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 2006年7月の独想録


 7月28日  人生ははかない。しかし・・・
 私は癌患者のためのホスピスにカウンセラーとして顔を出しているが、そこにいると人間の死に対する考え方というものを深くさせられることが多い。
 ホスピスという場所は、ご存じのように、積極的に治す治療は行わないで、余生をなるべく苦痛なく、そして毎日を意義あるものにするための緩和ケアを主とする病院施設である。言葉は適切ではないかもしれないが、「死ぬために来る」ところである。もっとも、最近は、入院生活だけをホスピスで送り、癌を治すための治療を他の病院で受ける患者さんもいる。放射線治療や抗癌治療、あるいは漢方薬などの代替医療に頼る患者さんも少なくない。
 しかし残念ながら、私が直接に知る限り、そういう治療によって癌が治ったという患者さんは一人もいない。せいぜい多少の延命効果があるくらいで、ほとんどの場合、効果なく死を迎えてしまう。中にはそんな治療なんてしない方が長生きしたのではないかと思うことさえある。単に効果がないだけならまだいい。放射線治療や抗ガン剤の場合、副作用に苦しんだ末に亡くなってしまうといったことが多い。癌そのものよりも、むしろ副作用の方が苦しいのではないかと思うことさえある。
 もしも、無理な治療などしなければ、元気なうちに家族と旅行に行くなど、楽しい想い出を残せたかもしれないのに、それさえ犠牲にして拷問のような苦しい思いをし、おまけに高い治療費によって経済的にも苦しくなって死んでいく。踏んだり蹴ったりといった感じである。
 もちろん、癌の種類によっては治癒率が高いものもあるので、一概にそういう治療が悪いというわけではない。高い確率で治るのなら、治療はぜひとも受けるべきであろう。
 しかし、その確率が低い場合、私なら、無理な治療はしたくないと思っている。ただ、実際にそうした事態に直面したら、どうなるかわからない。家族のこともあるから、一か八かに賭けなければならないということも出てくるかもしれない。
 家族のことはともかくとして、自分だけのことなら、このとき問われるのは、目前に現実となった死に対して、どういう姿勢で臨むかが問われているのだろう。
 私の希望、あくまでも希望だが、死に直面してジタバタしたくはない。一年かけてようやく咲いた桜の花が、ほんの2週間ほどで散っていくように、潔く死に臨みたい。
 いわゆる人生の困難や障害といったものに対しては、決してあきらめず克服するまでしぶとく粘り続けるべきだと思うけれども、死というものが訪れ、それがほとんど避けられない状況のものなら、私は静かに無抵抗に、それを受け入れたいと思う。人生の苦難は立ち向かうべきものであるが、死それ自体は、立ち向かうべきものではないと思っている(誤解のないようにいうが、自殺だとか、事故や災害などが起きたときに簡単に死を受け入れるべきだといっているのではない)。
 治癒率が10%といわれたとき、その10%に賭けるべきなのか、それとも治療を放棄して死を受け入れるべきなのか、その判断は微妙だし、単純に決められるものではないかもしれないが、もしそのとき、その死が「寿命」の意味をもって訪れてきたのだと感じたら、私は潔く、その死を受け入れたい。
 人間はいつ「寿命」が訪れるかわからない。それはまだずっと先かもしれないし、3年先かもしれないし、1年先かもしれないし、明日かもしれない。
 それがいつ訪れるかわからないという点において、人生というものの本質が、実にはかないものであるということがわかる。人生ははかない。命は尊いものとはいえ、毎日、どれだけの命がはかなく消えていき、実際にそれは虫が踏みつぶされるくらいの価値でしか扱われていないことか。
 夢を見て眠りながら生きるのではなく、この現実世界を目覚めて生きるとは、人生や命のはかなさというものをしっかりと覚悟して生きるということだ。
 だが、このことは必ずしも悲観的、悲愴的に生きるということではない。
 常に人生のはかなさを自覚し、覚悟して生きていると、視界が澄んで、さまざまな人生の出来事に対して的確な判断ができるようになることが多い。人生はしょせんはかないという覚悟があれば、勇気をもって冒険に挑む気概が生まれ、結果的にそれが大きな実を結ぶことにつながる場合もある。はかなさをすでに覚悟しているから、小さな欲望に心乱されることもなく、欲望よりも美しく生きることに価値を置くようになる。結果としてそれが気高い品格となり、他者の信頼と愛を勝ち得て人生を豊かにしていくことにもなる。
 皮肉なことに、人生のはかなさを自覚して生きたそういう人の存在を、残された人は決して「はかない」と感じることはない。

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