HOME独想録

 2006年6月の独想録


 6月4日  宗教と傲慢さ
 先日、ちょっとした用事があって、ある会社の社長に会いにいった。社長を待っている間、すでに顔なじみで友達のように親しい受付嬢と雑談をした。そのとき、ある人物のことが話題になった。その人は宗教団体の代表で、この会社に相当な資金援助をしている。社長はその宗教の信者というわけではないが、物心ともに世話になっているため、その応接ぶりは丁重そのもの、VIP中のVIPという感じだ。
 私はその宗教家の著作をちらりと見かけたことがある。自分はある歴史上の聖者(それが誰であるかを書くとこの宗教家が誰かわかってしまう可能性があるので書けない)からお告げを受けたといい、その内容を本にしてまとめた内容だった。「善いことをしなさい」、「謙虚になりなさい」といった、特に目新しくはないにしても、それなりに立派な道徳的教訓が書き留められていた。
 さて、その宗教家はときどき会社に電話をしてくるのだが、あるとき、電話をとった受付嬢が、相手の声が小さいため名前を聞き取れなかったので、「恐れ入りますが、お名前をもう一度お願いいたします」と尋ねた。すると「わしの名前もわからんのか! この馬鹿者が!」と、いきなり怒鳴られたという。彼女は非常にショックを受けた。
 この話を聞いて、首をかしげたくなるような、何ともいえない気持ちになった。
 この言葉をそのままとらえるなら、「俺はおまえの会社に大きな貢献をしている〇〇様だぞ! なのに俺様の名前がわからんというのは、どういうことなんだ!」
 ということのように思われた。あまりにもわかりやすい傲慢さである。
 人間は、どんなに気をつけていても、つい傲慢なところが出てしまう。しかし普通はとても微妙な感じで出てしまうのであって、ここまで傲慢まるだしというのは、あまりにも露骨すぎており、わかりやす過ぎて、かえって首をかしげたくなってしまったのだ。
 たとえば、弟子に対して「馬鹿者が!」というのなら、そこには何らかの弟子に対する教育的な意図があったのではないかと推測する余地もある。
 けれども、相手は弟子でもなく、社長でもなく、単に受付として勤務しているだけの若い女の子だ。そんな彼女に対して、あのような乱暴な言葉を浴びせかける意図だとか、宗教家らしい崇高な理由といったものがあったとは、私には思えない。
 第一に、苦情をいうなら社長に向かって「受付の者に俺を丁重に扱うように教えろ」といえばいいのであって、受付嬢に怒鳴るというのは、あきらかに筋違いである。しかも、受付嬢は相手の声が低くて聞こえないから尋ねただけであり、それであのような乱暴な言葉を吐くのは異常としかいえないし、常識ある人なら自分の声が小さかったことを詫びるのではないだろうか。
「善いことをしなさい」、「謙虚でありなさい」と、たとえそれが聖者からのメッセージであった(自分が言ったのではなく聖者がそういった)としても、そうした本を自ら書いているわけだから、多少なりとも自覚というものがあってよさそうだ。なのに、あのような暴言を吐くという神経が、私には理解できない。自分で言ったり書いたりしていることと、実際の行いとの間に、ギャップを感じないのだろうか? 少なくても宗教家を名のる人間なら、そうした言行一致ということは、もっとも注意して戒めるべき課題であると思うのだが。
 もっとも、この宗教家は相当お金をもっているらしいから、もしかしたらこの人物は単に宗教家の衣をかぶった商売人にすぎず、信者から金を巻き上げるような人間なのかもしれない。だとしたら、本で書いていることは立派だが、影ではあのような暴言を吐くというのも、理解できなくもない。
 けれども、どのように金を集めているのかわからないが、それが正当な手段であれ詐欺的な手段であれ、金を集めるには頭が悪くてはできない。彼の場合、宗教家としての名声に傷がついたら、おそらく集金面において不利になるだろう。真にすぐれた(?)詐欺師というものは、表でも影でも、可能な限り善人を装いスキがないものだ(私は大企業から数億円をだましとったという詐欺師と話したことがある。彼はそんな人物だった)。なので、会社の顔であり多数の人間と連絡を取り合っている受付嬢に悪い印象を与えたら、それこそあっというまに悪い評判が広まってしまうことは、当然、予想できるはずなのだが、この点でも、この宗教家の言動は理解できない。
 あるいは、もともとこの宗教家は口癖が悪く、「馬鹿者が!」と怒鳴ることは、別に傲慢だとか、そういう認識はなかったのかもしれない。単なる挨拶程度の言葉だったのかもしれない。しかし社会通念上、こうした言葉はあきらかに人に不愉快な思いをさせ、場合によっては人間不信にさせることもあるだろうから、その点においても宗教家としては「井の中の蛙」的で失格ではないのかとも思われる。
 人間は、物事がうまくいき、お金や名声が高まり、すばらしい本を書いただけで自分自身がすばらしい人間なのだと錯覚してしまったりすると、傲慢という、非常に制御が難しい衝動が頭をもたげてきて、ついにはそれに自分自身が奪われてしまうように思われる。恥も何もなくしてしまい、破廉恥な行為を平気でするようになってしまうのかもしれない。
 だが、はたで見ていて、傲慢さや自惚れ、他人を見下して差別することほど、醜悪なものはない。まるで汚物を目の前に出されたような嫌悪感を覚えてしまう。
 表面的に善人をつくろうのが「偽善者」といわれるが、しかし心の底から善人だという人はどれほどいるのだろう? どんな人も心の中に悪いものをもっており、しかしそれを野放しに発揮しては世間が迷惑するから、頑張って「偽善」を装っているのではないのか。
 その意味では、逆説的だが、必死になって偽善を装っている人こそが善人ではないのだろうか。「俺は悪い人間だ。だから悪いことをする。どうだ、俺は偽善者ではないだろう」などという理屈は、世の中では通用しない。宗教家の場合、世の中で通用しないなら、存在していないに等しい。



