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 2023年1月の独想録


 1月18日 これでいつ死んでもいい
 
前回は、エンディングノートを書き上げて、肩の荷がひとつおりたようで、すっきりしたと述べました。確かに、心が軽くなりました。そして、思いました。
 「あとは、“2つの懸念”さえ払拭できれば、本当にいつ死んでもいいな」と。

 人生を振り返って、けっこう好き勝手に生きてきたので、どうしてもこれをやりたいとか、なんとしても手に入れたいというものは、もうなくなり、人生に未練はなく、やり残したこともないと思っています。まったくないといったら嘘になりますが、ほとんどありません。あったとしても、たいしたことではないでしょう。もっとも、神の目から見たら、まだやり残したことがあるのかもしれません。そうしたら、それを完遂するまで生きなければなりませんが、それはわからないことです。

 また、私という存在は、あまり必要とされていません(ひがみで言っているのではありません)。多少は必要とされているかもしれませんが、「どうしても」というほとではないでしょう。むしろ、このまま老いていけば、必要とされるどころか、やっかいもの扱いされる可能性さえあります。「長生きはめでたい」というのは、よほど健康や富や家族や友人に恵まれている人は別でしょうが、それほどでもない人は、いつまでも長く生きていると、あからさまではないにしても、家族や社会から嫌がられます。それが現実です。
 なので、そこそこ生きたら、さっさと逝ってしまった方が、お互いにとって幸せなことではないかと思うのです。人間、あまり生きることに執着し過ぎても、ろくなことはありません。なにごとも、ほどほどがいいのです。
 人や社会から必要とされていると、嬉しいものですが、それが重荷となることもあります。一方、必要とされていないと寂しく感じるかもしれませんが、それを受け入れてしまうと、むしろ責任も義務からも解放されて、気が楽になります。

 そういうわけで、エンディングノートを書いてから、私はなんだか気持ちがずっと軽くなりました。「これでいつ死んでもいい」と思える心境に近づくと、本当に気が楽です。
 ただ、すでに述べたように、2つの懸念があります。
 ひとつは、死ぬときに苦しむのではないか、という懸念です。死ぬことそのものは怖くありませんが、死ぬときに苦しみを味わうのは、正直、怖いです。この懸念が払拭できればと思います。
 もうひとつは、死後、(あの世があれば、の話ですが)霊界のよい場所に移行できるかどうか、という懸念です。天国とまでは言いませんが、そこそこ幸せな場所に行って、もう二度と地上に生まれ変わらない状態になれればいいなと願っています。
 以上の2点の懸念が払拭されたら、私はもう本当に死ぬことなどまったく怖くありません。自殺こそしませんが、早く逝くことを願うでしょう。こんなろくでもない惨めな地上世界など、早くさっさとおさらばしたい、というのが本音です。

 しかし、このような懸念が払拭されるかどうか、それは誰にもわかりません。神のみぞ知るです。
 そしてまた、もし私にまだ、やり残したことがあると神が判断したら、私はそれをやらなければなりません。それまでは生きなければならないでしょう。なので、私は自分でこれがやり残したことではないかと思うことを、これからも全力でやっていくつもりです。
 しかしもし神が「おまえはもうやり残したことはない」と判断したならば、私はあの世に召されるでしょう。
 それもまた、神のみぞ知るです。
 これからの人生、生きるも死ぬも、すべて神様にお任せして生きていこうと思っています。人間という存在は、それしか他に道はないのだと思います。



 1月1日  エンディングノートを書く
 
皆様、新年あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い申し上げます。
 今年は、皆様にとっても、また世界にとっても、昨年よりも、よい年になるように祈っています。

