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 2023年3月の独想録


 3月22日 論争は不毛
 
まずは、ご報告とお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミーの授業は、「カウンセリングの理論と実践1」というテーマで行いました。カウンセリングを学ぶことで、自分を知ることができ、他者をより有効に援助できるようになります。いわば「徳を積む」ことができます。霊的修行を成就するには、どうしても「徳」、すなわち、過去の善業の報いである「幸運」が必要です。その意味でも、カウンセリングを学ぶことには意義があります。今回の授業で紹介するカウンセリングの理論と手法は、私のオリジナルな理論を土台としています。ぜひ、ダイジェスト版をご覧ください。
 動画視聴→
 来月の授業は瞑想教室で、「アビラの聖女テレサの瞑想法」というテーマで行います。


 
では、本題に移ります。
 釈迦は、「論争はするな」と繰り返し説きました。論争は、真実を探求する「議論」とは違い、要するに「言葉の喧嘩」です。負ければ悔しくなり、憎悪が芽生えます。勝てば高慢になり、また、相手から恨まれます。いいことはありません。
 私も若い頃は、けっこう論争好きでした。筋が通らないことが大嫌いだったので、相手がおかしなことを言うと、理詰めでその間違いを明らかにしようとしました。しばしば完膚なきまでにやりこめることもありました。
 しかし、争いというものは何であれ、徹底的に相手を打ちのめしてはいけないのです。よほど悪質な場合は別ですが、自分に勝算が見えてきたら、相手が逃げるすきを作ってあげるべきです。そうすれば、ひどく恨まれることもないでしょう。
 
 論争をしたがるのは、要するに、相手に勝つことで自分のエゴや虚栄心を満たしたいからです。あるいはまた、自分とは違う考えを言われると、自分(のエゴ)が否定されたように感じて不愉快だからです。いずれにしろ、論争はエゴの産物なのです。
 霊的修行の目的はエゴの消滅にありますから、霊性を高めようと思うのなら、論争はしてはいけないのです。
 相手が自分とは違う考え方を持っていたとして、そのことで自分には何の害もないのであれば、肯定も否定もせず、気にしなければいいのです。たとえ相手の考えが明らかに間違っていたとしても、頼まれもしないのに、その間違いを正そうとするのは、おせっかいです。せいぜい一言だけ「間違っていると思う」と言えばいいのです。それで相手が論争してくるようなら、相手にしないことです。相手には相手の考えがあり、自分には自分の考えがある。それでいいのです。


 
人間は、自分が思うほど論理的で合理的に物事を考えてはいません。
 たとえ科学者であってもです。科学者というと、物事を論理的で合理的に考える頭脳を持った代表格と思うかもしれませんが、意外にそうではないのです。確かに、自分の専門分野に関しては、おおむね論理的で合理的に考えますが、専門外のことになると、かなりいい加減に判断したりします。たとえば、「超能力は存在しない」と断言する科学者がいます。その根拠というのがあいまいで、たとえば、一人の超能力者がインチキだったとします。すると、それだけで「ほら、超能力なんて存在しないんだ」と言うのです。しかし、一例だけで超能力が存在しないと結論づけることはできません。たとえ、百人の超能力者のうち99人がニセモノだったとしても、そのうちの一人でも本物だったなら、超能力は存在すると言えるのです。
 科学者が、しばしばヒステリックなまでに超能力(科学では証明できないもの)を否定したがるのも、もしそれを認めてしまうと、自分が今まで学んできた科学(つまり自分の権威やプライドの土台となっているもの)が否定されてしまうのではないかと、怖れを抱いているからだと思います。
 超能力や奇跡といった現象を前にしたとき、本当の科学者なら、否定も肯定もせず、「それはわからない」と答えるはずです。なぜなら、否定するにしても肯定するにしても、しっかりした根拠が必要だからです。しっかりした根拠に基づいて結論を出していく、これが科学です。根拠が示されないものは、「わからない」ということになるのです。

