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 2009年8月の独想録


 8月18日 岡本太郎記念館に行く
 先日、東京青山にある「岡本太郎記念館」に行って来た。
 住宅街にある屋敷を改造したような感じで、門をくぐると、庭に岡本太郎の彫刻などがいくつか展示されており、一階には岡本太郎が使っていたアトリエがそのまま残されている。二階は、岡本太郎の絵画を中心に、有名な「太陽の塔」の模型や、その隣には岡本太郎の等身大の人形が展示されている。
 少し驚いたことは、写真撮影が自由であること、、絵画などの作品もそのまま展示されており、触ろうと思えば触れるようになっていたことだった。実際、彫刻などは触っても大丈夫だし、岡本太郎が制作した椅子が、実際の椅子として置かれていた。
 芸術というものを、なにか一部の特権階級のごとくとらえ、もったいぶった感じが漂う芸術家も少なくないが、その点、そのようなものとは無縁の、自由で開放的、また革新的だった岡本太郎の人柄が感じられて、とても好感を持った。

 私は、岡本太郎には会ったことはないが、彼の養女の岡本敏子さん(故人)とは、一度、あるイベントでお会いしたことがある。といっても、名刺を交換して挨拶程度の話をしただけであるが、血のつながりがないのに、その顔つきも性格も、岡本太郎そっくりなので驚いた。当時は60代中頃だったように思うが、「これからいい男を見つけて恋をするのよ」などと、本気なのか冗談なのかわからないような(たぶん、本気だったと思う)ことを元気いっぱいに話しておられた。屈託なく、だれに対してもオープンで、情熱的で、素敵な方だった。

 私は絵画に対しては、それを評価し得るほどの見識力は持っていないが、岡本太郎の作品に囲まれていると、なんだか生命が生き生きとし、解放されてくるのを感じた。いうまでもなく岡本太郎の作品には、尋常ではないほどの生命力が宿っている。
 私は、絵画でも音楽でも、いや、どのようなことであれ、「生命力」を感じさせるものが好きだ。音楽でいえば、いくら技術的に上手できれいな音が鳴っていたとしても、そこに生命力が感じられない演奏は、あまり好きではない。生命力さえあればいい、とまではいわないが、生命力がなければ、真に人を感動させる作品にはなり得ないと思う。
 岡本太郎はそれを、「芸術はきれいであってはいけない」という言葉で表現した。しかし誤解のないようにいうが、「芸術は美しくあってはいけない」といっているのではない。芸術は美しくなければならない。しかし、「きれい」というのは、単なるうわべだけのものだ。岡本太郎はそんなきれいさを嫌った。私も同感だ。実際、岡本太郎の作品は、きれいではないかもしれないが、美しさがある。燃える生命を宿した美しさだ。これこそが本当の美しさだと思う。

 人間もまた、生命力を持った人が私は好きだ。ダイナミックで、燃えるような情熱を持った、大胆でスケールの大きな人が好きだ。岡本太郎はそんな人だった。私は彼の書いた『自分のなかに毒を持て』(青春出版社)という本を愛読している。常識にとらわれない、スケールの大きい考え方や生き様を説いているが、とても共感を覚える。小さなことでくよくよ悩んでいる人には、ぜひ読んで欲しい。そんなものはいっきに吹っ飛んでしまう。
 ただし、生命力があることと、単にノー天気な元気さとは違うことはいっておきたい。たとえば暴走族がオートバイを走らせたり、クラブで夜中じゅう踊り明かしたりすることが生命力があるということではない。
 本当に生命力がある人とは、自分にうち勝つ力を持っている人である。単に欲望のままにはしゃいだり暴走したりするだけで、自分を高いものに変えようとしない人は、生命力があるとはいえない。生命力がある人とは、常に自分をより高く変革するために、大胆かつ忍耐強く挑戦意欲を燃やし続けていく人のことだ。

 肉体が老化するのは仕方がないが、精神を老化させてはいけないと思う。肉体の老化は、ある程度は運動や生活習慣に注意することで緩和できるとはいえ、どうしても限界がある。しかし精神は、老化しないように心がけていれば、決して老化しない。それに精神が若ければ、肉体もだいたい若々しいものである。精神が老化するとしたら、若い頃から精神が老化するような生き方をしてきたせいだ。若いのに、消極的で冒険したり挑戦したりすることをしない、妙に年寄り臭い人がいるが、そんな人はそれこそ40歳か50歳にでもなったら、本当に老け込んでしまうだろう。
 精神を老けさせないためには、あまり常識だとか、いわゆる「人様の目」みたいなものにとらわれない方がいいと思う。そんなことばかり気にしていると、人間はどんどん小さくなり、どんどん老けていってしまう。常識がどうだろうと、人からどう見られようと、自分が信じる生き方を堂々とすることが大切だ。そのような生き方は、しようと思えば、だれにだってできると思う。
 ただし、ひとつだけ条件がある。
 それは、孤独に耐えられる、ということだ。世の中は、常識の枠におさまり、人様の目を気にしながら生きている人が99パーセントだから、それに反した生き方をしても、ほとんどの人から理解されない。理解されないならまだいいが、仲間はずれにされたり、いじめられることもある。そのような精神的な孤立無援状態に、すなわち孤独に耐えられる人であれば、生命を燃やして生きることができるだろう。
 そして、そのような生き方こそが、私は本当の意味で「生きた」といえる人生になるのだと思う。

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