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 2009年6月の独想録


 6月21日 後悔のない生き方
 以前、ホスピスで心理カウンセラーをしていたとき、たくさんの死にゆく人々と対面した。
 人間は、先がないと知り、また病床で横になって、なにもすることがないと(なにもできないと)、これまでの人生を振り返ることが多くなる。
 そうして、意味があり幸せだったこと、自分を褒めてあげたくなるようなことを思いだし、あるいはまた、後悔して自分を責めるようなことも思い出す。
 私が患者さんと接して、おおむね共通するように思われた、人生における後悔することとは、たとえば次のようなものだ。これらの言葉は、まだ先が長い私たちが後悔することのないように、患者さんが暗に教えてくれた貴重な人生の教訓であると私は考えるようにしている。
 まず、健康にもっと注意を払うべきだったと後悔する人は多い。たばこなど吸わなければよかった、深酒などしなければよかった、過食せずもっと運動をすればよかった・・・などである。
 つまり、そうしていれば、病気になって死なずにすんだかもしれない、もっと寿命が延びて、人生において有意義なことがもっとできたかもしれない、もっと楽しい思い出を家族と築けたかもしれない、家族や子供のためにもっと働いて経済的に余裕を残してあげられたかもしれないなど、「病気にならなかったら、あんなことができたかもしれない、こんなことができたかもしれない」という思いが、後悔の念としてよぎるようだ。
 次に、後悔することというと、ひとことでいうなら、家族や友人、縁のある人たちをもっと大切にしておけばよかった、ということだ。
 家族と旅行に行ったとき、小さなことで配偶者や子供に小言をいい、本来なら楽しい思い出となるはずだったものを、だいなしにしてしまったこと、必要以上に家族に対して厳しくしてしまったり、わがままで傷つけたり不愉快な思いをさせてしまったこと、その他、今から思い出すと、本当につまらない小さな、どうでもいいことで、人と争い、傷つけ、ひどい言葉を投げかけ、不愉快な思いをさせてしまったこと、助けを求めていた友人などに対して、ろくに力になろうとしなかったことなどが、大きな後悔や自責の念として思い出されることが多い。
 また、すごくやりたかったのに、できなかったことも後悔するようである。その内容は人それぞれで、公務員で一生終わるのではなく、お菓子の職人となって自分の店を持ちたかったとか、世界一周旅行したかった、あるいは、沖縄の海で一日中釣りをしたかったとか、バイオリンを習いたかったといったことである。本気でやろうと思えばできなくはなかったのだが、仕事や経済的なことなどを優先し、いつかやりたいと願いながら、ついに実行できなかったといって後悔する。こうした後悔は、上記の二つほど強い苦悩をもたらすものではないようだが、それでも苦い思い出となるようだ。
 他にも、さまざまな後悔を耳にするが、たいてい、以上の三つのいずれかに当てはまることが多い。
 確かに、考えてみるならば、私(私たち)は、なんとささいな、どうでもいいことにこだわり、そんなつまらないことで、もっとずっと大切な、人と人との楽しい交流といったものをだいなしにしてきたことだろう。
 あのとき、そんなに怒ってガミガミいうほどのことだったのか? 喧嘩をしたり別れたりするほど、守り貫かなければならないことだったのか? 相手を傷つけ責め立てるほど、深刻な欠点を持っていたとでもいうのか?・・・
 結局、自分のプライドだとか、自分の主義や好みといった、つまらないことにこだわり、そのために人を傷つけてきたのではないのか?
 そんなプライドだとか主義主張を守ることより、もっと人を大切にすることの方が、もっと人と仲良く楽しくやっていく方が、ずっと人生における重要事だったのではないのか?
 私はそのように思って後悔する気持ちがある。
 もちろん、人生には、どうしても守らなければならないことはある。しかし、そのようなものはおそらく、思っているよりもずっとわずかであるに違いない。ほとんどは、どうでもいいことなのだ。笑ってすませられることなのだと思う。

 あとどれくらい、私は生きられるのかはわからない。少なくても今までの倍を生きることはたぶんできないだろう。そうした残りの人生で、なんとか、今までつまらないことで人を傷つけ、大切にしてこなかったことの埋め合わせができ、後悔のない死を迎えられたらと思う。

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