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 2004年1月の独想録


 1月1日  リセットしながら生きる
 新しい年が始まった。
 一年365日というサイクルは、太陽がその周回軌道を一回転する時間に基づいているわけで、太陽エネルギーのレベルが一巡したということ、ひらたくいえば季節が最初に戻ったということだ。しかし、そんなことよりも、私たちにとっては、年号が変わるということに大きな心理的意味がある。時間の流れにひとつの壁が打ち立てられ、仕切られるのだ。
 たとえば、昨年はあまりいい一年ではなかった。だが、一日過ぎて年号が変わっただけで、質が変化したような感覚となり、もはや昨年のような悪いものではなく、今度はよいものに変わったのだという期待を抱かせるものとなる。
 別の言葉を使えば、これはひとつの「リセット」なのかもしれない。そして、これまでいろいろなことがうまくいかなかった、できなかった、あるいはやろうとしなかったとしても、「リセット」することで、「今年こそは!」という新鮮な気持ちでやり直す気力が湧いてくる。このリセットは、最小単位としては「一日」なのであろうが、「一日」よりも「一年」の方が重みがある。つまり、それだけ強い動機を私たちに与えてくれる。
 そして、人は、こうしたリセットをきっかけにして、意外にもいい方向へ進むということもある。
 しかしながら、逆にいえば、私たちはいかに「過去」にとらわれ、引きずられて生きているか、ということでもある。悪いこと、不運なこと、失敗や不幸があったら、こうした傾向がずるずると続くのではないかと考えてしまう。そして、実際にそう思っているから悪いことが次々に起こったりする。
 だが、そうした思いを断ち切るために、「年明け」まで待つことはない。そのような不都合なことが起きた時点で、すぐに「リセット」してしまえばいい。「不幸な私」、「何をやってもついていない私」、「失敗をしてしまった私」、このような「過去の私」など、いつまでも引きずってはならない。引きずるとしても、せいぜい「一日」だけで十分だ。毎日毎日を、まるで「年明け」のような新鮮な気持ちで、常に「過去の自分」から切り離していけば、それだけで幸運に向かう体質ができあがるに違いない。
 不運な人、失敗ばかりする人というのは、過去にうまくいかなかった自己イメージをいつまでも引きずっている人たちである。こういう人たちは、過去の失敗の経験を「またするのではないか」と怖がっている。そして実際に、再び同じ失敗の経験をすると「ほら、私が思っていた通りだ」と納得する。奇妙なことに、その言葉を口にすることに誇らしげなものさえ感じられることがある。つまり、自分が再び失敗をすることに、ひそかな期待を抱いているようなふしが感じられるのだ。
 おそらく、「失敗する私」という自己イメージを、自分の「アイデンティティ」にしてしまっているのだろう。人間は、アイデンティティを失うことに漠然とした不安を覚えるものである。「成功する私」という、不慣れな自己イメージよりも、なじみ深い「失敗する私」の方が安心するのだ。いいかえれば、成功するのが怖くなっているのだ。
 いつまでも不幸な人、失敗ばかりする人は、勇気をだして、過去のアイデンティティを捨て去らねばならない。肯定的なアイデンティティを自分のものとするために、不安と向き合わなければならない。幸せになることを恐れてはならない。成功することを恐れてはならない。愛されることを、賞賛されることを、恐れてはならないのだ。
 人は、瞬間瞬間ごとにリセットしながら生きていかなければならない。それはある意味で、一瞬一瞬、過去の自分を死に至らしめて生きるということでもある。
 人は、真に生きるためには、常に死ななければならない。
 過去の自分にしがみついたりせず、そんなものは毎日毎時、深い谷底に突き落としながら。そうして毎日毎時、常に「生まれ変わって」生きていかなければならないのだ。


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 1月4日  「芸術的なもの」が人を真理に近づける
 私は、作家、思想家、カウンセラー、講師、さらには占い師といった「肩書き」をもっているが、自分としては「芸術家」と呼ばれるのが一番すっきりした気持ちになる。芸術家といっても、せいぜい趣味で音楽を作曲している程度で芸術活動をしているわけではないが、何をしているかというより、芸術家の考え方や姿勢がしっくりと来るのだ。だから、私は芸術家、あるいは芸術家的な人と交流しているときが、もっとも自分らしくなれて楽しい。
 芸術家のいいところは、(それが真の芸術家であればだが)世間的な見栄や体裁、肩書きや経済力、社会的な慣習などに染まっていないことだ。売名やお金のために作品を作って表現しているのではなく、ただ内なる情熱にかられて表現している(それが真の芸術家だ)。だから、貧乏でホームレスに近いような生活を送っていても、そのこと自体が芸術家としての力量や品格をおとしめることはない。
 経済力も名声も地位もないのに、その力量や品格が落ちない職業といえば、他には宗教家や哲学者くらいなものだろう。その他の世界では、経済力や名声や地位がないということは、職業人としては劣っていると見なされてしまう。
 だが、人間は魂としてはすべて同格なのであるし、本来、尊敬されるかどうかは、経済力や名声や肩書きではなく、その才能や人間性によって決められるのが真実ではないだろうか。

