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 2004年8月の独想録


 8月8日  自殺する人をくい止めるために 
 自殺した人の数が、毎年3万人を超えている。
 政府の調査によれば、動機としては、病苦など健康の悩みで自殺した人がもっとも多く、次に生活苦、次に家族問題、そして仕事の失敗など仕事の問題が続く。
 しかし実際には、こうしたおおざっぱな動機だけを調べて、その人が自殺した理由が理解できるかというと、そうではないだろう。病苦といっても、病気そのものの肉体的な苦しみもあれば、病気治療に関する経済的な負担が原因の場合もあるだろうし、病気のため家族に迷惑をかけているのが辛いという精神的苦痛があるかもしれない。
 一方で、いかに苦しい病気に見舞われても、いかに生活が貧乏で苦しくても、家族に深刻な問題を抱えていても、仕事で大失敗しても、死なない人は死なない。
 かと思うと、健康で、裕福で、家族円満で、仕事で成功しているのに、死んでしまう人もいる。
 自殺する人は弱いとか、卑怯だといった声も聞かれるが、そうした言葉で片づけられるほど単純ではないと思う。自分の痛みにも人の痛みにも鈍感な人は、死なないかもしれない。その場合、強いから自殺しないのではなく、単に鈍いから自殺しないだけではないだろうか。感性が鋭い人は、人生が本質的にもっている悲劇的な側面をありのままに感じてしまって自殺してしまうかもしれない。また、卑怯というが、非常にまじめで責任感が強い人が自殺し、文字通り卑怯な人というのは自殺しないかもしれない。
 いずれにしろ、自殺の原因をあれこれ詮索しても、あまり意味はないようにも思われる。
 自殺してしまった人は、自殺はよくないことだとわかっていたに違いないのだ。できるなら自殺なんかしたくなかったはずだ。だから、「自殺は悪いことだ」なんていったところで、それほど効果があるとも思えない。本人からすれば、何らかのやむを得ない事情があったのだろう。
 ところで、自殺をしようとしたが、やはりやめたという人も多いはずだ。こういう人たちのケースは、統計的に調査されたことはないだろうから、あまり世間から注目されないけれど、もし統計をとったならば、自殺した人の数よりも多いかもしれない(ちなみに、自殺を決行したが死にきれなかった人は、自殺の十倍から二十倍くらいの数にのぼるだろうと言われている)
 では、一度は自殺を決意しながら、いったい何が、その人を思いとどめたのだろう?
 人により、それはさまざまであるに違いない。すばらしい人との出会いや優しさ、すばらしい本に触発されたためかもしれないし、信仰に入ったためかもしれない。内的な良心の声が聞こえたためかもしれない。あるいは単純に、抱えていた悩みが解決したためかもしれない。
 このようなことがあると、理屈抜きに「死にたい」という気持ちが消えてしまう。そして、「とりあえず、もう少し生きてみてもいいな」と思えるようになってくる。
 そう思えるようになる出来事というのは、たいていはだいそれたものではない。むしろ、意外に小さなことであったりする。ほんの小さな親切、さりげない優しい言葉のひとつであったりするのだ。
 この小さな親切や、優しい心というものが、この社会全体に充満していたならば、これほどまでに自殺する人は増えなかったに違いない。冷たくギスギスした今日の現代社会では、病人は「厄介者」と見なされたり、貧乏であったり仕事で失敗したら「落伍者」として見られることが少なくない。その冷たい視線に耐えきれずに、人は死に走ってしまうのではないのか?
 人間は、病気にはなるが「病人」になるわけではない。仕事で失敗することはあるが、「人生に失敗した」わけでもない。そもそも失敗なんて一時的なもので、むしろ貴重な教訓を学ぶチャンスである。第一、何かをやったから失敗したのであって、最初から何もしない人は失敗などしない。挑戦したということだけでもすばらしいと見なされるべきではないのか?
 そんな意識をもって、まわりも社会も「落伍者」ではなく「挑戦者」として、敬意をもって見つめるならば、自殺する人はずいぶんと減るのではないかと思う。
 現代社会は、病人、貧乏人、家族に問題を抱える人、仕事で失敗した人などを、「まともな人」と見なしていない傾向があるように思われる。そういう問題を抱えている人は、社会的な価値のない、粗末な人間であると、意識的にも無意識的にもレッテルを貼られてしまうのではないか? 私たちは、そういうレッテルを貼られることに恐怖と不安を抱えながら生きている。
 増加する自殺傾向を抑制するには、私たちひとりひとりが、人生の苦難に出会ったいかなる人に対しても、「厄介者」だとか「落伍者」といった「まなざし」を決して向けないことから始めるべきだと思う。