                                            このページのトップへ    
 6月14日  人生のお手本
 自宅に戻ってみると、私の著作を読んでくださった読者の方から手紙が来ていた。70歳半ばの男性からだった。私がある雑誌に書いた文章を読まれて、この方はお父様の生き方に思いを寄せられ、お父様について自ら書かれた文章を寄せてくださったのであった。
 それを拝読して、私はとても深い感銘を受けた。何というすばらしいお父様であろう。まさに人生のお手本ともいうべき方であった。こんな素敵な方を私だけが知って終わらせてしまうのはあまりにももったいない。そこで、、お手紙を下さった読者の許可を得て、この場でその一部を抜粋してご紹介させていただくことになった。

  お父さん、ありがとうございます − 父を偲ぶ ー
                               汲 田 克 夫

 私の父は、魚屋渡世一筋で、昭和四十七年四月四日、八十二歳の生涯を閉じました。
 生前の父をよく知っている方から、先日こんなお手紙を頂きました。

「(前略) 私がお店に入ると、お父さんはいつも大きな声で『いらっしゃい』と、子供の私にも気持ちよく声をかけて迎えてくれました。そして、たった二匹のサンマを買った私にも、大きな魚を買ったお客さまと何ら変わらず、分け隔てなく、『毎度アイス』(『アイス』は「ありがとうございます」の略語)の声をかけてくれました。私の家は貧しくて、二匹のサンマを七人家族で分け合って食べたものでした。お客さんに感謝の気持ちで接遇されたあなたのお父さん。私が四十三年四ケ月の公務員としての職責を全う出来たことも、あなたのお父さんから、お客さんを大切にするという尊い精神的財産を頂いたからだと思います。(後略)」

