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 2008年5月の独想録


 5月7日 魂の年齢について

 今回は、ある人から質問の手紙をいただき、それについて私が返信した一部を、そのまま抜粋してご紹介させていただきたい。

 ・・・・・・まず、「本当の年齢(魂の年齢)」について、どう感じているかですが、人間はいわゆる輪廻転生を通して魂を成長させていくというのは、本当のことだろうと思っています。
 そして、おそらく、生まれて間もない魂と、生まれてからかなりたつ魂が存在するのではないかとも思います。魂は、何回もの生まれ変わりを通して、霊的な世界での経験を積み重ね、霊の(神の)法則や真理を学び、さらにそれを地上世界に顕現させていくのだろうと思います。
 ところで、神は生命の源ですから、神の法則や真理は、私たちのレベルでは、生命現象のなかに顕現されているはずです。生命現象とは何かといえば、ひとことでいうと進化することです。そして、進化とは何かといえば、多様性の創造となります。
 多様性の創造とは、さまざまな個性的な生命が共存することです。結局、これが人間レベルで表れたものが、愛ということだと思います。
 したがいまして、生まれて間もない魂と、年齢を経た魂の違いは、愛が神の法則であり真理であることをどれだけ認識しているか、そしてさらに、それを地上世界にどれだけ表現する力を身につけているか、この二点であろうかと思います。
 地上の物質世界に来て肉体をまとうと、魂の徳や力は著しく制限されてしまいます。しかし、何回も生まれ変わりを繰り返してきた魂は、肉体がもつさまざまな物質的欲望にうち勝つ克己心と忍耐力と勇気を持っているので、幼い魂よりも愛を実践することができるのです。しかし、幼い魂は、愛が宇宙の真理であるという認識がまだ弱く、しかも肉体を制御する力がまだ弱いために、どうしても利己的となり、物質的な事柄に流されてしまうわけです。
 愛があれば、自然と謙虚さと感謝の気持ちが芽生えてきます。したがって、魂の年齢が高い人の特徴をあげるとすれば、次のような徳を備えた人ではないでしょうか。
・愛・謙虚さ・感謝の気持ち・克己心・忍耐力・勇気 です。
 他にもあるかもしれませんが、主にこのような特徴があると思います。
 ご参考のために、『霊の書』(アラン・カーデック著 潮文社)という、古典的な「霊のお告げの書(チャネリング)」があり、そこから一文をご紹介させていただきたいと思います。
(以下『霊の書』からの抜粋)
 霊的に高い進歩を遂げている人は、どんな特徴がありますか?
「肉体をまとっている人間の霊の高さは、地上生活での行為のすべてが、神法と一致していること、及び、霊的生命をよく理解していること、これがその証拠である」
〔注解〕 真に高潔な人は、正義と愛と奉仕の法を、無上の純粋さで実践する人である。彼は常に自分の行為に関して良心に問う、悪い事はしなかったか、力一杯よい事をしたか、自分に対して不満を抱く者がいないか、自分が人からして貰いたいように人にもしてあげたかと。
 すべての人に対して寛容と愛の心に満ちており、報いを求めることなく善のためにのみ善を行い、正義のため自分の利益を犠牲にする。人種や宗教の如何にとらわれず、すべての人を兄弟と思い、寛容で優しくすべてに愛情をもっている。
 もし、神がこの者に力と富を与えられたら、彼はこれを全体の利益のために、彼に委された預りものとみなす。彼はこれを自慢の種とはしない。何故なら、彼は、これを彼に与えた神は、彼からそれを取りあげることも出来る事を知っているから。
 もし、社会機構のせいで、彼に部下ができたら、神の目からは同輩なので、彼は愛と寛容をもって受け入れる。権力は彼等を精神的に高めるために使い、威張って相手をへこますためではない。彼は他人の弱点に対して寛大である、それは彼も他人からの寛大さが必要な人間である事を知っているから。また、キリストの次の言葉を覚えているから。「罪のない者が、最初の石を投げなさい」
 彼に復讐心はない。だが、恩恵だけは覚えている。イエスの範に習い、彼はすべての罪を許す。それは、自分が他者を許した分だけ、自分も許される事を知っているから。
 彼は他者の権利を尊重する。自然法に基づいたものとして。彼は、自分の場合も、権利が尊重されるのを望んでいるのである。
(以上『霊の書』からの抜粋)


