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 2009年10月の独想録


 10月5日 悪夢に悩まされる
 父のことでは、たくさんの人から励ましやお悔やみの言葉をいただいた。おかげで、辛いときにはつい陥りがちな孤独感から助けていただいた。この場を借りてお礼を申し上げたい。
 父が死んで一週間が過ぎたが、仕事などで多忙だということもあり、表面的な意識では、父のことを思い出したり、考えるということは、すでにほとんどない。
 ところが、この一週間、ほぼ毎日のように、父を見舞いに病院に出かける夢を見たり、父は死んでおらず、まだ病院に入院しているのだという観念に夜中じゅう縛られ続けている。表面意識ではふっきれたつもりでも、潜在意識、心の深いところでは、まだ父の死を受け入れていないのかもしれない。朝に目覚めたとき、「ああ、父はもう病院にはいないのだ。父は死んだのだ」と気づくといったありさまなのだ。
 ある意味で、父が死んでいなくなった現在より、病院に見舞っていた日々の方が、私にはずっと苦痛であり、まさに悪夢のような出来事だった。その悪夢が、文字通りの悪夢となって、いま私を悩ませている。こんな夢から覚めた直後は、なんともいえない不愉快で落ち込んだ気持ちに襲われる。しかし、完全に覚醒して日常生活を送ると、悲しい気持ちも感じないし、父のことを思い出すこともないのだ。人間の心理のメカニズムというのは、面白いものだなと、改めて思った。

 あえていうまでもないが、人間にはコントロールできないことがある。その方が多いとさえいえるだろう。死などは、人間がどうあがこうと、決してコントロールできない。誰もが必ず死んでしまう。末期ガンなども、ほとんどコントロールできないことだ。ときどき「末期ガンから奇跡の生還をした」という声を聞くことがあるが(とくに怪しげな健康食品を売っている広告などに)、私がたくさんのガン患者さんを見てきて、末期ガンから奇跡の生還を果たした人は誰もいない。ただ、高齢の男性の方で、余命三ヶ月といわれたが、10年近く生きた人は、ひとりだけ知っている。それでもガンが治ったわけではない。ガンと10年間、共存できたということである。
 しかし私たちは、人生をコントロールすることを望む。それは無理もないことだし、必ずしも悪いことではない。そのような気持ちがあればこそ、文明が進歩したともいえるだろう。

 ニューエイジというか、最近のスピリチュアルな本のなかには、「ありがとう」という言葉を繰り返せば運がよくなると説いているものがある。そこで、幸運を招き寄せるために、盛んに「ありがとう」という人がいる。これなども、運命をコントロールしようとする現れであるといえるだろう。
 もちろん、「ありがとう」という言葉を口にすることは悪いことではないし、「ありがとう」という言葉を唱えることで、本当に感謝の気持ちが芽生えてくるということもあるかもしれない。
 ただ、自分に幸運を呼び寄せるために、やたらに「ありがとう」を連発する人を見ると、なんとなく気味が悪く感じる。「ありがとう」という言葉を、自分の我欲のために利用しているようなもので、「ありがとう」という言葉が汚されているように感じることもある。本当に心の底から感謝の気持ちが湧いてきているわけではないのに、「ありがとう」というのは、どこか誠実ではないような気もする。もし、「ありがとう」という言葉をひたすら唱え続けても、いっこうに幸運が訪れなければ、「ありがとう」という言葉を言わなくなってしまうのだろうか? そして、人生に対して不満を言うことになるのだろうか?

 努力をするというのも、人生をコントロールしようとする試みだ。そして、その努力が報われなければ、「神も仏もあるものか」と恨み、世の中を呪い、いじけたりする。
 だが、その気持ちはよくわかる。この世の中は不条理であり、正直者がバカを見たり、あくどい人間が幸運に恵まれることも少なくない。そんな世の中に対して不満をいい、あるいは厭世的になってしまう人の気持ちはよくわかる。なによりも私自身が、世界や人生をコントロールしたいと願い続けてきたからだ。
 しかし、父の死を経験したせいなのかどうか、その考え方が少し変わってきた。
 正義が報われないこの世界は、今でもひどいところだと思っているし、そのために多くの善意ある人たちが苦しんでいるのを見ると、神に対して愚痴や不満もぶつけたくなる。
 しかし、もしここに一人の人間がいて、その人間は、正直にまっとうに生き、努力をしてきたのに、不条理な運命によって不運に苦しみ、挫折や苦難に見舞われても、決して愚痴や不満をいわず、淡々とその運命を受け入れ、死んでいったとしたら、私はその人間を、とても崇高で美しい存在に感じるであろう。運命をコントロールした人間も偉大であるが、コントロールできない運命に対してそれに執着せず、淡々と、潔く、平安に受け入れて散っていった人間もまた、偉大であると思うのだ。
 もし、そういう生き方ができたならば、その人こそが、世の中や人生に対する本当の勝利者ではないだろうか。

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