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 2023年8月の独想録


 8月24日 解脱を得るのが難しいたったひとつの理由
 
まずはお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「魂の暗夜と瞑想」というテーマで行いました。キリスト教では、霊性修行をしていると、「魂の暗夜」と呼ばれる、非常な空虚感、絶望感、神から見捨てられた感覚に襲われる時期が訪れるとされています。こうした現象が訪れる意味は何なのでしょうか? これは、神が人の霊性を進化させるために働きかけた結果なのです。悟りのエッセンスともいえる内容がこめられています。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
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では、本題に入ります。
 世の中には、解脱(悟り)を求めている人が、それなりに大勢います。私もそうですし、読者の皆さんもそうかもしれません。
 しかし、解脱を得るのはとても難しい。これに関しては統計というものはないでしょうから、解脱をめざしている人が、どのくらいの割合で達成しているのかはわかりませんが、非常に少ないことは確かでしょう。おそらく、東京大学に合格するよりも難しいと思います。
 私が教室でこのように言うと、参加者は萎えてしまい、「自分には無理だ」といって修行を断念してしまう人もいます。そんなとき、私はこう言います。
 「川に落ちて溺れてしまったとします。そのとき、“自分は泳ぐことは無理だ”といって、そのまま沈んでいくでしょうか? そんなことはしないでしょう。何とか助かろうと必死に手足を動かして泳ごうとするはずです」と。
 つまり、もし本当に解脱を求めているなら、「自分には無理だ」などと考えたりしません。とにかく、解脱への道を歩むしかないのです。達成できるかどうかなど考える暇があったら、修行に打ち込むでしょう。それしか道がないからです。本気で解脱を求めていれば、そうするはずです。

 解脱が無理だとあきらめられる人は、世俗(物質世界)にまだ喜びを見出している、少なくとも世俗に希望を抱いているからだと思います。要するに、逃げ道があるのです。
 しかし、明瞭な洞察力をもって見れば、世俗には真の喜びも幸せも存在せず、いずれ苦しみに変わるものだということがわかります。その真理を、心底、理解したならば、もう解脱の道を歩むより他に選択肢はなくなるはずです。世俗は「逃げ道」にはなりえません。

 「解脱をするには、毎日最低でも1時間の瞑想は必要だと思う」と言うと、「働いている人が毎日1時間の瞑想をすることは無理ですよ」と言われます。「では、毎日1時間の瞑想を3年続けたら、10億円がもらえるとしたら、瞑想しますか?」と言い返すと、目を輝かせて「やります!」と言うのです(笑)。

 つまり、その程度の願望しか持っていないということです。解脱に達した聖人たちは異口同音に言います。「この世のすべての富をくれるといっても、この境地と交換するようなことはしない」と。解脱の境地は、10億円などとは比較にならないくらいすばらしいということです。
 いわゆるカネの亡者と言われる人が持っている、カネに対する執着にはすさまじいものがあります。いつも頭の中はカネのことだけです。カネのためなら何だってします。ときには犯罪さえ躊躇しない人さえいます。
 これと同じだけの情熱を、いえ、もしかしたらこの半分の情熱でさえ持っているならば、解脱を得ることができると思います。言い換えれば、ほとんどの人は、カネや世俗に抱く情熱の半分も、解脱に向けていないということです。


 
解脱を果たしたとされる聖者たちについていろいろ調べますと、彼らは必ずしも抜群に知性が優れていたわけではありません。そういう人もいますが、普通より劣った(と世間から思われていた)人もけっこういます。いずれにしろ、解脱をするために抜群の知性、頭のよさは必要ないのです。もし彼らが東京大学をめざして勉強したとしたらどうなるでしょうか? おそらく、合格できる人はほとんどいないのではないかと思います。

 東京大学に合格するような頭のよさは必要ないのです。それなのに、東京大学に合格するより難しいというのはなぜかというと、理由はただひとつです。
 本気で解脱を求めていないからです。
 修行をしているといっても、パートタイムのような修行しかしていません。あるいは、その種の本を読むだけで瞑想などの修行はしないのです。読書だけで解脱した覚者などいたでしょうか? 娯楽や気晴らし程度の感覚でしか、修行していない人が多いのです。
 これでは、解脱などできるはずがありません。人生のすべてをかけて、仕事など生活を維持するために必要なこと以外、解脱に役立たないことはすべて排除し、全身全霊で修行しなければ無理です。片手間で達成できるようなものではありません。

 「自分にはそこまでの修行はできない」と言うなら、それは本当に解脱を求めていないからです。本当に解脱を求めているなら、自分にできることはすべて、全身全霊で修行するでしょう。溺れている人が全身全霊で泳ごうとするように。それは、助かりたいと真剣になるからです。
 ここまでの真剣さがあれば、自分の努力に加えて、神の加護と導きが得られ、解脱を達成することは、それほど難しくはないと思います。
 解脱を達成する人が少ない理由は、本当に真剣に解脱を求める人が少ないからです。才能や知性の問題ではありません。



 8月1日 隠居生活
 
若い頃、どんなに歳を取っても、本を書いたり講演などをして、世の中でばりばり活躍するぞと思っていました。隠居生活など無縁というか、嫌悪していました。死ぬときは仕事中だと決めていました。そして、世の中から認められ、有名になり、できれば後世に名を残したいとさえ思っていました。
 しかし、今の私は、まったく反対のことを思っています。
 世の中から退き、姿を消し、目立たずにひっそり生活することに憧れ、それを目ざしています。つまり隠居生活です。運命的にも、その流れになってきています。
 歳を取り、体力や意欲が衰えたからではありません。もちろん、若い頃より体力も意欲も衰えたことは確かですが、それが理由ではありません。
 理由は、世の中というものに飽き飽きしたというか、より正直に言えば、うんざりして煩わしくなったからです。この世の中に、私の求めているものは存在しないとはっきり気づいたのです。なぜ、釈迦やイエスといった聖者のほとんどすべてが、世俗からの離脱を説いたのか、今さらながら、とてもよく理解できるような気がしています。