いずれにしろ、科学者でさえ、この程度なのですから、一般の人が、厳密な論理的かつ合理的な判断など、そうできるはずはないのです。ましてや、宗教や哲学やスピリチュアルな世界など、しっかりした根拠を示すことは、ほとんど不可能でしょう。ですから、こうしたことで論争するなどというのは、時間とエネルギーの無駄以外の何ものでもありません。
 第一、論争で打ち負かすということは、ほとんどできません。相手は、あらゆる理由、たとえそれがあきらかなこじつけや屁理屈であっても、すべてを総動員して、自分の負けを決して認めようとはしないでしょう。


 
というわけで、私は今は、論争することはまったくなくなりました。少しクールな言い方ですが、人と人とが完全にわかり合えるというのは、不可能なのです。人は、論理的で合理的で客観的に考えて正解を出すのではなく、「そう考えたい、だからそれが正解なのだ(正解ということにしてしまう)」ということだからです。
 これが、人間というものなのですから、論争して自分の考えを相手に受け入れさせようとすること自体、不毛でしかないのです。
 論争する時間やエネルギーがあったら、もっと建設的なことに向けるべきです。人はいつ死ぬかわかりません。人生は思っているより短いです。論争などしているヒマはないのです。



 3月4日 真の聖者(覚者)かニセモノかを判断する基準
 
先日、ある新興宗教団体の教祖が亡くなりました。
 まだこの教団が設立されて間もない頃、私の本を読んだという人から、この教団の教祖の講演を収録したカセット・テープが送られてきたことがあります。同封されていた手紙には、「近いうちに○○師(教祖の名)は、人類の救世主としてその正体を宣言し、世界中から崇められる日が必ず来ます」と書かれていました。かなり熱心な信者だったようです。しばらくテープを聞いてみましたが、惹きつけられるものがまったく感じられなかったので、途中で聞くのをやめました。
 はたしてこのような宗教を信じる人がどれくらいいるのだろうかと、そのときは疑問に感じましたが、まもなくものすごい数の信者を集め、大規模な集会が行われ、ある種の社会現象にまでなりました。有名な作家やタレントが信者として名乗りを上げ、教団を擁護する言葉を声高に叫んで行進したりしていました。また、その頃、この教団とオウム真理教は張り合っていて、互いを悪く言いあっていました。

 古今東西、多くの聖者や覚者、救世主やグルを名乗る人物が教団を結成し、多くの信者を集めてきました。しかし、中には「こんな人物のどこがいいのだろう?」と疑問を感じることも少なくありません。
 確かに、本や説教に関しては、「いいことを言っているなあ、深い内容だなあ」と感じることはあります。しかし、人物そのものが、どう見ても怪しいのです(信者からすれば、怪しいと思う私が怪しいのでしょうが)。
 ただ言えることは、本や説教だけなら、いくらでも立派なことを言い、人を惹きつけることができるということです。多少の文才や弁舌の才能さえあれば、誰にでもできます。過去の聖者や覚者が説いたことをあちこちから引用し、適当につないでひとつの文章にするだけで「立派な本」が書けます。私だって書けると思います。
 また、いかにも聖者や覚者のような格好をし、それらしい話し方や振る舞いをすれば、たとえ内容が薄い講演でも、雰囲気に飲まれて、それをありがたがる人が一定数いるのです。

 それは、いわゆる「へたな鉄砲も数うちゃ当たる」ということなのでしょう。
 たとえば、皆さんも同じかと思いますが、毎日、私のもとには大量の詐欺メールが送られてきます。中には非常に巧妙なものもありますが、ほとんどは明らかに詐欺だとわかるメールです。しかしそれでも、千人に一人か一万人に一人くらいはだまされる人がいるのでしょう。だとすると、これを百万通送信すれば、百人から千人の人がだまされることになります。
 宗教も同じなのだと思います。「イワシの頭も信心から」という言葉がありますが、どんなにくだらない内容でも、うまく演出すれば、簡単にだませるのです。
 たとえば私が「仏陀の生まれ変わりだ」と宣言し、「立派な本」を書いて、言葉たくみに「イワシの頭を仏壇に置いて、それを拝めば幸せになれる」と説いたとします。なんとも馬鹿馬鹿しい話ですが、それでも、一万人か十万人に一人くらいは、だまされる人がいるわけです。日本の人口を一億とすると、千人から一万人くらいだまされて、私の信者になるのです。そうして教団を作ることができます。あとは、そうした信者は「カモ」ですから、いくらでもカネを吸いとることができます。若い女性も来るでしょうから、ハーレムを作ることもできます。

