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 2006年2月の独想録


 2月5日  すべての病気の根本にあるもの
 かつて、「精神と病気の関係」についてのセミナーを行ったことがある。
 たとえば、肺の病気になる人は、どのような精神的な原因があるのかといったことを、いくつかの本に書かれている説を紹介しながら検討していった。
 肺など呼吸の障害をもつ人は、呼吸という行為が空気を出し入れするところから、他者との心のやりとりの暗喩として意識が解釈するらしい。具体的には、他者から愛情を受け取るばかりで他者に愛情を与えようとしない人がなりやすい(という説を唱える人がいる)。なぜ愛情を受け取るばかりで愛情が与えられないかというと、結局は本人が愛情に飢えており、その空虚感を埋めようとして「もっと、もっと」と欲し求めるからであり、与えてしまうとその空虚感が深刻になってしまうと(無意識的に)思い込んでいるからだという。
 また、胃腸の病気については、胃腸という働きが食物を消化して吸収するという機能をもつことから、何か自分に受け入れられない(つまり、消化し吸収できない)考えをもっていることが原因であるという。下痢は、自分に受け入れたくないものを早く出してしまいたい、拒絶したいという精神の現れであり、便秘は、自分の所有したものを(たとえそれが不要なものでも)失いたくないという精神の現れであるという。
 今、「現れ」という言葉を使ったが、言い方を変えれば、精神が表現したいものがあるのだが、それが抑圧されているために、身体を使って表現されているということになる。それが症状であり病気というわけだ。
 つまり、精神の病的な欲求が身体を通して表現されたもの、それが病気であると、こういう解釈だ。こうした考え方は、可能性としてはおおいにあり得ることだが、あまりにも絶対的な真理のように固定されてしまうと、病気の人はすべて精神的に病んでいるのだと決めつけてしまいやすい。これは危険なことだ。
 病気の原因は精神だけではないだろうし、仮に精神に原因があって病気になったとしても、それがその人の人格的なレベルを決定するわけではない。たとえば、凡人は自分のささいなことで悩むかもしれないが、聖者は人類のことを考えて悩むかもしれない。それで病気になるかもしれないが、同じ病気でも、その原因となった精神的な悩みのレベルには大きな違いがあるのだ。
 いずれにしろ、この種の研究でもっとも注意しなければならないことは、これが人を責める材料に使われてしまうことである。「あなたがこんな病気になっているのは、心がけが悪いからですよ」という言い方がまかり通ってしまうことだ。こうしたことは愛も思いやりもなく、人を落ち込ませるだけである。
 しかしながら、このような過った用いられ方さえされなければ、精神と病気の関係について研究を深めていくことは意義があるように思われる。
 まず第一に、病気というものに対する考え方が大きく変わるであろうからだ。
 これまで病気というものは、ただ悪いものであり、とにかく早く消し去ることがよいとされた。けれども、以上の考え方からすれば、体は精神の表現の代替者に過ぎないわけだから、治療すべきは体ではなく精神ということになる。にもかかわらず体をいじくることは、要するに症状を抑圧させているだけに過ぎない。表現する力を奪っているだけである。体が表現できなくなれば、精神はますます抑圧され、精神に重大な損傷をきたす可能性も否定できない。その方が病気としてはより深刻であろう。
 病気というものは、精神に、生き方に、どこか間違っているものがあるのだと教えてくれているのだ。生命としての、人間としての、本来の生き方に反しているために病気になったのだと。
 そこで、病気と精神の関係というものを研究することにより、病気を通して、自分の考え方の、生き方のどこが間違っていたのかを明確に知ることができ、精神的成長に大きく寄与することができるに違いない。
 ならば、健康的な精神という、スタンダードな規準というものがあるのだろうか?
 つまり、ある基準点となる座標軸から精神状態がズレると病気になりますよといった、そんな基準があるのだろうか?