 
最近、大手の中古車販売会社の不正が大きく報道され、叩かれています。末端の社員は悪くないと思います。権力をもった上層部からの命令で不正をさせられたのです。生活がかかっていますから、仕方なくやったのでしょう。彼らは社長や上層部の犠牲者です。にもかかわらず、(前)社長は「私は知らなかった。とんでもないことをしてくれた。そんな社員は告訴する!」とまで息巻いていました(後に告訴はしないと撤回しましたが)。あの会見を聞いて、いったい誰が、社長の言うことを信じたでしょうか?
 この会社はやや極端かもしれませんが、程度の差はあれ、これが世の中というものなのです。この会社は、いわば世の中というものの、わかりやすい縮図です。

 美しい看板の裏を見ると、そこには汚れがびっしりとこびりついている、というのが世の中です。夜のネオン街は、キラキラ輝いて、とてもきれいです。しかし朝になって明るくなると、あちこちゴミが散乱しているのが見えて、汚い街だったことがわかります。実態は闇に隠されていて、美しい看板だけが目につく、これが世の中なのです。
 私は今まで、アルバイトを含めると、20社以上の会社で働いた経験があります。そこには必ず表と裏の顔があるのです。法律に触れるぎりぎりのきわどいことをしている会社もありました。
 たとえば、まともなことを言っている社員は、上層部から嫌がらせを受けて自主退職に追い込まれました(正当な理由なく解雇できないため)。最近ではパワハラなどが禁止されていますが、むかしはパワハラなど日常茶飯事でした。病院や代替医療の会社で働いたこともありますが、人々を健康にするのが使命であるはずのそうしたところが、皮肉なことに、人間的に病んでいる人が多いことにも気づきました。また、不正をして被害者を出したが、カネでもみ消した会社も見ました。他にも、言えばきりがないのでやめますが、とにかく醜悪なものをたくさん見てきました。


 
いずれにしろ、世の中の汚い面が我慢できず、そこに幸せはないと感じたので、宗教やスピリチュアルの世界に救いを求めました。
 ところが、いざその世界に飛び込んでいくと、美や純粋性や理想を追求するはずの宗教やスピリチュアルの世界でさえ、その裏側は、ひどく汚れていることを知りました。むしろ、表面的にはおきれいごとを説いているだけ始末が悪く、きわめて偽善的なのです。私が直接また間接的に知った、その裏側の醜聞を書いたら、それだけでも一冊の本が完成するくらいです。それでも、そんな団体に人気が集まって大勢の支援者がいたりするから不思議です。私から見れば、あきらかにインチキや詐欺師でしかない教祖や人物に、大勢の信者が集まり、本も売れているのです。すべてとは言いませんが、今日の宗教やスピリチュアルは腐っています。
 もっとも、正確に言えば、宗教やスピリチュアルが汚れているのではなく、団体、あるいは宗教やスピリチュアルを金儲けの手段にしている連中が汚れているのですが、現実には、そういう団体や人物が多いのです。

 結局、世俗も宗教も同じです。表はきれいだが裏は汚れています。
 両者に共通することは何でしょうか?
 それは「人が集まっている」ということではないでしょうか。世の中も人の集まりであり、宗教(団体)も人の集まりです。
 結局のところ、人が集まるところには、汚れが出てくるのです。これは避けられないことのようです。そして、その汚れを必死にごまかそう、隠そうとしているのです。それがバレたら誰かのせいにするのです。世の中とは、要するに、人の集まりのことですから、宗教団体も「世の中」ということです。
 そんな汚れた偽善の世の中で、認められ、有名になり、名を残すことに、いったい何の意味があるでしょうか? 何の意味も喜びもありません。むなしいばかりです。そのことにようやく気づきました。


 
以上のような理由から、世の中から遠ざかろうと思うようになったのです。隠者のように生活したいと思うようになったわけです。つまり、隠居生活です。
 したがって、基本的に人が集まるところには行きたくないし、なるべく行かないようにしています。月に一度、主催する教室を開いているだけで、あとは自宅の書斎に閉じこもる日々を送っています。
 孤独といえば孤独な生活ですが、孤独を感じたことはありません。むしろ、世の中で活動していた方がずっと孤独を感じていました。今の生活は、これまでの人生でもっとも充実していて、本当に自分が求めていた生活は、実はこれだったのだと気づきました。

 隠居生活といっても、何もせずに、ぼ〜っと過ごしているのではありません。毎日、宗教やスピリチュアルの探求に挑んでいます。団体とはいっさいかかわりをもちません。独りで歩んでいます。瞑想と霊的な読書にほとんどの時間を費やし、非常に豊かなインスピレーションを受け取っています。自分としては、これほど心境がめさましく進歩している日々を送ったことはないくらいです。
 はたで見たら、こんな私の生活は退屈で、味気なく感じられるでしょう。うらやましいと思う人はほとんどいないと思います。しかし私は、この生活のなかに、本当の幸せに通じる道を見出しました。今までは、世の中にこそ幸せがあると思っていましたが、それは幻想でした。少なくとも私にとって、世の中に幸せは存在しません。幸せは独り静かな心の中に存在します。そのことに気づきました。なぜ聖者たちは、少なくとも修行の間は、孤独を求めたのか、よくわかるような気がしています。


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