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 5月15日 救世主は本当に来るか?
 30年も前から、「マイトレーヤ(救世主)がやってくる」と主張している人物の講演会があるということで、知人からチラシが送られてきた。その人物の講演会を聴いたり本を読んだある人によれば、その人物の主張は次の一文でまとめられるという。
「新しい時代周期、混迷する人類を導くために世界教師の役割を担った人物がこの世界に出現する。その名はマイトレーヤ。彼の携えてくるものは『正義』。そして『友愛と協力』。確立されるものは『分かち合いにもとづく平和』。彼を迎え入れる心の準備をしておきなさい」
 講演に来る人物はマイトレーヤの、いわばスポークスマンであり、マイトレーヤからいろいろなメッセージを受け取って人類に発しているということだが、その中心は「分かち合いなさい」ということのようだ。
 そして、その人物のホームページを見ると、マイトレーヤはいずれテレビに出演し、自分はマイトレーヤ(救世主)であることを宣言する。しかし彼は一言も語らず、テレパシーによって全人類の人々と交信し、母国語で彼の言葉を聞くことになるという。さらに、その愛のエネルギーが何百、何千もの病気の人を癒すというのだ。
 そして、送られてきたチラシによれば、「ついにその日はやってきた」とある。
 いつの日か、救世主が来るという主張は、ユダヤ教やキリスト教ではおなじみである。キリスト教など、「救世主の到来は近い」などといいながら、すでに二千年も時を経ている。
 救世主とは少し違うが、似たようなものとして、「アセンション」なるものがある。それによれば、人類の意識は飛躍的に高まり、いわばみんなが悟りを開いてすばらしい時代が来るのだという。
 むかし、私が世界的に支部を持つインド系のある宗教団体に顔を出したとき、似たような教えを聞いた。その教えでは、人類は一度滅亡し、きれいな魂だけが再び地上に再生して新しい世の中ができるという。それで、その人類滅亡の日はいつかと指導者の人に尋ねると、「あと3、4年、どんなに遅くても10年以内には必ず訪れる」と言っていた。若かった私は、その断言するような自信に満ちた態度に、正直なところ多少の不安を覚えなくもなかった。もしかしたら本当に人類は滅亡するかもしれないなどと思ったが、結局、それから30年がたった。
 私は、「救世主がやって来る」という主張を否定する根拠を持たないので、救世主など来ないと主張するつもりはない。だが、あえて個人的な感想をいえば、正直なところ、幼稚で軽薄なニューエイジの思想にはまった人が喜びそうな、単なる「おもちゃ」のひとつにしか思えない。救世主が現れて人類の問題がすべて解決するといったことを期待したい気持ちはわからなくもないが、信奉者たちは、本当にそんなことが起こると信じているのだろうか? マイトレーヤとは、いってみれば、大人が夢見る「サンタクロース」のようなものではないだろうか。
 自分の都合のいい夢を、あたかも現実であるかのように思いたくなる心理は、「わずかな出資金を出せば何倍にもなって億万長者になれますよ」という詐欺商法にだまされてしまう心理と、どこか共通したところがあるようにも思われる。
 もし、救世主が本当に存在しているのなら、なぜもっと早く来ていないのだろうか?
 それについては、わかったような、わからないような説明がされているようだが、仮に、さきに紹介したようなマイトレーヤが本当に現れてテレビに登場したとしても、この巨大で複雑で利害関係が入り組んでいる人類の問題が解決されるとはとうてい思えない。少なくとも、「分かち合いなさい」などと、誰もがわかっている当たり前のことしか説いていないような救世主が姿を現したところで、いったい何がどうなるというのだろうか? 分かち合えないから、私たちは苦しんでいるのではないのか?
 分かち合いなさいといわれ、はいそうですかといって分かち合えるくらいなら、人類はこんなに苦しんでなどいないのではないだろうか?
 その「救世主」は、「分かち合いなさい」などと、テレビを通して説教でもするのだろうか? そんな説教を聞いただけで、私たちは心を入れ替えてすばらしい人類に変わるとでも思っているのだろうか?
 人類をここまで悲惨で苦しいものにした原因のひとつは、「救世主が来る」などという荒唐無稽なことを信じたり、「分かち合いが大切です」などという当たり前で陳腐な言葉を、いかにもすばらしい言葉であるかのように感激してしまう、幼稚で浅はかな知能や意識レベルではないのだろうか。
 救世主がいるとすれば、それは私たちひとりひとりの心のなかに存在する「良識」ではないだろうか。根拠のないことはむやみに信じたりせず、かといって頭から否定するのでもなく、慎重に、物事の表も裏も見つめることのできる判断力こそが、救世主ではないだろうか。

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