決してよくはならないと思う。いくら教育改革だ何だといったって、不正をしてもカネや権力がある人が尊敬され、正直で真面目であってもカネや権力がないという理由で軽く見るような価値観が世の中にある限りは・・・。


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 11月29日  いじめによる自殺の問題について
 最近、いじめによる子供の自殺のニュースが、連日のように報道されている。
 さまざまなニュースの中で、子供が犠牲になるニュースほど悲しく痛ましいと感じるものはない。いじめは日本だけの問題かと思ったらそうではなく、イギリスでも大きな社会問題になっているという。
 いじめる方は、まるでネコがネズミにじゃれて遊んでいるように、遊び半分でいじめていたり、あるいは、相手のちょっとした容姿や行動などが気に入らないというだけで、ひどい言葉をぶつけたり、仲間はずれにしたりするようだ。
 私も小学生のときは、そういう感覚がよくわからずに、今から思えばいじめをしていたのだなと思って反省していることもある。たとえば、友達を公園の木に縛り付けてムチで叩いたりした(もちろん本気ではない)。そのときの友達の反応が面白くて仲間とワイワイ楽しんでいた。その後はその友達を解放してあげて、何事もなかったかのように一緒に別の遊びをしたのだが、その友達が翌日、「自分はこんなひどい目に遭った」と先生に言った。おかげで先生からひどく叱られたが、私はお互いに冗談のつもりでやっていたと思っていたので、彼がそのことを深刻に思って先生に言ったことを知って、とても意外というか、驚いたのを想い出す。まさか、そんなに辛い思いをしていたとは想像もできなかったのだ。
 また、逆にいじめられたこともある。東京から埼玉の中学に転校してきたとき、カッコつけているとか、態度が生意気だといったことで、物を隠されたり、机を汚されたり、暴力をされたりした。つくづく学校に行くのがイヤになったが、あるとき、ついに堪忍袋の緒が切れて、私をいじめている中心人物をこれでもかというほど殴りつけてやった。その日以来、誰も私をいじめる者はいなくなった。結局、最後には、私をいじめていたその友人とも仲良しになった。
 人間ではなく、動物をいじめたこともある。子供の頃、カエルの口に爆竹をくわえさせて爆発させたり、凍った生物が生き返るかどうかを確かめたくて金魚を冷蔵庫で凍らしてしまったこともある。今から思えば何と残酷なことをしたことかと思う。今ではゴキブリさえも殺さないで外に逃がしてしまうような人間になったが、子供の頃は、カエルや金魚などは「生命」というより、「動くモノ」といった感覚でしかなかったのだ。
 成人する頃には、上記のように友達や動物をいじめるといったことは、少なくても意識的にはしなくなった。私はたぶん、どちらかといえば、親切で動物をいたわる人間になったと思う。
 けれど、30歳を過ぎてから、今から思えばいじめといわれても仕方がないことをして反省していることがある。すでに高齢に近づいてきた親戚の女性が、私の家に泊まりに来たことがあった。そのとき私は、部屋の掃除をしていて、その掃除したばかりの部屋に、汚れた荷物バッグをおかないようにと頼んでおいた。ところが、それからわずかな時間しかたっていないのに、その汚れた荷物バッグを、掃除したばかりの部屋においたのである。私は、いましがた注意したのに、それを無視するかのように平気でそうした行為をされたことに少し腹が立ち、他の親戚の人がいる前で「この部屋にはおかないでくださいって言ったじゃありませんか!」と言ってしまった。そうしたら、その女性は、部屋の隅に行ってシクシクと涙を流していた。私は「しまった!」と思って、その光景を見たときに全身の血がサッと引いていくのを感じた。
 後で私は父に呼ばれて怒られた。「歳を取ると、忘れっぽくなるんだよ。あんな言い方をすることはないだろう!」。その通りだ。
 当時の私は、自分でいうのも何だが、記憶力は悪い方ではなかった。だから、ちょっと前に注意したことを忘れてしまうということがあるなんて、とても想像できなかったのだ。
 けれど、すでにいい歳になってしまった現在、私は少し前に言ったことや書いたことを忘れるということが少し目立つようになってきて、あの親戚の女性の辛さや悲しみが、今になって身に染みてわかるようになった。何も好きで掃除したばかりの部屋に汚れた荷物バッグをおいたわけではない。荷物バッグをおいてしまって、一番「しまった!」と後悔したのはご本人のはずなのだ。「申し訳ない」と思うと同時に、記憶力が衰えてしまった自分が悲しくなり、情けなく思ったに違いないのだ。そんな人に向かって、私は他の人のいる前で、あのような責める言葉を吐いてしまったのだ。これはたちの悪い「いじめ」であるといわれても何もいえない。
 どうしたら、子供のいじめの問題がなくなるのだろう?
 ひとつには、子供にいろいろな体験をさせることではないかと思う。今の子供は、勉強かテレビゲームばかりしている。しかし勉強といっても机上の学問だし、ゲームなんかもバーチャルなものだ。もっと肌で感じるような、さまざまな体験をする機会を与えてあげればいいのではないかと思う。なるべく核家族なんていうものもやめて、お年寄りと一緒に暮らしてみればいいと思う。お年寄りはある種の弱者だから、弱者がどんな辛い気持ちで毎日を過ごしているか、一緒に暮らせばその痛みも多少は理解できるようになるだろう。
 そうして、いじめられる人の気持ちを自分のことのように実感し、理解できるような、そんな感性さえ育つならば、いじめの問題は今よりはずっと少なくなるに違いない。

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