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 2006年9月の独想録


 9月8日  本当の優しさとは
 「自分には厳しく、人には優しく・・・」という言葉がある。
 実行するのはとても難しいことだ。どうしても、自分には優しく、人には厳しくしてしまう。とはいえ、これはとても美しく、立派なことである。
 ところで、自分には厳しくして、人には優しくするというのは、なぜなのだろう?
 自分に厳しくするのは、なぜなのだろう?
 それは、自分を成長させるためであろう。「このくらいでいいかな」といった妥協をせず、「もっと理想に近づけなければならない」といって、やるべきことをキチンとするためだろう。そして結局、そのように自分を成長させ高めることが、自分の幸せにつながるからであろう。
 ならば、他者の幸せについても同じことがいえるのではないだろうか?
 つまり、他者が「このくらいでいいや」などと、いい加減なことをしていたら、その人は成長しないし、幸せにもなれないだろう。
 そこで、もし本当に他者に対して思いやりがあるなら、換言すれば、優しさをもっているなら、「そんないい加減なことではダメだ。もっと理想に近づけるんだ」というだろう。
 しかし、それは、他者からすれば、「厳しい」というように感じるだろう。他者は、「いいよ、いいよ、そんなに無理しなくたって」といった、いい加減を言葉を「優しさ」と勘違いすることが多いだろう。
 こう考えると、「自分には厳しく、人には優しい」という人は、「自分は成長して幸せになるために厳しくするが、他人は別にどうだっていいから優しくするのだ」ということになりはしないか?
 だとするなら、全然、立派なことではない、ということになる。体裁のいいエゴイストということになる。
 もし、本当に愛のある優しい人ならば、つまり、自分も他者も幸せにしたいと願っている人ならば、「自分には厳しく、人にも厳しく・・・」ということになるのではないだろうか?
 手術でメスを使い、患者のお腹を切り裂いている医師は、患者を治したいという気持ちをもってそうしている。しかし、何も知らない未開人がこの光景を見たら、医師は患者を苦しめているとしか思えない。未開人が手術台に乗せられ、メスでお腹を切られそうになったら、必死で抵抗し、医師を憎むだろう。

 こう考えると、「自分には厳しく、人にも厳しく」するという人は、それが優しさから出ている行為だとしても、「おせっかい」ということになるかもしれない。「誰も自分を成長させてくれなんて頼んだ覚えはないよ」といわれるかもしれない。そして、おせっかいをすることが、果たして愛のある行為なのだろうか? 本人の自由意志を尊重するべきではないのだろうか?
 けれども、「このままではこの人は不幸になる。おせっかいと思われようと、可能性にかけて、厳しく接した方がいいかもしれない」と考えるかもしれない。そのように考えるなら、それはやはり愛のある行為ではないのかとも思われる。
 私も、こういうことに悩むことが多い。たとえば、その人から、その人の人生の夢を話すのを耳にする。すると私は、その夢を叶えるにはどうすればいいかと考える。そして、その夢の実現のために、この人はこうした方がいいとか、こうすべきではない、といったことがわかってくる。
 たとえば、将来、占い師になりたいという希望を聞いたとする。占いの知識も実践も上手だが、お客さんに対する言葉使いがまずい。これでは、お客さんからそっぽを向かれ、この人の夢の実現にとって障害であると私は考える。そこで私は、その人の言葉使いを注意したとする。けれど、そのことを恨まれるといったことがある。余計なおせっかいであると。
 もちろん、その人は私の弟子ではないから、私は何かを教える義務もないし、相手も、私から何かを教わらなければならない義務もない。私はただ、親切心からそういっただけなのだが、それはおせっかいと思われてしまうわけだ。
 こうなると、私の方も「せっかく親切でいってあげたのに」と面白くない。これなら、たとえ相手がどうなろうと、“優しく”接していれば、相手からよく思われて得だ・・・という打算的な考えが働くようになる。そうして結局、「自分には厳しく、人には優しく・・・」といった姿勢になってしまう。この場合の「優しく・・・」は、本当の優しさなんかではないのだが。

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