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 2009年7月の独想録


 7月9日 偏った脳の使い方
 人や物の名前がすぐに出てこない・・・ということが多い。歳のせいもあるのだが、けっこう若いときからこの傾向はあった。一般的には脳の老化のせいだと言われている。
 確かに、それもあるだろう。しかし、脳の老化というのは、実はそれほど大きな原因ではないような気がする。むしろ原因は、あまりにも偏った脳の使い方にあるように思う。
 認知症(むかしはボケなどと呼ばれていたが)になりやすい人は、仕事を退職して毎日なにもすることなく、ぼんやりと暮らしている人がなりやすいと聞いたことがある。つまり、脳は使っていないとボケるのだ。
 しかし、偏った脳の使い方をしていても、よく使う部分と、あまり使われない部分が生じてくるから、よく使われる部分は非常に冴え渡るが、あまり使われない部分は衰えてしまうことになる。
 偏った脳の使い方をしている人というのは、たいてい偏った生活をしている人ではないだろうか。今の私は、かなり偏った生活をして、偏った脳の使い方をしていると思う。専門分野のことばかり考え、それに関する文章ばかり書いていて、気晴らしといえば、原付バイクで近所を走ったり、ジムで筋トレをしたり、音楽を聴く程度だ。人と話をするということもめったにない。
 なぜこのような生活をしているのかといえば、生活費を稼ぐために大部分を仕事に費やさなければならないからだが、それだけでなく、私がこの人生において研究して発表しようと考えていたことが、今のペースではとうてい死ぬまでに達成できないと悟ったからでもある。私が今までに研究して書いた本は、私がやりたいことの3割もカバーできていない。
 若い頃は、時間なんていくらでもあるさと思っていたので、けっこう趣味を楽しんだりした。映画を見たり旅をしたり、ラジコンで遊んだり、ロボットを作ったり、バイオリンを弾いたり、音楽を作曲したり、友達と談笑したりした。すなわち、脳の広い範囲を使っていた。
 今から思うと、その頃の私は、若いということもあったかもしれないが、総合的には今よりも頭が冴えていたような気がする。
 ただ、専門的な分野に関する鋭さというか、深さは、今の方があるかもしれない。偏った脳の使い方ではあるが、ひとつのことにひたすら意識を傾けて集中し続けると、その分野に関する独特の鋭さのようなものが養われるのだろう。
 けれども、私にはひとつの懸念がある。
 なかなか思い出すことができない人や物の名前の大半は、別に思い出すことができなくても、たいした支障は生じないものばかりなので、そのこと自体は別に問題にはならない。
 しかし、自分では自覚しない無意識的なレベルにおいて、ある特定の事物が思い出せないということで、私はある種の限定された枠組みでしか思考できなくなっているのではないのかと懸念しているのだ。
 わかりやすく、たとえ話をあげて説明すると、山の頂上に続く道は5つあるのに、3つくらいしか思い出すことができず、他にも2つの道があることを忘れている(思い出すことができない)。そのために、道は3つしかないのだと勝手に思いこんでいるのではないかと。
 本来なら、私には本当はもっと可能性があり、あるいは抱えている困難を打破することが本当はできるのに、それができないでいるのではないかと、そんなふうに思うことがある。
 しかし、いったいどうすればいいというのだろう。
 仕事以外に、趣味だとか、もっとバランスよくいろいろな活動をすればいいのかもしれないが、たとえ経済的にゆとりがあってそうできたとしても、人生はいつまでも生きられるわけではない。私にはもっと研究したいこと、もっと書きたいことがたくさんある。そうした分野に集中するだけで精一杯なのだ。
 私の偏った頭の使い方は、まだとうぶん続きそうである。