 それはともかく、私もまた、表現したいという欲求にかられて、愛や真理や美について書いている。もちろん、経済的な動機もあるが、それは二の次だ。いくらお金があっても、私はこの表現活動を決してやめるつもりはない。
 宗教家や哲学者も、表現したいという同じ動機で仕事をしているのだと思う。それならば私は宗教家や哲学者というべきなのかもしれないし、実際、世間に向けては自分を哲学者だと名乗ることもあるけれども、実際にところは、私にとって、「芸術」あるいは「芸術的なもの」こそが、「宗教」そのものなのだ。
 つまり、私にとって「美しいもの」が善なのであり、生きる意味なのであり、救いになっている。美しくないものが悪なのだ(ただしそれは見かけを言っているのではない)。
 私が「愛」を人間の至上価値だと思うのは(そう感じるのは)、道徳や倫理の基準によって理性的にそう判断するのではなく、単純に、愛というものに美を感じるがゆえに、直感的にそう判断するにすぎない。愛とは何であるか、その真実の姿は知らないが、少なくても、とても美しいものに違いないということは予想がつく。
 私は何であれ、美しいものが好きだ。
 かつて、私がオウム真理教の前身であるオウム神仙の会に少しいたときも、そこから私を救ったのは、「芸術的感性」であった。麻原教祖の話は非常に理路整然としており、緻密で、ある意味では完璧であった。私は彼の説教に感心した。理性的には何も反論する余地はなかった。しかし、心の奥の方で「何かが違う」という声がわき上がった。「美しさ」を感じなかったのだ。オウムの幹部となった弟子たちの多くが、理数系出身のエリートだった。確かに、理知的な頭だけの人間は、麻原の教説にだまされても不思議ではない。だが、芸術系の人はだませなかったのではないかと思う。
 同様に、悪徳商法で大きな社会問題となった「豊田商事」の説明会に誘われて参加したときもそうだった。説明を聞くと、本当にお金儲けができると思われた。だが、その場の雰囲気や、説明をする人に、美しいものを感じなかった。だから金を投資しようなどとは思わなかった。

 いくら理知的な頭脳が高くても、つまり、学校の勉強ができて学歴が高くても、そんなものが真理に通じる道を示したりはしない。
 最後にものをいうのは、「美」なのだと思う。理知的に「何が真理か」と求めていくよりも、「何が美しいか」という感性を道標として歩んでいく方が、最終的にはその人を真理に近づけていくと思う(もちろんだからといって、何も勉強しなくていい、という意味ではない)。
 人間は、頭でっかちになるような勉強だけではなく、美的完成を磨き育てる勉強をしなければならない。とくに真偽があいまいな宗教や神秘主義の道を歩む人はなおさらだ。理屈ではどんなに正しいと思われても、そこに美しさが感じられなければ、どこかが間違っていると判断して、まず間違いない。
 自然を破壊すること、自然の中に平気でゴミを捨てるような人間は、芸術的な感性が麻痺している。差別やいじめ、争いや戦争などもそうだ。芸術的な感性があれば、こうしたことは「悪いことだから」という理由ではなく、「醜いから」という理由で、つまりは「そうした醜いことをする自分が恥ずかしいから」という理由で、しなくなると思う。
 また、世にいう「おじさん」、「おばさん」が嫌われるのも、年を取って恥じらいの気持ちが薄れ、厚かましくなり、自分勝手になって、自分がまわりからどう見られているかなど気にしなくなり、醜い姿をさらけ出すからだ。
 作家もおじさんになるし、思想家もおじさんになる。カウンセラーも、占い師も、おじさんになる。
 しかし芸術家だけは、決しておじさんにはならない(おじさんになる芸術家は偽物だ!)。芸術家はいつまでも若々しく、モノにも自然にも、人にも異性にも恋心をときめかせる心を失わず、どこかに美を保ち続けている。
 私はいつまでも芸術家であり続けたい。