 父をこのように讃嘆し、父から良きものを学んで実践されたこの方が立派なのです。私はこのお手紙を拝読して、霊界の父がこの方を通して私に、「縁あるすべての人に親切を忘れないように」とのメッセージを送ってくれたのだと思い、「お父さん、ありがとうございます」と手を合わせました。
 父の家は貧しかったせいか、貧しい家の人にはとりわけ優しかったです。「貧しい家のお客さんに、高い値段の『鯛をどうですか』と勧めないように」と言われたことがあります。その方の自尊心を傷つけないようにとの配慮だったと思います。
 我が家は病院・学校・老人ホームなどからの注文が多く、下ごしらえ(調理)して配達しています。大量の調理ですので、つい雑になりやすいのですが、父はよく「このお魚を親やきょうだいや子供が食べると思って、心を込めて丁寧に調理してください」と言っておりました。「仕事はいやいややってはいけない。悦んでやりなさい」と子供たちに言い、父自身がいつも上機嫌で働いていました。私は父が不機嫌で仕事をしている姿を見たことがありません。父の考えはこうでした。
「悦んで調理した魚は、食べる人を元気にする。いやいや調理した魚を食べると、体によくない。」
 これは禅寺の典座(注:てんぞ=食事係の僧侶。修行が進んだ僧でなければ典坐をすることはできない)の心構えによく似ています。まさしく、禅僧が魚屋をやっているような父でした。
 私の母はよく「お父さんは魚屋の天才」と言っていました。わが家はかつてお客さんの数で県下一でしたが、それには父の才覚がありました。父は戦前から「薄利多売」を店の看板にしていましたが、それでも儲けるには父の工夫がありました。品物を安く仕入れるために、父は腹巻きに現金を入れ、キャッシュで問屋と取引していました。例えば、安く大量にお皿を仕入れ、戦前から皿付きでお刺身を販売していました。お皿はおまけでしたから、お客さんには悦ばれました。お客さんにどうしたら悦ばれるか、それが父の工夫の原点でした。
 我が家の宗旨は浄土真宗ですが、父の信仰は「お天道さまが見ている」でした。「天知る、地知る・人知る」という信念だったのです。父は今でも私に、「お天道さまに見られても恥ずかしくない生き方を貫きなさい」と望んでいると思います。父は今も変わらず私を励ましていて下さいます。肉体は無くても、生命は生き通しなのですから。

 労働は神聖なり
 私は、大学受験に2度失敗し、2浪しました。忘れられないのは、大学受験に失敗した時の父の私にしてくれた事です。最初の不合格の時、東京から帰るとすぐ父は「自転車の後ろに乗れ」というのです。何と私を古道具屋へ連れていき、空気銃を買ってくれました。父はあらかじめ目星をつけていたらしいのです。勉強せよとは言わず、「当分これを持って気晴らしをしなさい」と勧めてくれました。私は父の配慮が痛い位わかりまして、奮起しました。ところが、また不合格で2浪という事になり、落ち込んで東京から帰ってきますと、また父が「自転車に乗れ」というのです。今度はカメラ屋へ私を連れていき、セコハンのカメラを買ってくれました。そのカメラはコレラというドイツ製の良いカメラでした。父は言いました。「当分、このカメラで自然を写して歩くが良い」と。「勉強せよ」とは言いませんでした。私も親になり、大学受験不合格の子どもにこれだけの配慮が出来たかどうか、とても父のようには出来ませんでした。父に感謝、脱帽です。
 私がいよいよ愛媛大学の教員に採用され、就職するので報告に帰省したとき、父に何か書いてほしいと色紙を出しますと、父は早速、毛筆で「労働は神聖なり」と書いてくれました。
(その色紙は今も玄関にかかっています)そして、こういう話をしてくれました。
「魚屋は調理で手抜きをすると、お客さんは来なくなる。お客さんの勤務評定はまことに厳しい。ところが、学校の先生はすこし手抜きをしても身分が保障されているから首にならない。お客さん(生徒)は付く。『先生と乞食は三日やると止められない』というのはそういう事だ。先生はよっぽど自戒しないと堕落する。お前に手抜きをせず、堕落しないと言う覚悟はあるか?」と真剣に聞かれました。
 私は、「ハイ」と答えました。父は「それなら良い、忘れないように!」と励ましてくれました。今思い返してみると、本当に素晴らしい餞(はなむけ)の言葉であったと感謝であります。「仕事に手抜きをするな、良心に恥じない仕事をせよ!」これは父の私への遺訓です。

 借金棒引き
 昔は,現金取引ではなく,常連のお客さんは付け(通い帳)で品物を買い,年2度支払うという制度でした。支払いを求めていっても,なかなか支払ってもらえない家もありました.大晦日の夜,門を開けてくれないので支払ってもらえず(門前払い)長い間門の前で立ちつくした事がありました。その上,倒産して夜逃げする旅館があり,わが家は相当額の貸し倒れで苦しみました。それでも倒産しなかったのが不思議です。
 ある時,私は大きなマグロを見事に捌く(解体する)父の姿を見ていました。
 そこへ,借金を支払わず夜逃げした方が立っていました。その方が父に言いました。「戻ってきましたので,取り引きをお願いします」と。
 父は,「ああいいですよ。宜しく」と答えて,取り引きが再開しました。私は「借金の支払いの事を相手に求めない父の態度に驚きました。借金棒引きなのです。父は商売でなく,慈善事業をしているのかと思いました。
 後日,私は父にそのことを聞きました。その時の父の話を忘れる事が出来ません。
 父の家は大変貧しくて,父の幼い頃は米屋・酒屋などに借金をして支払いが滞っていたそうです.夜,祖父(父の実父)が「酒を買ってこい」と父に命じますので,父は酒屋へ買いに行きます。しかし,売ってくれないのです。家に帰れば祖父に叱られますから,家に帰れないで,酒屋の前で立ちつくしていました。そこへ祖母(父の実母)がもう帰ってきなさいと迎えにきます。そういう事が度々あったそうです。その時,父は借金している立場の人のつらさをいやと言うほど体験し「私には借金している人の気持ちが痛いほどわかるのだ」と言いました。父の「借金棒引き」は,父の思いやりだったのでした。