 さて、おめでたい新年なのに縁起でもないと言われるかもしれませんが、私は昨年の暮れから、いわゆる「エンディングノート」を書いていました。つまり、私が死んだとき、家族が私のことで困らない情報をまとめたノートです。
 私も今年で63歳になります。30台や40台の頃は、60歳なんて、遠い未来のことだと思っていましたが、それは間違っていました。40歳を過ぎたら、60歳なんて、あっという間です。大げさではありません。時間はしだいに加速していきます。ほとんど何も成し遂げることなく、時間ばかりが「あれよあれよ」と過ぎ去っていきます。
 ということは、60を過ぎたら、もう死も目前だなと思ったわけです。なので、いつ死んでも、残された家族が困らないように、必要な情報をまとめておこうと思い、エンディングノートを書くことにしたのです。

 エンディングノートに書いたことは、主に、私に関係したさまざまなものを、無事に解約するための情報や方法です。たとえば、仕事関係の取引、銀行口座、証券口座、インターネット、プロバイダー、携帯電話、その他、毎月、定額で銀行引き落としをしているいくつかのサービスや慈善団体への寄付など、人が死んだ後に処理しなければならないもろもろのことです。
 しかし、それが思ったより多くて大変な作業でした。
 インターネットがないむかしは、せいぜい、銀行口座の暗証番号だとか、仕事関係者や知り合いへの通知、家や土地、株などの書類、遺産分与の意向といったことを記入するくらいで、すぐに書き終えることができたでしょう。
 しかし、インターネット時代の現代では、そうはいきません。どのようなことも、ほとんどインターネットで結びついているからです。つまり、サイトにアクセスしなければなりません。そのためには、IDとパスワードが必要です。それらの情報が、膨大な量になっているのです。しかも、それでサイトにアクセスできても、その後、どのように解約や処理するかについて、詳しく書いておかなければなりません。
 なかには、放っておいてもいいものもありますが、毎月自動的に銀行から引き落としをされるものもあり、放っておくと損をしてしまうものもあります。

 もし、そういった情報を残すことなく、突然に死んでしまったら、家族は大変な苦労をすることになるでしょう。IDもパスワードも知らなければ、サイトの会社に問い合わせなければならないでしょうが、そのためには、私が死んだこと、そして私の家族であることを証明するような書類が必要になると思います。それには多大な労力と時間がかかります。しかも、それがひとつやふたつではなく、たくさんあるわけですから、とんでもないことになってしまいます。そもそもそれ以前に、解約や処理をしなければならないもの自体がわからないでしょうから、もう途方に暮れるしかありません。
 たとえば、口座名義人が死んだことを銀行が知ると、口座が凍結され、引きおろしができなくなります。家族が引きおろせるようになるためには、戸籍謄本を地元から取り寄せたり、その他、いろいろな資料を提出しなければならず、かなりめんどうです。したがって、本人が死んだら、なるべく早く銀行口座から全額を引きおろした方がよいと思います。そのためにも、事前に情報を残しておくことが大切です。

 その他、エンディングノートには、私が死んだことを知らせる人の連絡先リスト、遺影用の私の写真、家族への手紙、所有物の処理方法などを書きました。葬式はせず位牌も戒名もいらず、火葬したら一番価格の安い永代供養(共同墓地)をしてもらうとし、ネットで調べた安価で手間のかからない会社の連絡先を書いておきました。


 さて、そうして数日かかり、ようやく終わりましたが、非常に神経を使い、疲れました。
 皆さんもまた、まだ若くて元気で死ぬようなことはないと思われるかもしれませんが、人はいつどうなるかわかりません。残された家族のためにも、若くて元気なうちに、エンディングノートを書いておくことをお勧めします。
 たとえ、事故などで突然に死ぬのではなく、老化や病気でしだいに死に向かっていく場合でも、そのときには体力や知力や意欲が衰えますから、大きなエネルギーを使うエンディングノートは書けない可能性があります。したがって、元気なうちに書いておくことが必要です。

 エンディングノートを書き終えて、「気がかり」になっていたことがひとつ消え、肩の荷をひとつおろしたような、すっきりした気持ちになりました。「気がかり」は、小さなストレスです。その「気がかり」が多いと、全体として大きなストレスになります。ストレスは心身によくありません。できるだけ「気がかり」は、少しずつ解消していく方がよいです。その意味でも、エンディングノートを書いてよかったと思いました。

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