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 2004年10月の独想録


 10月9日  障害児を産むという選択
 ひとりの女性がカウンセリングにやってきた。
 主婦であるその女性は、人生を悲観して自殺をはかり、大量の薬を飲んだ。しかし結局は死ぬことができなかった。妊娠していることに気が付いたのは、その直後だった。
 妊娠初期の頃の母体の影響は、胎児に大きな影響を及ぼすといわれている。女性は、薬の影響で障害児が生まれるのではないかと不安になった。産科医で検査してもらったところ、「障害児の生まれる可能性は低いが、断言はできない」といわれた。鬱状態がひどく、心療内科の医師も産科医も、このまま出産するのは難しいだろうから、中絶することを勧めた。
「私ははたして、中絶するべきなのでしょうか。それとも、産むべきなのでしょうか」
 女性が尋ねてきた。
「どちらがいいのか、誰にもわかりません。ただ、どのような決断をされるとしても、後悔のないようによく考えることが大切だと思います」
「ええ。私もそう思っています。心療内科や産婦人科の先生は、もう私が中絶するものと決めつけて、ことを進行しようとしているんです。でも、私はよく考えたいんです」
「未来に待っている選択肢は3つです。ひとつは、中絶すること、ふたつめは、出産して障害児が産まれること、三つ目は、出産して健康な子供が生まれることです。あなたは、健康な子供が生まれるなら出産の決断をするでしょうが、障害児が産まれる可能性があるという理由で、中絶を考えています。中絶した場合、その赤ちゃんは障害児だったかもしれませんが、健康な赤ちゃんだったかもしれないのです。こうしたことを、よく考えてみるべきだと思います」
「障害児が産まれたら、私は、自分が犯した過ちのために子供をそうさせてしまったわけですから、申し訳なくて、罪の意識を背負って生きなければなりません」
「しかし、中絶したからといって、せっかく産まれてこようとしていた子供を、言葉は適当ではないかもしれませんが、“殺した”ことになるのですから、中絶したからといって、罪が消えてしまうわけではないのではありませんか? しかし、障害児であっても産まれてきたなら、あなたは、自分の犯した罪滅ぼしを、その子供に対して行うこともできるのです。ところで、障害児として生まれてくることは、絶対に不幸なことだとお考えですか?」
「そこなんです。私の友達にも、子供が障害児という人がいます。もしも私が、障害児が生まれるかもしれないという理由で中絶したら、障害児という存在は、この世から不要なもの、存在してはならないものだということを、私が認めていることになってしまう。ああ、私は何というひどい人間なのでしょう。障害をもっていたって、幸せに生きている人だっているに違いないのに……」
 そのようにいって、しばらく涙を流して泣いた後、再び口を開いた。
「障害児として生まれてきたら、私は自分の罪を背負って生きなければならないでしょう。しかし、中絶したとしても、私は、私を選んで生まれてこようとしている赤ちゃんを殺したということで、やはり、罪をもったまま生きなければならないのです」
「何らかの理由で中絶した女性は、何年かして、よその子供を見ると、こう思うといいます。“ああ、あの子を産んでいたら、きっと今頃はあのくらいの子供になっていたんだわ。そして、あんなふうに、可愛いしぐさをして、私に甘えていたに違いない……”と」
「では、私は産んだ方がいいのでしょうか?」
「それはあなたが決めることです。ただ、障害児を産んで育てるということは、生やさしいことではありません。自分の人生のすべてを子供に捧げるくらいの覚悟が必要になるかもしれません。その覚悟があなたにはできますか?」
「わかりません。自信がありません」
「あるいはまた、健康な赤ちゃんを産んで、こうした心配はまったくの取り越し苦労だったということもあるのです。その可能性の方が高いのですが、もちろん、絶対ではありません」
「私は、中絶はしたくありません。子供を殺すようなことはしたくありません。でも、障害があるという理由で、子供自身が、自分が生まれてきたことを恨むようなことがあったら、私はどうすればいいのか、わかりません。私が自殺をしようとしたことで、子供に障害を負わせてしまったことを責められたら、言葉がありません」
「あなたは、恨まれ、責められるかもしれません。しかし、たとえ障害をもって生まれてきたとしても、“生まれてきてよかった。産んでくれてありがとう。”といわれるかもしれないのです」
 その女性は、しばらく考えてみるといって、帰っていった。


