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 2023年2月の独想録


 2月21日 この世をよくするための活動
 今月のイデア ライフ アカデミーの授業は、「生きる目的と瞑想」というテーマで行いました。生きる目的を明確にしないと、人生は舵のない船のようにさまよい、無駄な時間や労力を浪費してしまいます。まずは自分の生きる目的をしっかりと明確に自覚することが大切です。そして、そのために瞑想が必要だと理解したとき、瞑想修行はより永続的で確かなものになっていくでしょう。ダイジェスト版をご覧ください。
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 来月の授業は、「カウンセリングの理論と実践1」というテーマで行います。

 では、本題に移ります。
 私は若い頃は、この世に生まれてきた以上、世の中をよくするために力を尽くすべきだと考えていました。そのため、たとえば仕事上では、よい本を書こうと思い、他には新聞などの投稿欄に善を勧めるような投書を積極的に出したり(何回か採用されました)、また、いくつかの慈善団体に多少の寄付などをしたりしました。
 しかし、今ではこうした考えは持っていません。

 慈善団体への寄付は細々としていますが、新聞などの投書はしていませんし、「世の中をよくする」ことを全面に打ち出した本を書くつもりもありません。
 今は、世の中をよくしようとするのではなく、あくまでも個人の救済を第一に考えています。だからといって、世の中はどうでもいいというわけではありません。しかし、大切なのは個人の救いであると思うのです。
 私は釈迦の考えと基本的には同じです。すなわち、ある人が釈迦に「あなたは個人の解脱ばかり説いていて、世の中をよくする教えを説いていない」といって批判しました。それに対して釈迦は「解脱する人が増えていけば、結果的に世の中はよくなっていくのである」と答えました。

 これはその通りではないでしょうか。煩悩にまみれた政治家や経営者や学識者や国民が増えても、世の中は悪くなっていくばかりです。しかし、解脱した立派な聖者が増えれば、間違いなく世の中はよくなっていくでしょう。
 とはいえ、解脱者が増えていき、そうしていつの日か、この世は天国や極楽のようになるかというと、私はそうは思えません。そんなに多くの解脱者が現れて国民の大半を占めるような時代が来るとはとうてい思えないのです。仮にそんな時代が来るとしても、何千年も何万年も未来のことだと思います。

 また、解脱とは無関係に、いつの時代になっても自然災害は起こるでしょうし、肉体は病みます。医学の進歩によって病に苦しむことは少なくなるでしょうが、完全になくすことは無理でしょう。また、いずれ死にます。これも避けられません。死が避けられないということは、愛する人との死別の悲しみから逃れられないということです(もっとも解脱すれば悲しみは感じないのかもしれませんが)。

 つまり、この世から完全に苦しみがなくなることはないということです。
 しかし、それでいいのだと思います。
 なぜなら、この世はおそらく、魂の「トレーニング・ジム」の役割を担っている世界だからです。トレーニング・ジムに行くと、みんな苦しそうに重いバーベルを持ち上げて筋肉を鍛えています。もし重いバーベルがなければ、筋肉は鍛えられません。
 同じように、この世に苦しみがなければ、魂を鍛えることはできないのです。ジムは鍛えるために行くのであって、そこで楽をして遊ぶために行くのではありません。この世も同じです。この世に苦しみがなくなると、この世の存在意義がなくなるのです。
 もしも、ジムに行って、「バーベルで苦しい思いをしている人を助けよう」などと言って、バーベルを壊したりしたら、怒られるでしょう。
 そんなことをしてはいけないのです。もちろん、怪我をしてトレーニングができない人がいたら手当をして助けてあげなければなりませんし、お腹が空いてトレーニングができないない人がいたら食べ物をあげて助けてあげなければなりません。

 しかし、バーベルを持ち上げて筋トレをしている人からバーベルを取り上げてはいけないのです。それよりも、自らトレーニングを一生懸命にやっている姿を見せ、そしてついには、もうジムに来る必要がないほど筋肉もりもりとなった姿を見せることではないでしょうか。あるいはまた、何のためにジムに来たのかわからず、ふらふらしている人に対しては、筋トレをするためにここに来たことを教えてあげる、これこそが、この世における真の人間のありようではないでしょうか。

 地上世界というジムは、楽をしたり欲望を満たしたりして喜ぶための場所ではないのです。苦しみを通して魂を鍛える場所なのです。いつまでもぐずぐずしていると、ジムの閉館時間が来て追い出されてしまいます。それでは何のためにジムに来たのかわかりません。ジムで過ごした時間がまったく無駄になってしまいます。そのような無駄な時間を過ごさせないように導いてあげることも、愛と言えるのではないでしょうか。



