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 2023年7月の独想録


 7月19日 カルマ・ヨーガ
 まずはお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「カウンセリングの理論と実践3」というテーマで行いました。カウンセリング・シリーズの最終回です。今回は主に精神疾患をテーマにお話をいたしました。興味のある方はダイジェスト版をご覧ください。
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 では、本題に移ります。
 ヨーガ(ヨガ)というと、世間では奇妙な格好をする体操のことだと見なされていますが、これは「ハタ・ヨーガ」といって、厳密にはヨーガではなく、ヨーガを効果的に実践するための、ある準備運動です。ヨーガの本質は肉体ではなく、精神的な変革にあり、瞑想が主体で、その代表的なものが「ラージャ・ヨーガ」です。健康になることが目的ではなく、目的はあくまで「解脱」です。ヨーガとは宗教なのです。
 ところで、ヨーガには他にもいくつか種類があるのですが、そのなかで、どんなヨーガを実践するにしても、それと一緒に必ず実践すべきだと私が考える、重要なヨーガがあります。
 それが「カルマ・ヨーガ」です。
 「カルマ」とは「行為」のことです。カルマ・ヨーガとは、行為を通して解脱へと向かうヨーガのことです。その行為は主に「善行」ですが、善行だけに限らず、たとえば仕事をする場合でも、カルマ・ヨーガを実践することができますし、実践するべきなのです。
 つまり、カルマ・ヨーガの本質は、「どのような行為をするか」にあるのではなく、「どのような意識で行為するか」にあるのです。
 カルマ・ヨーガの実践者(カルマ・ヨーギ)は、何をするにしても、その結果に対して執着しません。いかなる報酬も期待せず、ただ行為それ自体を目的として行うのです。
 たとえば、誰かに親切にするとします。すると、人は何らかの報酬を期待するものです。お金やモノを期待する人はあまりいないと思いますが、多少なりとも感謝の気持ちを返してくれることは期待するでしょう。
 しかし、感謝の気持ちも含めて、いかなる報酬も期待しない、これがカルマ・ヨーガの道なのです。親切にして、その結果、その人が喜んでくれる、ということさえも期待しないのです。結果に対してまったくの無関心なのです。
 ですから、人に親切にして、たとえ、恩をあだで返されるようなことをされたとしても、悲しんだり怒ったりなど、心を乱すようなこともしません。
 というより、そのような境地になるように努力する、これがカルマ・ヨーガの修行です。
 仕事にしても、お金や出世といった目的をもたずに、仕事そのものを目的として、一生懸命に努力します。そして、その努力が報われようと、報われまいと、たとえ失敗に終わったとしても、まったく心乱されず静けさを失わないようにするのです。

 そして、カルマ・ヨーガのもうひとつのポイントは、「自分を行為者と思わない」ということです。人は、何かをやっているときには「自分がやっているんだ」と思っています。実際、やっているのは自分なのですから、そう思うのは当然であり自然なことでしょう。
 しかし、カルマ・ヨーガでは、自意識や我意といったものを排して、ただ無心に行うのです。無我の境地、無念無想の境地での行い、老子のいう「無為」ということなのかもしれません。あるいは、「自分が行っているのではない。自分を通して神が行っているのだ」という、ある種の信仰心によって行うという言い方もできるかもしれません。

 このようなカルマ・ヨーガがめざしているのは、他のヨーガと同じく解脱なのですが、解脱とは、地上の束縛から解放されて高い霊的境地に至ることです。私たちが地上に束縛されるのは、地上に対する欲望があるからです。したがって、解脱するには、地上への欲望を捨てなければなりません。
 そこで、一切の見返りを求めずに行為をする、というカルマ・ヨーガの修行が、地上への欲望を捨てるために非常に効果的なのです。
 人は、何かをするときには、必ず欲望があります。欲望をかなえるために行動するのです。欲望があるから、行為の結果として、報酬を求めますし、報酬への期待があるわけです。カルマ・ヨーガは、そうした報酬を求めず、期待もせず、結果には無関心であることによって、地上への欲望を捨てようとする道なのです。

 また、報酬を求めない行為とは、無条件の行為ということです。報酬を求めての行為は「取引」であり、地上の行為はすべて基本的には取引です。
 しかし、取引ではない、つまり無条件の行為というものがあります。
 それは「愛」です。愛は絶対無条件です。愛するという行為に報酬を求めたら、それは愛ではありません。愛はいかなる報酬も求めず、愛すること自体を目的とする行為です。
 つまり、カルマ・ヨーガとは、「愛に至る道」でもあるのです。愛の境地は、高い霊的な境地です。それは解脱の境地です。解脱とは、地上の欲望を放棄した、愛の境地のことなのです。