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 10月21日  障害児を産むという選択 2
 自殺のために飲んだ薬が原因で障害児が生まれる可能性があるということで、出産するべきか中絶するべきか悩んでいた女性が再びやってきた。
「私、産むことに決めました……」
 女性は、晴れ晴れとした顔をしてそういった。
 障害児が産まれる可能性は否定できないが、それでもいいのかと私は尋ねてみた。
 だが、その質問には直接に答えずに、女性は嬉しそうにいった。
「家族みんなが、望んでいるんです!」
 私はもう一度、障害児が産まれても、そのことを受け入れられるかと尋ねた。しかし、なおも女性は、この質問とは関係のないことをいった。
「少しつわりがきついので、これをどうにかしたいんですが……」
 私は、ようやく、自ら発した問いが愚問だったことに気がついた。
 今のこの女性にとって、生まれてくる子供が健常者か障害者かなど、ほとんどどうでもいいことなのだ。今のこの女性にとってもっとも大切なことは、「自分は産む決心をした」ということである。生命をこの世に生み出すことが至上命題になったのだ。すべての関心は、そこに集中している。
 この世に生命を生みだすという行為は、何を意味しているのだろうか?
 それは、ひとつのドラマの始まりを意味しているのではないだろうか。
 生まれてくるこの子は、生きている間、多くの人たちと関わりをもち、教えられ、教え、助けられ、助ける人生を送るだろう。ときには傷つけ合い、ときには愛し合う。そのひとつひとつがドラマだ。
 この子は、多くの人に優しい言葉をかけ、慰め、励ます人生を送るかもしれない。
「あなたがこの世に存在してくれてよかった。あなたがいなければ私も存在していなかった」
 といわれるような人になるかもしれない。
 まさに、このような人間に成長し得ることほど、本人にとっても、そして何よりも、その子を産んだ親にとっても、これ以上の報われはない。生命というものは、限りない可能性に満ちている。
 そして、このようなすばらしい可能性を成就するという点に関していえば、その子が健常者であろうと障害者であろうと、ほとんど何の関係もない。手足が不自由であっても、優しい言葉を語ったり書いたりすることはできる。たとえ話したり書いたり、他者とコミュニケーションができないほど障害が重かったとしても、その人の存在そのものから伝わる、不思議な影響力によって他者を感化させ、目覚めさせることもできる。これは決してロマンチックな空想などではない。私は実際、そのような人を身内のなかに知っているからだ。
 ところで、身体的あるいは知的・精神的なレベルでの「健常者と障害者」の差異ばかりがいわれるけれども、身体的また知的・精神的には「健常者」であっても、人間的に「障害者」であるかどうかは、あまり問われない。殺人を犯すほど重い人間性の「障害者」もいれば、お年寄りが目の前に立っているのに席を譲ろうとせず眠ったふりをする軽度の「障害者」もいる。孔子は「指が曲がっていることを気にする人は多いが、自分の心が曲がっていることを気にかける人はいない」と嘆いた。ここで道徳の説教をするつもりはない。ただ、人間的な障害は、ときに心身の障害よりも本人を不自由にし、不運や不幸を招き寄せることが多いという事実は知るべきであろう。
 それはさておき、産むと決意した女性は、まるで憑き物が落ちたかのように明るくなった。
 やがて、お腹の子はこの世に誕生してくるだろう。
 もしも、その子を産むかどうかの決断が、カウンセラーである私のアドバイスの影響が大きかったとするならば、ある意味で、私はその子をこの世に導いたことになる。
 いつか、その子は、産まれてきてよかったと思ってくれるだろうか?
 そうであれば、私は胸をなで下ろすことができる。


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 10月22日  言葉が出せない人をカウンセリングする         
 それは、70歳を過ぎた末期癌の男性患者さんであった。
 この方は、やや言語に障害があり、言葉を聞き取るのに非常な困難を覚えた。そのため、どうしても孤独になりがちであり、傾聴もカウンセリングもあまりできないような状態だった。
 けれども、言語だけがコミュニケーションの手段ではない。その患者さんはマッサージが好きだと聞いていたので、私は患者さんの病室を尋ねると、ほどんど会話をせず、一時間ほど全身をマッサージをしてさし上げた。身体はやせ細っていて、ほとんど骨と皮だけだったが、とても気持ちよさそうにしてもらえた。次回、この病院を訪ねるときは、もしかしたらこの世には存在していない人のからだだった。
 ところで、感銘を受けたというのは、マッサージのことではない。
 私が「マッサージをしに来ました」といって部屋に入ったときの、その患者さんの表情であった。
 私のその言葉を聞いて、患者さんは、唇をかみしめるように、目を閉じて、ゆっくりと深く頭を下げた。いかにも「はーっ、ありがたい!」といった感謝の表れの動作だった。
 私はその瞬間、何ともいえない深い感動を覚えた。
 一瞬ではあったが、なぜ、これほどまで感動したのか、今なおよくわからない。
 もちろん、私自身が感謝されたから嬉しかったといった、そんなレベルではない。もっと深い、人間存在の根源にかかわるような感動を覚えたのだ。
「ありがたい!」
 という、真実にして深い感謝の気持ち、この気持ちは、そのまま宗教の心であり、そのまま、神に通じる心ではないのか? 感謝の心は、その人からある種の光が放たれるような感覚をもたらし、実際、その光に照らされて、周囲の人の心に強い影響を及ぼす力があるように思われる。

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