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 2009年4月の独想録


 4月17日 ディズニーランドで思ったこと
 先日、ディズニーランドへ行ってきた。
 行ったのが平日ということもあり、人も比較的少なく、結局、12時間もディズニーランドのなかで過ごし、アトラクションもずいぶん楽しんだ。
 それにしても、ディズニーランドはすごい。すべてが徹底している。徹底的に客を夢の世界に誘っている。
 よそのレジャー施設などに行くと、建物やアトラクションなどは、一応、夢があるように作られているものの、ちょっと裏の方に歩いていったりすると、たとえば建築資材の余りだとか、業者から送られてきた食材だとか、がらくたのようなものが置いてあったりして、現実に引き戻されてしまう。あるいは、従業員から無愛想な対応をされたりして、たちまち興ざめしてしまう。
 その点、私はかなり「あら探し」をする目で、ディズニーランドの細かいところまで、あちこちを見たが、現実の世界に引き戻されてしまうような、興ざめするようなものは、まったく見られなかった。従業員の対応も完璧だし、あまり客の目の届かないような場所に目をやっても、そこはやはり「夢の世界」なのだ。
 そして、ディズニーランドのいいところは、ゴミを片付ける人があちこちにいて、たとえば子供などがポップコーンをこぼしたりすると、たちまち係りの人が来てすぐにきれいにしてしまう。なので、あの広大な敷地にもかかわらず、ゴミが落ちたまま放置されている光景を、ついに見なかった。夢の世界にゴミはふさわしくない。ゴミを片付ける人も、アトラクションを案内する人も、レストランで食器をかたづける人も、みんな楽しそうにいきいきしている。疲れた顔をしている人、いやいやながら仕事をしているような人は、ひとりもいなかった。こういうことも、夢の世界にはふさわしくない。

 あそこまでゴミを清掃する人々に人件費をかけなくても、つまり、少しくらいゴミが落ちていたとしても、おそらく、来場人数にそれほどの影響はないであろう。なので、あそこまで清掃に力を入れるのは、経済効果からいえば、無駄といえなくもない。
 しかし、そのようなことは、ディズニーランドというものが持つ、ある種のプロ意識がゆるさないのだろう。夢の世界に反するものは、徹底的に排除するという、見事なプロの姿勢を感じた。あるいは長期的に見れば、きれいなディズニーランドという印象を人々に持ってもらうことで、私の推測に反して、実は非常に大きな経済効果をもたらしているのかもしれないが。
 アトラクションの見事さはいうまでもない。人を楽しませる粋な仕掛けやシナリオ、そして、非常に高度なロボット技術を駆使したからくり、ここまでやるかと思うほどの、夜のパレードの充実ぶり。
 行列のできるアトラクションはいうまでもないが、地味であまり人がいかないようなアトラクションであっても、決して手抜きをしているようなところがない。
 とにかく、こんなところに子供を連れていったら、それこそどれほど子供に夢を与えるか、計り知れないものがあると思ったし、大人は大人で、ここまで見事な仕事をしている人がいるということで、非常に感銘を受け、分野こそ違うものの、学ぶものがたくさんあった。ディズニーランドは、アメリカという国のすばらしいところを凝縮させた文化遺産といってもいいのではないかと思う。

 以上のような感動をもって満足して帰路についたのだが、ふと、こんなことを思った。
 このようなディズニーランドの楽しみを享受できる子供は、世界のうちでどれほどいるのだろうかと。ディズニーランドどころか、衣食住にさえ困っている貧しい人は、地球の人口の7割から8割に達している。飢えと病気で、一日に2万人以上の子供が死んでいる。具体的な数字はわからないが、おそらく、地球上の子供たちのなかで、ディズニーランドに行ける割合は、千人に一人くらいではないだろうか。残りの999人の子供は、ディズニーランドの喜びを味わうことなく、そのような娯楽施設の存在さえ知らず、暗く汚い建物のなかで過酷な労働をさせられたり、ゴミの山でゴミを拾って過ごすというだけの毎日を送っている。
 日本のなかであっても、とりわけ最近は、貧しくて、ディズニーランドになど、とても行けない子供はたくさんいるだろう。そんな子供は、他の子供がディズニーランドに行って楽しかったと目を輝かせて話す様子を、いったいどのような気持ちで耳にするのだろうか?
 ミッキー・マウスやドナルド・ダックだって、なにもお金持ちの子供たちだけを愛しているのではないはずだ。彼らだって、子供はどんな子供だって、会いたいと思っているはずである。
 いつか、地球上すべての子供たちが、ディズニーランドに行くことができるような、そんな世界になればいいと思った。最後に入ったアトラクション「イッツ、ア、スモール、ワールド」などは、暗にそのような希望をディズニーが表明しているかのように感じられた。

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