 日々、このカルマ・ヨーガを実践しなければ、つまり、いかなる行為でも、報酬を求めず結果にこだわらず、ただ無心に行為そのものを目的として行うようにしなければ、たとえ瞑想しても、日常生活に戻って「取引の生活」をしたら、せっかくの瞑想の効果は消失してしまい、いつまでたっても解脱は得られないだろうと私は考えているのです。
 その意味で、カルマ・ヨーガは、いかなるヨーガを行うにしても、いえ、いかなる霊的な修行を行うにしても、必ず同時に行うべき大切な修行であると思うわけです。
 


 7月5日 情報の真偽を見極めるコツ
 
むかしは、新聞や雑誌、テレビくらいしか情報源がなく、それを信じるより他に仕方ありませんでした。そうした大手の媒体は、基本的に営利目的ですから、必ずしも公平で真実の情報を提供しているとは限りません。その点で現代は、インターネットの普及により、膨大な情報を得られるようになり、大手の媒体以外の情報源から、とりわけ個人からも、情報を得ることができるようになりました。しかしこれらもまた、真実の情報もあれば偽の情報もあります。膨大な情報が得られることはよいことですが、そのぶん、情報の真偽を見極める洞察力がこれまで以上に必要になってきました。

 今回は、そうした情報の真偽を見極めるコツを紹介したいと思います。コツといっても、極めて常識的であり、「そんなの当たり前だよ」と言われるかもしれませんが、その「当たり前」のことが、意外に知られていないような気がしますので、あらためてご紹介したいと思います。

 結論から言えば、情報の真偽を見極めるには、社会というものが、何によって動いているかをしっかりと認識することです。
 社会というものは、真実や正義によって動いているのではなく、利権、すなわち、利益を独占できる権力をもった団体や人物によって動いているのです。これをしっかり押さえておかないと、情報の真偽を見誤ります。
 つまり、ある情報について、「真実だ」、「いや、偽りだ(フェイクだ)」という議論が起こって、どちらなのかわからない場合は、「この情報を真実とすると(フェイクとすると)、誰が得をするか?(誰が損をするか?)」と考えてみるのです。つまり、そこに利権が絡んでいないかどうか調べてみるのです。


 
大きな利権をもっている団体や人物は、マスコミも支配できますから、情報を操作することができます。その情報が、たとえ真実であったとしても、利権者にとって不都合なものならば、それをフェイクだとして情報を流すことができ、多くの人はそのマスコミの報道を信じて、真実であるその情報をフェイクだとしてしまうのです。

 利権というものは、政治や経済など、ほとんどの分野に浸透しています。科学などの学問の世界も例外ではありません。科学は嘘をつきませんが、科学者は嘘をつきます。その科学者が、金銭や地位などで恩恵を受けている大企業にとって損をするような論文は書けません。それどころか、その企業にとって有利になる論文をねつ造さえします。

 もちろん、すべての科学者がそうだというわけではありません。どのような分野でも、良心にしたがって真実を訴える人がいます。しかし、そういう人は、残念ながら、利権者から社会的に抹殺されてしまうことがほとんどなのです。
 たとえば、「一粒服用するだけですべての癌が完全に治る、とても安価な薬」を発明した科学者がいたとしましょう。彼は人類の幸せのために、その薬を世界に普及させようとしたとします。
 しかし、大手の製薬会社や医療団体は、そのような薬など認めないでしょう。もしそんな薬が普及したら、高価な抗癌剤や癌に関係した医薬品や医療器具が売れなくなり、医者は患者が減ってしまって、利益が失われるからです。
 その結果、利権者は、「インチキな薬を開発したトンデモ科学者」といった情報を広めたり、利権者に身を売った研究者を使って「その薬には効果がない」という偽りの論文を書かせるなどして、その科学者を社会的に抹殺しようとするでしょう。


 
もちろん、だからといって、利権が絡んでいればすべて真実が曲げられるとは限りません。それだけに重点をおいてしまうと、狂信的な陰謀論者になりかねません。
 とはいえ、それでも、この社会というものは、利権がらみで、真実もフェイクに、フェイクも真実になってしまうことが多いということは、情報の真偽を判断するうえで頭に入れておいた方がいいと思います。

 真実と正義の情報が人々に伝わるようになるには、社会が進歩しなければなりません。そのためには、私たちひとりひとりの精神性が進歩しなければなりません。
 しかし、そんな社会が出現する日は、いつになったら訪れるのでしょうか? 今の社会のありかたを見ていると、たとえそんな社会が出現する日が訪れるとしても、その日は遠い遠い未来のような気がします。
 人類は欲望によって文明を進歩させてきた反面、その欲望によって不正や苦しみを生みだしてきました。欲望を否定したら進歩もないでしょう。
 しかし、欲望ではなく、もし「愛」があれば、苦しみを生み出すことなく文明を進歩させることができるはずです。
 しかし、その「愛」を手に入れるのが、きわめて難しいのです。
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