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 2023年6月の独想録


 6月20日 「聖なる読書」の勧め
 
まずはお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「運命と瞑想」というテーマで行いました。運命とは何か? 何が私たちの運命を決めるのか? について、運命の究極的な正体に至るまで解説しています。興味のある方はぜひダイジェスト版をご覧ください。
→動画視聴

 では、本題に入ります。
 イデア ライフ アカデミーの瞑想教室では、「聖なる読書」というものを勧めています。具体的には、仏教とキリスト教の聖典から引用した言葉をテキストに掲載していて、この文章が自分に合っていると思ったら、この言葉を毎日毎日一回以上読む、というものです。

 私たちは、どんなにすぐれた教えが書かれた本でも、一回読んだだけでは頭に完全には入りません。二回読んだだけでも、まだ不十分だと思います。僧侶がお経を朝晩毎日繰り返し読むように、比較的短い文章を何回も繰り返し読むことで、その教えが潜在意識のレベルにまでしだいに浸透していき、自分の血肉となるのです。すなわち、その教えを実践できるまでになるのです。何回も繰り返し読む、ということが大切なのです。次から次へと本を読みあさるのではなく、真にすぐれた本をくり返し読む方が大切だということです。

 以下、授業のテキストに掲載した文章を載せておきます。もしよろしければ、これをしばらくの間、毎日読み返してみてください。きっと、何か得るもの、何か気づきが得られるはずです。

 修行者の心得      (『スッタニパータ』第四章14より)
 修行者は、心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。海洋の深いところでは波が起こらず静止しているように、修行者は心が静止して不動であれ。
 修行者は、何ものについても欲念を盛り上がらせてはならない。視ることをむさぼってはならない。卑俗な話からは耳を遠ざけよ。世間における何ものも、「我がもの」とみなして固執してはならない。苦痛を感じても、決して悲嘆してはならない。あとで悔いるようなことはやめよ。
 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称賛されても高ぶってはならない。貪欲と物惜しみと怒りと悪口を除き去れ。
 修行者は、人から辱められ、不快な言葉を言われても、荒々しい言葉をもって応えてはならない。立派な人は敵対的な返答をしないからである。
 修行者は、道理をよくわきまえ、常に気をつけて学べ。煩悩の消滅した状態が安らぎであると知り、修行を怠ってはならない。

 神に明け渡す          (『キリストにならいて』第三巻37章より)
 自分を捨てなさい。そうすれば神を見出すだろう。すべてにおいて選り好みせず、いかなる自己の思いなく、ただ静かであり続けなさい。そうすれば、常に利益を得る者となる。なぜなら、自分を捨て去って神に明け渡し、再び自己を取り戻そうとしないなら、より大きな恩恵が加えられるからである。
 あらゆる時において、大事であろうと小事であろうと、常に自分を明け渡しなさい。例外はない。神はあなたがいっさいのものを脱ぎ捨てることを望まれる。内にも外にも、すべての我意を捨て去らなければ、どうしてあなたは神のものに、神はあなたのものになれるだろう。より完全に、より誠実に行うほど、神は喜ばれ、豊かに報われるであろう。
 自分を明け渡すのに、例外をもうけておく者がいる。彼らは神を完全には信頼していないので、自分のために、何らかの対策をしておこうと考える。
 あるいはまた、最初はすべてを神に明け渡しても、後には誘惑におされて自らの意志に逆戻りする。そのため徳において進歩しない。
 最初に自らをすっかり捨てて、日々、自分を捧げものとして神に明け渡すのでない限り、浄らかなハートの真の自由にも、神との甘美な交わりの恵みにも、達しないであろう。これなくして、果実をもたらす神との結びつきはなく、将来もないだろう。
 繰り返すが、自分を神に明け渡しなさい。そうすれば、大きな内的平安を得られる。すべてを得るために、すべてを捧げるのだ。何も要求せず、見返りを求めてはならない。神の中に、ためらうことなく単純にあり続けなさい。そうすれば、ハートの自由を得て、闇があなたを圧倒することはない。この一事のために努力し、祈り、願いなさい。自分に死んで、永遠に神に生きるために。
 そのとき、すべての空虚な想い、悪しき心の乱れ、無用の心配は消えるだろう。度を越した恐怖は去っていき、度を越した情愛は死に絶えるであろう。


