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 2004年6月の独想録


 6月29日   哲学という退屈な理屈
 自然の生き物たちは、おそらく哲学的な思考など働かせていないだろう。彼らはありのままに生きている。ありのままに生きて、それなりに幸せそうである。彼らが哲学をしないのは、単純に進化レベルが劣っているがゆえの、知性の低さによるのだろうか? つまり、哲学をしたくても知性が低いためにできない、ということなのだろうか?
 それとも、哲学などする必要がない、ということではないのだろうか。
 哲学なんてすること自体、それは、ある種の「病んだ状態」ということではないのだろうか?
 人間が生きていくためには、哲学が必要だといわれたりするが、哲学が必要な人生なんて、そもそも欠陥があるのだと、いえなくもない。愛するのに哲学なんて必要がないように。
 無知で無教養な、愚かな母親の愛は、決して哲学者の愛に劣ってなんかいないだろう(むしろ、もっと深くてすぐれているかもしれない)。そして、仮に愛が人生における最高の幸福であるとするなら、人生に哲学なんて、必要ではないということになる。
 私にとって、哲学とは、「音楽理論」のようなものだ。
「四分音符はこうで、四分の三拍子の構造はああで……」といった理屈だ。しかし、音楽理論をいくら学んだって、編曲には役立つかもしれないが、すぐれた美しい旋律がそこから生まれるわけでもない。理論など、音楽を客観的な知識として他者に教えるためのツールにすぎない。
 愚かだが愛情深い母親は、愛についての、何ら気の利いた説明などできないかもしれないが、それでも確かに愛している。大切なのは「愛すること」であって、「愛を語ること」ではない。
 愛とは何かを人に伝えるのに、愛についての学理を説いて聞かせる必要なんてない。真に愛された人だけが、愛とは何かを理解することができる。小鳥たちは、音楽理論なんて何も語らないが、確かに私たちに、音楽とは何かを教えてくれている。その美しく、楽しげな歌声によって。
 私たちが、自然に感銘を覚えるのは、そこに何の哲学的な理屈なんて説かれていないにもかかわらず(むしろ、“説かれていないがゆえに”というべきか)、まさに真の意味における哲学の本質が表現されているからに違いない。
 コンサートで音楽理論を講義するような馬鹿なミュージシャンはいない。彼らはダイレクトに音楽とは何かを私たちに教えてくれる。まさに、音楽すること、そのことによって。
 哲学者だって、本当は同じことなはずだ。愛の理論なんて、退屈で聞きたくもない。
 愛そのものを教えて欲しい。
 人間は、愛の理論を学び過ぎている。愛の理論もけっこうだが、愛の理論がいっぱいになるほど、人は本当に愛することを忘れてしまいそうになるようだ。
 理論ではなく、愛することを学びたい。

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