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 2023年9月の独想録


 9月19日 グルの導き
 
まずはお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミーは「ラマナ・マハルシの教え」というテーマで行いました。インドの覚者マハルシは、釈迦やイエスに匹敵する究極的な霊的境地に到達した方であると思います。そして、その究極的な真理をダイレクトに伝えようとしたようなので、とても難しいのですが、霊的進化をめざす人にとって貴重な指針になることは間違いありません。ダイジェスト版をぜひご覧ください。
●哲学教室第32回「ラマナ・マハルシの教え」
 動画視聴

 では、本題に入ります。
 ラマナ・マハルシは、グル(導師)なくして解脱は不可能だと言いました。しかし、グルには外側のグルと内側のグルの二種類があると言っています。外側のグルとは、私たちが普通いうところの肉体をもったグルです。内側のグルとは、私たちの内面にいるグルのことです。外側のグルに出会うのは、宝くじに当たるよりも低い確率です。自称「グル」は、うじゃうじゃいて、容易に見つけることはできますが。
 内側のグルは、修行を誠実、真剣に、忍耐強く続けていけば、必ず現れます。そして導いてくれるのです。それは閃きという形でメッセージを送ってきたり、あるいは運命的な出来事によって導かれたりします。
 ですから、グルなくして解脱は不可能といっても、グルは内側にもいて、誰もがそのグルを持てる可能性がありますから、悲観することはないわけです。

 とはいえ、肉体をもった外側のグルに出会った方が、目に見えない内側のグルよりも、はっきりと教えが理解できるという点ではありがたいでしょう。
 ただ、マハルシが言うように、グルは覚者であり(覚者でなければグルになれない)、覚者とは真我(神)と合一した、というより、「真我に立ち返った」人のことです。いま「人」という言葉を使いましたが、究極的な観点から見れば、もはや「人」ではありません。普遍的な霊的存在であり、神そのものなのです。彼は「肉体」ではないのです。
 しかし私たちは、肉体をその人だと見なしてしまいます。グルを、ある空間に限定された肉体であると、どうしても思ってしまうのです。そのため、グルではなく、グルの肉体にとらわれてしまい、霊的進歩の障害となる、肉体(物質)に対する愛着が生じてしまうことになりかねません。
 ですから、肉体を持った外側のグルが、すべてまったくよいかというと、必ずしもそうとは言えないと思うわけです。その点、内側の見えないグルは、そのようなことはないでしょう。

 また、グルは、手取り足取り、懇切丁寧に教えを授けてくれるわけではありません。ここを誤解している人が多いように思います。とにかくグルに出会い、その弟子になってしまえば、自助的な努力は必要なく、エスカレーターのように解脱へと運んでもらえると思っている人がいるのです。
 グルの指導は、実に簡潔で短いものです。時間を費やして、修行のやり方を基礎からすべて教えてくれるわけではありません。ほんの一言か二言だけ、という場合もあります。しかも、それさえもめったにない、ということも珍しくありません。
 つまり、ほんの一言か二言だけ聞いて、それだけで修行が進歩するという弟子は、もうすでに、かなりの進歩を遂げた人なのです。自助努力を限界まで行い、そしてどうしても、もうこれ以上は自助努力では前に進めない、という限界に来て苦しんだとき、グルははじめて助けてくれるわけです。

 しかし、そこまで自助努力をしている人は、どれくらいいるでしょうか?
 ロシアの神秘家グルジェフは、「出来の悪い人ほど、身の丈に合わないすぐれたグルを欲しがる」と言っています。確かにそう思います。足し算や引き算さえろくにできない小学生が、自分の教師に大学教授を求めるようなものです。
 グルは大切ですが、グルを求めるよりもまず、限界まで自助努力をしなければなりません。そうすれば、慈悲深い神は、外側のグルか、あるいは内側のグルを授けてくれるでしょう。言い換えれば、真剣に忍耐強く自助努力を続けない人に、グルは現れません。もしそういう人にグルが現れたとしたら、それはニセモノのグルです。あるいは、たとえそのグルが本物だったとしても、そのグルについていくことはできないでしょう。