 私も、かつては、本や説法に接しただけで「この人は偉大な聖者、覚者かもしれない」などと思って、だまされそうになったことがよくありました。本物か偽物か、とても迷い、悩みました。
 もちろん、その人が本当の聖者(覚者)かどうかは、証明できないでしょうから、わからないことなのですが、それでも私は、自分なりに、それを判断するひとつの基準を持てるようになりました。

 それは、その人物が、「女・カネ・名声」に対して、どれだけ執着心があるか、ということです。
 人間というものは、たいていこれらのために堕落したり失敗したりするのです。つい最近も高名な弁護士がセクハラをして名誉も地位もいっきに失ってしまいました。女とカネと名声は、対応を誤ると、たちまち人を奈落の底に突き落とす「危険物」なのだと考えるべきです。爆薬や劇薬を扱うときのように、慎重かつ最大限の警戒が必要です。
 それを物語るように、聖者や覚者と呼ばれ、実際にある程度の高い境地に達したと思われる人が、女・カネ・名声に対する欲望を起こしたために堕落してしまったというケースを、国内外においてときおり見かけます(「女」ではなく「男の子」という場合も稀にあります。いずれにしろ、要するに色欲です)。
 聖者や覚者として有名になると、自然に女やカネが集まってきます。名声も高まります。そうなると、その誘惑に負けて堕落してしまうのです。なかには「解脱した者は女やカネに執着しない。だから女を抱きカネを集めても問題はないのだ」などとうそぶいて、自分の堕落を正当化する輩もいます。

 最近、「活き仏」と呼ばれ、多くの信者がいるという中国人の僧侶が書いた本を読みました。「高級車や豪邸などを欲しがるのは執着であり、それはやがて苦しみを生む」などと立派なことが書かれていて、感心して読み進めていたら「私は高級車に乗っている……」という一文が出てきて、すっかりしらけてしまいました。うっかり本当のことを書いてしまったのかもしれませんが、それにしても、自分自身が手本を示さないで、いかに立派なことを言っても、むなしいばかりです。言葉だけなら、いくらだって立派なことは書けるし、言えるのです。

 したがって、私は、女やカネの臭いのする「聖者」だとか「覚者」というものは信じません。名声に関してだけは、立派な人であれば本人にその欲望が無くても自然に高まっていくでしょうから、よしとしますが、女やカネの臭いがしたら、まずその人物はニセモノだと思っています。女性と関係をもったり、高級車に乗っていたり、豪邸に住んでいる、というだけで、いかに立派な本を書き、説法をしたとしても、私の「聖者リスト」からは、はじいてしまいます。

 真の聖者(覚者)は、間違いなく清貧の人です。女やカネや名声などには関心がありません。たとえカネを得たとしても、自分の懐に入れたりせず、貧しい人に施すでしょう。女性に対しては、母や妹や娘として接するか、あるいは「魂」として接するはずです。名声などは、それを求めるどころか、煩わしいものとして遠ざけようとさえするでしょう。
 こうした基準を設けてから、私は「この人は本当の聖者(覚者)なのだろうか?」と迷うことがなくなり、とてもスッキリして、悩まなくなりました。

 くどいようですが、本や口先では、いくらだって立派なことは言えます。いくらだってだますことができます。実際に、ある一定数、それでだまされてしまう人がいるために、彼らは教祖として崇められ、教団を作ることができるのです。
 しかし、真偽を決めるのは、言葉ではなく、生きざまです。生きざまだけが、本当の聖者(覚者)か、そうでないかを決めるのです。そして、その生きざまに関して、もっとも信頼できる基準は、女・カネ・名声に対する執着があるかどうかです。


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