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 7月22日 『ビッグイシュー』を買う
 先日、銀座の街を歩いていたら、「THE BIG ISSUE(ビッグ・イシュー)」が街頭で売られていたので、バック・ナンバーを含めて何冊か買った。
 ご存じの方も多いと思うが、オールカラーの35ページほどの雑誌で、値段は300円である。ホームレス支援のための雑誌で、ホームレスの方が都市部のあちこちの街頭に出て売っている。この事業は、1991年にジョン・バートという人が基礎を作り、英国ロンドンで始めたものらしい。
 販売者は、まずこの雑誌10冊を事務局から無料で受け取り、それを売る。その売り上げ3000円をもとでに、今度は140円で雑誌を買い取り、それを300円で販売する。つまり、一冊売ると160円が販売者のものとなる。
 どのくらい売れるのかというと、販売する場所やその他の条件によって違うだろうが、けっこう厳しいようだ。ある販売員の人は、一日だいたい20冊くらい、少ないときで10冊くらいだという。
 私も最初は、ホームレスの方を支援させていただこうという気持ちからこの雑誌を買った。今もその気持ちで買ってはいるが、それと同じくらい、この雑誌がなかなかすぐれた内容の記事を掲載しているので、愛読者としても、街で販売員を見かけると買うようになった。
 内容は、世界や社会のさまざまな問題と、それに対する対策などが中心の記事が多く、勇気や希望をもらったり、癒されたり、読んでいて考えさせることが多い。世界中の一流の有名人のインタビューも載っており、雑誌としてはかなりグレードが高い内容になっている。
 また、堅い内容の記事ばかりでなく、料理や趣味や自然などに関する楽しい記事も、美しい写真と一緒に載っている。ちょっと他の雑誌では入手できない貴重な情報が書かれてあったりもする。とにかく、まだ読んだことがない人は、一度買ってみて読んでみることをお勧めする。
 この雑誌のなかには、販売員の人のインタビュー記事もある。もう少しはっきりいうと、なぜホームレスになったのかが書かれている。
 ホームレスというと、働かない怠け者がなる、という印象をつい持ってしまいがちだが、必ずしもそうではないということが、この記事を読んでみるとよくわかる。むしろ、そんな記事を通して、現代の日本社会のゆがみや、人生の不条理のようなものを感じることがある。
 たとえば、あるホームレスになってしまった人は、まじめにコツコツ働いて、いっときは店の店長にまでなり、裕福な収入もあったりする。ところが、不慮の事故に遭って働けなくなったり、店が火事になってしまったりして、借金だけが残って他の仕事へ転職。しかしその転職先で会社が不正なことをしているのを知り、良心の呵責を感じて辞めてしまい、ついにホームレスになったという人がいた。つまり、まじめに、正直に生きてきたのに、不運が重なって、あれよあれよという間にホームレスになってしまったのだ。人生には、こういうこともあるということだ。
 もちろん、なかには怠けてホームレスになってしまった人もいるだろうが、少なくともそういう人はビッグイシューを売ってはいない。一日、炎天下や凍える日でも、偏見や差別や侮蔑的なまなざしや孤独に耐え、つまずいてしまった人生を立て直そうと、一所懸命にがんばっているのだ。実際、販売員の人は、とても礼儀正しく親切で、不愉快な思いをしたことは一度もなかった。念のためにいうが、不潔で臭いという人などはいない。
 あたりまえだが、陰でろくでもないことをしている公務員だとか、政治家だとか、患者にセクハラをする医者だとか、名誉のために無実の人を犯罪者にする刑事や検察だとか、そういう連中などより、ずっとずっと立派なのだ。
 だれだって、人生につまづくときはある。まじめにやっていたって、そうなるときはそうなるのが人生なのだ。しかも不運が重なれば、だれだってホームレスになってもおかしくないのである。
 しかし、そのように人生につまずいても、じっと耐え、人生を立て直すために、街頭に立ってこの雑誌を売っている販売員の方々は、尊敬されこそすれ、決して軽蔑されるような人ではないのだ。
 みなさん、街頭で見かけたら、敬意をもって雑誌を買ってください。応援してあげましょう。人生はもちつもたれつです。苦しいときは助け合っていきましょう。

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