 9月5日 目的を定め集中する
 
世の中に、命と時間ほど大切なものはありません。その他のものは、失っても取り戻せる可能性があります。たとえば、お金を失っても、また取り戻せる可能性があります。しかし命と時間だけは、失ったら決して取り戻すことができません。
 また、命というのは、結局、「生きている時間」のことですから、時間を大切にすることは命を大切にすることであり、命を大切にすることは、時間を大切にすることになります。逆にいえば、時間を大切にしない人は、命を大切にしていないのです。

 しかし、私たちはあまり時間を大切にしていません。お金に関しては、十円でも百円でも節約しようとしますが、時間に関しては、かなり無駄にしています。
 仮に、一日一分、時間を節約したとすると、年間で6時間もの時間を節約したことになります。十分節約すれば、年間で二日半となります。正月やお盆休みなどの休暇で「あと一日休みがあったらなあ」と思うことがありますが、一日十分節約したら、二日半が休みになるのです。一日十分の節約なら、やろうと思えばできるでしょう。もちろん、細切れの時間とまとまった時間とを同列に比較することはできませんが、「塵も積もれば山となる」ことに変わりはありません。

 私たちが時間を大切にしていない大きな理由は、「生きる目的」が明確に定まっていないからです。「自分は人生においてこれをやり遂げるんだ!」という、強くて明確な目的があれば、その目的とは関係のないこと、ましてや、障害になるようなことに時間を使わなくなるでしょう。たとえば、大学に合格するという目的をもった受験生は、バスを待っているときのような、ほんの一分や二分の時間であっても、無駄にせず英単語を覚えたりします。目的が明確にある人は、決して時間を無駄にしようとはしません。

 皆さんの「生きる目的」は何でしょうか? まずはそれを明確に定めることが大切です。なかには「生きる目的なんてない。人生の流れのまま、おもしろおかしく過ごせればいい」という人もいます。もちろん、そういう人はそれでいいのです。他人がとやかく言う筋合いではありません。ただ、死が目前に迫ったとき「人生において何一つやり遂げたものがない」といって後悔しなければ、それでいいと思います。

 もし皆さんが、解脱や悟りといった、人生最大にして最高の目的を持つならば、それは片手間で達成できるようなものではないので、わずかたりとも時間を無駄にはできませんし、また、無駄にしようとは思わないでしょう。
 あるとき、釈迦の弟子たちが集まって「出家する前はどんな仕事をしていたのか」について話が盛り上がりました。そこに、たまたま釈迦がやってきて、「修行とは関係のない談義をしてはいけない」とたしなめました。
 そんな釈迦を、厳し過ぎると思うかもしれません。しかし、そんな釈迦の厳しさは、この世の悲惨さを骨身に染みてわかっており、そんな世界から弟子を救済してあげたいという、深い慈愛から発したものなのです。家が火事になり、一刻も早く逃げないと焼け死んでしまうといったとき、もし家族が世間話などしていたら、「そんな話などやめて早く逃げろ!」と言うでしょう。誰もその忠告を「厳しい」とは思わないでしょう。このたとえは、決して大げさではないのです。

 人生の目的を明確に定めると、時間だけでなく、あらゆる無駄がなくなります。目的に貢献しない余計なものは欲しくなくなりますから、買わなくなり、すると、家がすっきりします。同じく、無駄な人間関係もそぎ落としてすっきりします。
 また、余計なことで悩まなくなります。すなわち「こんなことで悩んでいても、人生の目的に貢献するだろうか? むしろ、障害になるのではないか?」と考えて、悩むのをやめ、悩みが少なくなってくるのです。


 
もし、このような生き方が「窮屈だ」とか「ストイックだ」と感じるなら、自分の掲げた「人生の目的」に、実はあまり魅力を感じていないのだと思います。本当にその目的に魅了され、何としてもそれを達成したいという願望があれば、窮屈などとは感じないでしょう。あたかも守銭奴が、一円のお金さえ無駄遣いせず節約してカツカツの生活をしていても、それを窮屈とは感じないようなものです。それどころか、「こうして目的に近づいているのだ」と感じて、喜びさえ感じるようになるはずです。
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