 あるとすれば、それは全体と個との調和であると私は思う。つまり、個の存在のあり方が、他者すなわち全体との間に不調和なものをもたらす精神状態になったとき、調和という基準からズレたことになり、その歪んだ精神のあり方が体を通して表現され、病気という形になるのではないかと。
 したがって、内臓の部位や病気の種類に応じた精神状態というものが指摘されているものの、結局のところ、根本にあるのは、「全体との不調和」なのではないだろうか。
 個と全体(他者)との調和的な関係性を「愛」と呼ぶならば、すべての病気の根本にあるのは、「愛の欠如」ということになる。


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 2月15日 ごまかす、ということ
 このところ、社会を騒がせているいくつかのニュースを見ていて脳裏に浮かぶ言葉がある。
 それは「ごまかし」という言葉だ。粉飾決済や不正な株価操作、偽りの耐震強度の設計、建築の認可後に障害者用の設備を取り去ったホテル、どれもごまかしという言葉が当てはまる。
 ごまかしというのは、人に知られたくないことを、バレないように嘘をつくことである。もともと隠し事をしなければ、ごまかすという必要はないわけだ。
 もちろん、まったく嘘や隠し事をしないで生きていくということは、ほとんど不可能であるし、また、それが必ずしも善いこととも限らない。もうすぐ死んでしまう患者に対して「たいしたことはないよ」といって、医師は嘘をつき隠し事をしなければならないこともある。もらった手作りのチョコレートを食べたらすごくまずかったけれど、くれた人には「おいしかったよ」と嘘をつかなければならないこともある。もしも正直に「あなたはもうすぐ死にます」といったり、「もらったチョコレート、すごくまずかったよ」なんていったら、相手を傷つけるし、あらゆる面で物事がうまくいかなくなってしまう。ごまかすということも、時と場合によっては必要になってくることも事実なのだ。
 しかしながら、ごまかすという行為が日常的になってしまうと、深刻な問題に発展する。
 ごまかすという行為は、問題を先送りすることを意味する。欠陥を内部に秘めたまま物事を進行させていくことになるわけだ。たとえばクルマのメカニズムに欠陥があるのに、「問題ない」といってごまかし、そのまま走り続けた結果、ついには重大な事故になるということがあるし、実際にあった。
 ごまかすことを続けると、ごまかすことが上手になり、ますます泥沼にはまりこんでしまう。いろいろと問題が生じても、その場はとりあえずことなきを得て、表面上は物事がうまく進行しているように見える。しかし、そのごまかしが積み重なって、ついにはどうにもできなくなってしまうときが訪れる。もはやごまかしは通用せず、ちょっとやそっとでは修復できないくらいめちゃくちゃになっている。このようなことは、会社経営にも当てはまれば、夫婦や家族、人間関係にも当てはまるし、健康にも当てはまる。不健康な生活をしながら、痛み止めの薬でごまかして根本的に治療せずに過ごせば、ついには致命的な病気となってダウンしてしまう。
 ごまかしというものは、人生における毒のようなものだ。一度ごまかせば、その人の人生に毒が注入されたことになる。少しくらいなら何ということもないかもしれないが、毒が蓄積してくれば、ついには自滅してしまう。
 仕事の中で、人間関係の中で、生活の中で、何かごまかしていることはないだろうか?
 あるなら、その大小にかかわらず、すぐにでもごまかすことをやめ、正直になり、解毒するようにした方がよい。ごまかしは、一度してしまうと、後で「ごまかしていました」というのは、相当に恥ずかしいことである。そのためさらにごまかしを重ねることになるのだが、こうなる前に、最初からごまかしなどしない方がよい。
 まったくごまかしなく生きるのは無理だとしても、“なるべく”、ごまかさないように生きたいものだ。ごまかすということが少なければ少ないほど、結果として物事は健全なる循環を長く続けることになるし、第一、精神的にも平和で爽やかであろう。


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 2月28日  勝ち組と負け組
 「勝ち組」だとか「負け組」といった言葉が使われだしたのは、いつ頃からだろうか?