 大変に貴重なお手紙をいただいたことに、私は心から感謝している。
 こういう人こそ、真に偉い人なのだと思う。心を込めて仕事に精を出す誠実なひたむきさ、他者の痛みに対するさりげない思いやり、そして謙虚さ。さらにまた、自ら痛みを引き受けてまで(借金の棒引きをしてまで)弱者を守る男らしさ、たくましさ。どれをとっても、人の心を浄めないではいられない美しさがそこにある。
 このお父様は、社会的には平凡なお仕事をされた一市民に過ぎないかもしれないが、こういう高潔な人格は必ずや周囲に消えがたい影響を及ぼし、それが人から人へと連鎖していって、ついには世界を変えるほど偉大な結果を生みだすことになるのだと思う。
 もっとも、私は今「平凡な」という言葉を使ったけれども、たとえば「父自身がいつも上機嫌で働いていました。私は父が不機嫌で仕事をしている姿を見たことがありません」とあるように、いつも上機嫌で働くこと、不機嫌で仕事をしている姿を身近な家族にさえ見せたことがないということ、これは非常に難しいことであって、文字通りの「平凡な」人には決してできないことである。借金を払わなかった人に対して、あのような寛大な態度を取るということだって、並の懐の深さの持ち主では決してできないことだ。
「偉く見せる」ことは、それほど難しいことではない。けれども、「本当に偉くなること」は難しい。世の中の多くの人は、「偉く見せる」のが上手な人にだまされてしまうけれども、私たちは一見すると平凡だが真に偉大な人のことは、決して見過ごしてはならない。そういう人を見つけたら、その人をお手本にして、貪欲に学ばなければならない。そういう人に縁があったということは、神様からの貴重な贈り物なのだと思わなければならない。なぜなら、そういう真に偉大な人に接するだけで、すばらしい書物を百冊も読んだ以上に自らの人間性が高められることがよくあるからだ。