 6月10日 神への本当のお供物
 
信仰深い人は、神様に「お供物」を捧げます。花や食べ物、菓子や酒などを、神棚や祭壇に置いて、神様への贈り物にするわけです。
 なぜそのようなことをするのでしょうか?
 そういうものを捧げれば、神様は喜んで、自分の願いを叶えてくださると思っているのでしょうか? お供物を捧げて、「そのかわり、商売が繁盛するようにしてください」と祈るのでしょうか?
 神様は、花も食べ物も、お菓子も酒も、必要としないでしょう。そのようなものを欲しいとは思わないでしょう。それでも神様が、そうしたお供物を喜ぶとすれば、そういう行為を通して、人間が自分に思いを向けてくれる、それだけだと思います。

 神は、人間が自分に思い(心)を向けてくれるのを喜ばれるのです。なぜなら、そうすることで神は、人間を真の幸福へと導きやすくなるからです。神様の願いはただひとつ、人間が真の幸福をつかむことだけです。

 では、真の幸福とは、いったい何でしょうか? また、どのようにすれば得られるのでしょうか?
 真の幸福とは、一時的で、はかない、いずれは渇望や苦しみをもたらす快楽をむさぼることではありません。渇望や苦しみに変ることのない、永遠なる至福のことです。そのような至福は、神だけが持っています。富や名声といった、地上的な事物、いわゆる世俗には、はかなく苦しみに変る幸福しかありません。そのようなものは幸福の名に値せず、単なる快楽でしかありません。
 神の至福をかいまみた聖人たちは、異口同音に言っています。「世界じゅうの富や名声すべてをくれたとしても、その至福と交換しようとは思わない。その至福に比べたら、この世の喜びなど、ゴミや塵に等しい」と。

 そうした至福は神だけが持っているのですから、その至福を得るには、神のもとに帰り(もともと私たちは神から来たのです)、神とひとつになることです。
 では、どのようにしたら、神とひとつになれるのでしょうか?

 それは、神とひとつになることを妨げている「自分」を捨てることです。自分は自分のことを「私」と思っています。しかし「私」という、神とは別個の存在があれば、神とひとつになることはできません。「私」を捨てたとき、神に捧げたとき、神とひとつになるのです。

 ですから、神様が一番喜ばれる「お供物」は、自分なのです。自分を神様に捧げるのです。これが最高のお供物であり、人間はこれ以上すばらしいお供物を神に捧げることはできません。このお供物を捧げれば、神様とひとつになり、至福が得られます。

 ところが、そのお供物が、汚なく、粗悪だったらどうでしょうか? 私たちは、汚物の混じった、腐った食物をお供物として神様に捧げるでしょうか? 決してそんなことはしないでしょう。汚く粗悪なものを、誰かにプレゼントするようなことはしません。そんなことをしても相手は喜びませんし、むしろ不愉快でしょう。神様も同じように、汚く粗悪な自分を捧げても、喜ばれないし、受け取ってはくれないでしょう。

 したがって、神様に喜んで受け取ってもらえるように、自分というお供物を、きれいにし、上質なものにしていかなければならないのです。それは、地中から取り出した原石から、土などの汚れを少しずつ落としていき、削ったり磨いたりして、美しい玉に仕上げるような感じです。
 力を尽くし、全身全霊で、可能な限り心を浄め、可能な限り、あらゆる欠点をなくして、自分を立派にすることです。
 しかしそうしても、完全に清浄で、完璧な「お供物」にすることは、難しいかもしれません。それでも慈悲深い神様は、多少の難点があっても、その努力を認めて、お供物を受け取ってくださることでしょう。

 世の中には、瞑想などの霊的修行をしている人はたくさんいますが、肝心なこの修行がおろそかになっている傾向があるように思います。霊的修行以前に、ひとりの人間として立派にならないと、どんなに霊的修行をしてもほとんど進歩がないし、そればかりか、堕落して破滅へと転落してしまう危険があります。

 自分とは、いつか神様に捧げるお供物なのだから、神様に喜んでいただけるように、そのお供物を浄らかに上質なものにしていく、この熱意と努力こそが、霊性修行を成就させるのです。
 なぜなら、そのような姿勢で臨んだとき、神様はその目的が成就できるように、導いてくださるからです。

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