 勝ち組というのは、職業的に成功した人、いや、むしろ、お金をたくさん稼いだ人といった方がよさそうである。一方、負け組というのは、高給ではない職業についている人のことだ。
 これからの日本社会のあり方を予測した本によれば、経済所得格差は今後ますます開いていき、いわゆる勝ち組に属する人は2割くらい、残りの8割は負け組になるらしい。そうなると、たとえば平均年収がいくらといった数字が出てきても、あまり参考にならない。8割が負け組ならば、おおざっぱにいって、8割が平均年収より下ることになるからだ。そして残りの2割が平均年収をはるかにうわまわった収入を得ることになる。意味ある平均年収を算出するなら、勝ち組の平均年収、負け組の平均年収といったように分けなければならないだろう。
 それはさておき、この勝ち組とか負け組といった発想は、あきらかに「競争」が背景になっている。競争というのは「人より自分が」の世界だ。こういう価値観が土壌になければ、「勝ち組、負け組」といった発想が芽生えることはないだろう。
 すなわち、日本人のものの考え方は「オレが、オレが」なのだ。虚栄とエゴの発想である。「助け合いの精神」「共存の精神」が土壌にあったら、「勝ち組・負け組」などという言葉が社会にこれほど飛び交うことはなかっただろう。
 しかも、ほとんどすべてがお金で計られている。人間の価値がお金のあるなしで計られている。だから、「稼ぐが勝ち」などというタイトルの本が恥ずかしげもなく書店に並べられ、なりふりかまわず株だなんだと金儲けに熱をあげるようになる。
 しかし、あえていうまでもないことだが、「勝ち組・負け組」というのは、経済的な視点ばかりでは決められない。むしろ、人生という広い視点から評価するべきではないだろうか?
 経済的には勝ち組でも、人生という視点でいえば「負け組」かもしれない。経済的には負け組でも、人生の勝ち組となるかもしれない。
 もともとお金というものは、基本的な衣食住を満たしてしまえば、それ以上のお金は「心の満足」のために使われる。ブランドの持ち物や高級車などは、その機能が優れているというよりは、ステイタス・シンボルを所有しているという心の満足を得るために買われるものだ。ひらたくいえば「人より私の方がすぐれている」といった心の満足である。「オレが、オレが」の発想だ。
 けれども、ちょっと考えればすぐにわかるように、こういう発想は見かけの華やかさや気品さとは裏腹に、きわめて野卑で低レベルの発想である。野蛮人が隣人の肉を奪い、勝ち誇って胸板をたたくのと本質的に変わらない。人間の高貴さは、「自分さえよければ」といったエゴの衝動に宿るのではなく、自分のことのように人や世界のことを思いやる意思に宿る。
 そして、いかにそういう生き方を貫いてきたかどうかによって、本当の意味で、人生の勝ち組となるか、負け組となるかが決まるのだ。なぜなら、そういう生き方をしたときほど、真に心の満足を得られるものはないからである。
 とはいえ、だからといって、勝ち組の人は「人生の負け組」となり、負け組の人は「人生の勝ち組」になれるのだと、そう単純なわけでもない。
 ある本によれば、今の若い世代が将来において負け組になる大きな原因は、「だらしなさ」と「コミュニケーション・スキルの欠如」であるという。
 今日、「自分に合わない」といって仕事が長続きせず点々と職を変える若者が多いらしいが、本音は単に「面白くないことはしたくない、キツイ仕事はしたくない」ということらしい。これでは何をやっても中途半端となり、所得が低くなってしまうのは当然であろう。「自分に合った仕事をしたい」という考え方は支持できるが、そのためには、いかなる苦労も障害も乗り越えていく忍耐と克己心がなければ、単なる幼稚な甘えということになる。
 これでは経済的にも負け組であり、人生においても負け組になることは必至であろう。それならまだ、経済的に勝ち組となっている人の方が「人生の勝ち組」にもなる可能性の方が大きいといえるだろう。親の遺産や株などが当たって「勝ち組」になった人は別として、経済的に勝ち組になるには、それなりの忍耐と向上心、他者とうまくやっていくコミュニケーション・スキルをもって努力し続けなければ無理であろうからだ。あとは「人生の勝ち組」になるために必要なのは、「世のため人のため」という目的だけである。そのような目的をもつこと自体が容易ではないかもしれないが、少なくても忍耐も向上心もなく、コミュニケーション・スキルも磨こうとしないだらしのない怠け者を改心させるよりは、はるかに簡単であるに違いない。
 努力したからといって、経済的に勝ち組になれるとは限らないが、世のため人のための努力が不毛に終わることはない。なぜなら、その報酬は無私の愛、心の満足にあるからだ。愛の行為は、行為そのものがすでに報酬だからである。
 「人生の勝ち組」になった者こそが、真の意味での勝ち組である。もっとも、彼の目的は競争ではなく「共存」にあるので、勝ったとか負けたという発想など頭にはないだろうけれども。

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