                                            このページのトップへ    
 6月26日  安易なことがウケル世の中
 世の中を見渡すと、「安易」というキーワードでひとくくりできてしまうようなものが氾濫しているのに気づく。「株や投資で素人でもお金儲けできる・・・」、「サイドビジネスで月収百万円・・・」、「願望するだけで簡単に成功できる・・・」、「聞くだけで英語がペラペラになる・・・」、「なまけ者の悟りかた・・・」、毎日洪水のごとく送られてくる「出会い系サイト」のスパムメールの文句は「女性と一晩デートするだけで百万円」である。
 私がカウンセリングしているある患者さんのご主人は、2年前にインターネット系ビジネスの投資に熱を入れ、必ず何倍にもなって返ってくるという言葉を信じて貯金の大半をつぎ込み、さらには保険なども解約してそのお金をつぎ込んだ。そして多くの知人にも勧誘して輪を広げていった。患者さんは2年後には豊かなバラ色の生活ができると私に嬉しそうに語っていた。そして2年後の今、そのビジネスの社長はお金をもったまま姿を消してしまった。ご主人はこれまで苦労して貯めたお金のほとんどを失った上に、自分が勧誘して損をさせてしまった知人らからつるし上げにあっている。
 確かに、株や投資、ギャンブルやビジネスなどで大金が入るといったことは、まったくないわけではない。聞くだけで英語がペラペラに話せるようになる人がいるかどうかはわからないが、そういう人もいるのかもしれない。なまけ者が悟りを開くとなると、「悟り」というあいまいなものが対象なだけに何ともいえない。ごまかそうと思えばいくらだってごまかせる世界だ。一晩だけ女性とデートして百万円もらえる話も、まったくないわけではないだろう。ホストクラブで一本200万円もするワインをあける女性もいるらしいから。
 けれども、現実にそういうことはどのくらいあるのか、ということを考えてみる必要がある。
 宝くじを買えば一億円が手に入るというのは、数学的には正しいが、現実的には正しくない。確率的に百分の1以下になったら、もうそれは現実的ではないと考えた方がいい。なのに一億円宝くじの場合、具体的な確率は知らないが、おそらく10万分の一以下ではないだろうか。現実的にいえば、「宝くじは絶対に当たらない」ということなのだ。
 なのに、なぜこうも宝くじというのは売れ行きがいいのだろうか?
 それは人間の心の中に、「自分だけはひょっとしたら・・・」という、自らを特別扱いする楽観的な期待があって、正確な判断が歪められてしまうからであろう。
 かと思うと、先日、私の家に家屋の清掃業をしているという3人の初老の男性がやってきた。そこで、屋根裏のダニだらけの鳥の巣(ヒナは巣立ってもういない)を除去してもらった。ついでに水道管内部の錆び洗浄もしてくれた。高い屋根に登って埃だらけになって作業をしてもらい、時間にして約1時間。料金は3千円。単純に3人で割るなら、一人1000円。だいの大人が危険で汚くてきつい仕事をして時給1000円である。しかも仕事はこれで終わり。他に仕事がとれなければ日給になってしまうかもしれない。私はあまりにも申し訳なかったので、「これでジュースでも飲んでください」と千円を余分に渡したが、受け取れないと断られた。私はその職人気質の誇りといったものに感銘を受けた。
 もちろん私は、何もマゾヒスティックに刻苦精励してお金を稼ぐべきだなどというつもりはない。現在、世界一の金持ちはマイクロソフト社のビル・ゲイツ氏で、時給にしたらいったいいくらになるのか、時給1千万円どころではすまないかもしれないが、彼はウインドウズというOSを発明・販売してパソコンの使い勝手を著しく向上させた。それだけ社会に恩恵を与えたのだから当然の報酬ではあるだろう。今はお金が洪水のように流れ込んでくるとしても、立ち上げたときはそれなりに苦労があったに違いない。アメリカでは、第二のビルゲイツを夢見て毎年多くの起業が行われているが、そのうちの9割は3年以内に倒産し、残りは何とか営業しているとしても、その大半は一般的なサラリーマン賃金よりも低い収入で甘んじているという。
 夢を見ることは大切だが、安易な夢ばかり見ては失望するだけである。商売上手な人々はそういう人たちにつけこむと儲かるので、「たったこれだけをすれば・・・」式の安易なハウツーものを次々に世の中に送り込んでくるけれども、だまされてはいけない。
 たとえ、たまたまうまくいって、大金が流れ込むようなことがあったとしても、そうなるとお金そのものが危険な落とし穴になってしまう。そうしてあげくには、ホストクラブで一本200万円もの酒を飲むようなことでお金を使うようになってしまう。しかし、そんなところに通う女性が幸せであるとは、私にはとうてい思えない。200万円もの酒を美味しく飲んでいるとは思えない。
 安易に大金を手にすると、幸せを感じるセンサーのようなものが壊れてしまうように思われる。これでは何の意味もない。
 屋根の掃除をした初老の男たちは、200万円もの酒は飲めないだろうし、せいぜい数百円のビールしか飲めないかもしれないが、汗をかき、人から喜ばれる仕事をした後で飲むビールの味は、200万円もの酒などよりはるかにまさっているに違いない。
 経済効率ばかりが叫ばれ、仕事の内容、その精神的満足度、社会貢献度、さらにいえば、その美学といったものが無視されている社会というものは、幸せのセンサーが壊れた人間しか生みださない。「3K(きつい、汚い、かっこわるい)の仕事をしている男性なんて嫌い」などと平気でいう頭の悪い女ばかりをダニのように蔓延させるだけだ。きつい、汚い、かっこわるい仕事を胸をはって真剣にやっている男こそ真の男であり、本当にかっこいい男ではないか。そういうことがわからない、そういうことに価値も美も見いだせない社会であるうちは、これからもどんどん「安易な」ものが世の中に出てきて欲しいと思っている。そうしてだまされてさんざん懲りれば、やがては美意識をもった人間に成長し、時給1000円で身を危険にさらし真剣に仕事ができる幸せのセンサーを取り戻すことだろう。

このページのトップへ