 2月2日  後悔していること
 
このところ、なぜかわかりませんが、私が今まで生きてきて、人を傷つけてしまった記憶、恥ずかしい言動をしてしまった記憶などが、次から次へと脳裏に浮かんでくるようになりました。そしてそのたびに、深い後悔に見舞われてしまうのです。本当に、自分がしてきた悪事というものが、自分が思っている以上にたくさんあることに気づき、申し訳ない気持ちと情けない気持ちでいっぱいになります。
 今回は、そのなかのひとつをご紹介させていただきたいと思います。

 若い頃、インドを旅したときのことです。あちこちの名所などを見てまわったのですが、そういう場所には、どこでも物売りや物乞いの人たちが大勢いて、観光客を見つけると集まってきて、「これを買ってくれ」とせがみます。「いらない」と言っても「では、これはどうですか?」と、別の土産物を差し出します。かなりしつこいです。
 そうした人たちは、おそらくカースト制度のなかで低い身分であり、そのため貧しい生活をしていらっしゃると思い、気の毒に思って、欲しくもない土産物を買ってあげたりしていました。

 しかし、行く先々、どこでもそのような状況なので、さすがにうんざりしてしまいました。さて、それで、ある観光名所に行ったときのことです。おそらく30歳台かと思われますが、ひとりの女性が近づいてきて、土産物を買って欲しいと言ってきました。
 私は、もううんざりしているのと、心身の疲れがたまっていて機嫌も悪かったので、「名所を観光した帰りに買うよ」と、そっけない返事をしました。それは本心ではなく、そのように言っておけば、その女性は他の観光客のところに行ったりして、もう私のところには来なくなるだろうと思ったからです。


 
ところが、観光から戻ってくると、その女性が待っていて、近づいてきたのです。私はもううんざりして、彼女を無視して、滞在していたホテルに向かって、早足で歩きはじめました。ところが彼女は、どこまでも私を追いかけてきて、私の横に並びながら「買ってくれると言ったではありませんか!」と、何度も繰り返して言うのです。
 私はそのしつこさに腹もたってきて、ひたすら無視して歩き続けました。ようやく彼女はあきらめて「このうそつき!」と叫んで、戻っていきました。

 私は、そのときは「やれやれ、うるさいのがいなくなってよかった」と思い、ホッとしました。
 しかし、今になってそのときのことが思い出されたとき、その女性には本当に申し訳ないことをしたと、心から後悔しました。
 土産物が欲しくなかったら「いりません。買いません」と、はっきり言えばよかったのです。しかし、私は嘘をついて逃げようとしました。女性はきっと、「戻ったら買ってくれる」と、期待していたに違いありません。私はその期待を裏切ってしまったのです。
 女性は、もしかしたら、家にはおなかを空かせた子供が待っていて、その子供のために必死でお金を稼ごうとしていたのかもしれません。だとしたら、さぞかしがっかりしたことでしょう。
 しかし、それ以上に、嘘をつかれたという思いで腹が立ったでしょう。もしかしたら、私のせいで人間不信に陥ってしまったかもしれません。ひどく彼女の心を傷つけてしまったと思います。私は大変な罪を犯してしまったのだと、深く後悔しました。

 もし叶うならば、その女性に会って、そのときのことをお詫びしたい。しかしそれは、もうできないことなのです。
 自分が人から傷つけられた場合であれば、自分さえその人をゆるしさえすれば、すぐに心の苦しみを消すことができます。しかし、人を傷つけてしまった場合、その人から「ゆるす」と言ってもらえない限り、ずっと心が痛むことになります。その人の所在がわかり、行って謝ることができるならば、ゆるしてもらえる可能性があり、まだ救いが残されています。しかし、傷つけた人と二度と会うことができない場合、その人から「ゆるす」という
言葉を聞くことができません。死ぬまで心の痛みを抱えて生きなければならないのです。

 
私はもうこれ以上、心の痛みを抱え込んで苦しみたくありません。
 なので、今後は、次のように生きようと堅く決意しました。
 まず、ごまかすために嘘はつかないこと。何らかの事情でその人のために何かしてあげられないのなら、「ごめんなさい、できません」と正直に言うこと。たとえそれで相手が傷つくことがあったとしても、嘘をついてだまして傷つけるよりはずっとましでしょう。
 そして、嘘をつく以外でも、縁がある人にたいしてはすべて、決して傷つけないように、細心の注意を払うこと。たとえそのときは、傷つけても何とも思わなかったとしても、後になってひどく悔やみ、良心が痛んで苦しむことになるかもしれない。そして、すでに述べたように、傷つけた相手に謝りたくても、もはやその人には会えないかもしれない。そうなると、一生、良心の痛みを抱えて生きなければなりません。
 そしてさらに、縁があって出会う人にはすべて、可能な限り親切に、大切にしてあげるということ。そうすれば、決して後悔することはないと思うのです。たとえそうして、恩をあだで返されるようなことをされたとしても、腹は立つでしょうが、大切にしてあげられずに良心が痛んで、その苦しみを背負って生きていくよりは、ずっとましです。

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