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 1月18日  「がんばらない」という「癒し」について
 もうずいぶん前になるが、「人生は気楽に生きよう」、「がんばらずに、そのままの自分でいいんだよ」といった癒し系の本を書いている著者と知り合い、その人の講演会に出席したことがある。講演が終わり、楽屋で雑談して、そして別れるとき、私は、「それでは失礼します。これからもがんばってくださいね」といった。するとその著者の方は、急にぶ然とした表情になって、「私、がんばりません!」というのである。
「がんばってください」という言葉は、文字通り「がんばれよ!」ということを伝えるというよりも、「あなたを応援していますよ」といった、励ましのメッセージのニュアンスをもつ。私も、そのつもりで言ったのだが、「がんばらない」ということを主義にしている(?)その人にとっては、「がんばる」という言葉は、タブーだったのかもしれない。
 こうした癒し系の人たちは、「人生を明るく楽しく生きよう」、「人生は苦しんで生きるのではなく、楽をして生きるのが本当なのだ」という、きわめてポジティブな考え方をしている。この言葉そのものを取り上げるなら、私は何も異論はない。
 しかし人生というもの、いや、人生だけではなく、どのようなことも、物事はトータルに考えなければならないと思うのだ。部分的な考えや主張だけをつかみ、それを全体に当てはめようとすることは、ときに危険で、むしろネガティブな要素を生み出すことにもなりかねない。
 ポジティブの癒しを信奉する人には、二つのタイプがいるように思う。
 ひとつは、基本的にノー天気で楽観的、もともと人生を深刻に考えたりしない人。もうひとつは、自分の中に暗くネガティブな面をもっており、それをうすうすながらも自覚しているが、「そういうネガティブな思考はよくない、そういう思考をしていると不幸になる」といった恐怖心、強迫観念のようなものを抱いて、そのため無理をして「ポジティブ・シンキング」をしようとしている人だ。
 私は、人生で成功した人、幸せな人というのは、たしかに基本的にはポジティブ・シンキングだと思う。しかし、それは人間や人生のもつ暗黒面が見えない、あるいは見ようとしないところから生まれた「ポジティブ」ではないと思う。
 世間でもてはやされている「癒し系」の本や論説などに接すると、高い音の鍵盤だけを使って演奏されたピアノ作品を耳にしているような感覚になる。あるいは、ただ甘いばかりでコクも風味もないお菓子を食べているような感覚になる。そういう音楽やお菓子を好きな人もいるかもしれないから、これはよい悪いの問題ではなく、結局は感性の問題になるのだが、あくまでも私の感性からすると、こういう音楽やお菓子は好きではない。
 高い音もあり低い音もある音楽、甘くもあり苦くもあるお菓子、私はそういったものが好きだ。同じように、明るくもあり、暗い面をもっている人、幸せで楽しいばかりの人生ではなく、不幸で辛い面も背負って生きている人が、私は好きだ。そういう人、そういう人生にこそ、私は高い次元に通じる「美」を感じる。
「がんばってはいけない」と主張するあの著者の方が、「がんばってね」といった私に対し、むきになって「がんばりません!」などと言わず、にこりと微笑んで「ええ、がんばります。ありがとう!」といってくれたなら、私はその人を通じて、真の「癒し」とは何かについての直観を得ていたと思う。「この人は、私のことを応援してくれて、そういってくれたのだな」という配慮、その気持ちの温かさを感じ、単なる言葉(主義主張)にはとらわれない「心」をそこに見出して。
「がんばらなければならない」と思うことも、「がんばってはならない」と思うことも、両者はともに心が癒えていないことの証明であるようにも思われる。人生、おおいにがんばるときがあってもいいし、がんばらずにのんびりするときがあってもいいと、私はそう思っている。


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 1月23日  もしも何かになりたければ
 私は職業柄、次のような質問を受けることがある。
「私は、占い師になることができるでしょうか?」
「私は、作家になることが(本を書くことが)できるでしょうか?」
 こうした質問を受けたときの、私の答えは決まっている。
「たぶん、無理です……」 
 相手は、その言葉に唖然とする。「大丈夫、なれますよ」という言葉を期待していたからだと思う。
 なぜ、私が無理と答えるかというと、才能があるとかないとか、そういう問題ではなく、その人の真剣さ、一番大切な「情熱」が欠けていると思うからだ。
 情熱がなければ、何をやってもうまくいかないし、仮に、一時的にはうまくいったとしても、長続きさせることはできない。
 もしも、本気に真剣に、占い師であろうと作家であろうと、なりたいと思うならば、「なれるでしょうか?」などとは問わない。
 そこには「自分は必ずなる。何としてもなる。誰が何といおうと、絶対になるのだ」という、燃えるような情熱、決して揺るがない意志があるはずだ。「なること」が前提で、そこから始まっている。その道を歩むことは決定ずみのはずだ。だから「なれるかどうか」なんて問わない。もしも問いかけるのだとしたら、次のように問いかけるだろう。
「私は占い師(作家)になりたいのですが、どうしたらなれるでしょうか?」
 このように問われたとき、しかしそれでもまだ、私は素直に返事をかえさない。
「あなたは、どうしたらなれると考えますか?」
 と逆に問いかける。このときでも、その人の情熱がどの程度なのかがわかる。
 もしも本当になりたいという情熱があれば、他人に質問するよりも前に、自分でどうすればなれるかを本気で考えているはずだ。だから、このときに、「そうですねえ……」といって、初めて考えている様子では、たぶん、なれない。
 もっとも、その程度の情熱しかもっていないわけだから、たとえなれなくても、たいしてがっかりもしないかもしれない。
 もしも何かになりたければ、自分の人生も存在価値も、それになれなければ、すべて無意味だと思い詰めるくらいの情熱が必要ではないだろうか。夢をもっている人はたくさんいる。それはけっこうなことだと思う。しかし、夢はあれども情熱をもっていない、という人が多すぎる。それでは、その夢は、まさに文字通りの「夢」でしかない。私自身への自戒も込めていうのだが、とにかく大切なのは情熱なのだ。燃えるような情熱、それも、最初は少し野蛮なくらいの情熱の方が、夢を叶えるには必要であると思う。

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