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 8月19日  人はどうしたら変わることができるのか
 人は、どうしたら変わることができるのだろう?
 変わるとは、要するに、性格を変えること、あるいは、性格よりも深い人格的なレベルを変えることであり、それは生き方に反映されるから、物の見方や考え方、思考や行動のパターン、生活習慣を変えるということだろう。
 ところで、なぜ変えようとするのかというと、現在の状態では何らかの不都合があるからだろう。今の自分では嫌なので、もっと納得のいく自分に変えたいということなのだ。
 だから、それほど今の自分や生活が嫌だと思っていない人は、本気で自分を変えようとはしないだろう。たとえば、金持ちになった人というのは、若い頃に貧乏でひどく辛い経験をした人が多かったりする。貧乏が嫌で嫌で仕方がないのだ。だから、必死になって金持ちになろうと努力して、金持ちになったのだろう。
 しかしながら、それでめでたく人生がうまく運ぶかというと、必ずしもそうはいかないのが難しいところだ。ともすると、金がないことへの恐怖が土台になっているために、金に絡んだことで家庭や人間関係で失敗したり、際限なく金儲けをしようと欲を出して詐欺にあうなど、大きな挫折といったことも起きやすい。彼らは確かに、「貧乏な自分」を変えて「金持ちの自分」になったといえるかもしれないが、案外、深い人格的な部分では何も変わっていないのかもしれない。

 とはいえ、それでも貧乏のどん底からはい上がって金持ちになったというのは、評価しなければならないだろう。その善し悪しはともかく、彼らには何といってもバイタリティや、本気で自分を変えようという勇気がある。
 自分を変えるには、大きな勇気がいる。自分の醜い面、嫌な面、弱い面、認めたくない面に向き合わなければならない。常に反省をして自分自身を見つめる作業を怠ってはならない。だが、自分の嫌な面は見たくない。できれば避けて通りたい。物事がうまくいかないのは、人のせい、会社のせい、世の中のせいにしたい。実際、多くの人は自分を正当化する理屈を見つけだして自ら(のプライド)を守る。あるいは、「どうせ自分なんて、何をやってもダメなんだ」といってあきらめてしまう人もいる。
 他者や世の中の不満ばかり口にして自分を変えようとしない人には、このバイタリティと勇気が欠けているのかもしれない。これは、自己変革をめざす人には致命的であるに違いない。バイタリティや勇気があればすべてOKというわけではないが、少なくてもこの二つがなければ、自己変革は不可能ではないだろうか。

 本気で自分を変えようとしない人というのは、中途半端に恵まれているからなのかもしれない。
 金持ちではないが、食べる物に困って飢えるほど貧乏でもない。神の恵みは欲しいが、いっときも忘れないほど神を求めているわけでもない。作家にはなりたいが、仕事の帰りに居酒屋で酒を飲んだりする時間に文章を書きたいとまで思わない。
 だが、金持ちになる人は、金のことがいっときも頭から離れない。神を見出す人は、神のことがいっときも頭から離れない。作家になる人は、文章で表現することが頭から離れない。まるで激しい恋をしている人が、いっときも恋人のことが頭から離れないように。
 もっとも、今の若い人たちは、恋にそれほどまでの情熱をもっていないかもしれないので、恋のたとえは適当ではないかもしれない。「こうしている時間だけ会わせてください」といって、手のひらをロウソクの炎で焼き、恋している女に会わせてくれと相手の親に頼み込んだ画家のゴッホくらいの情熱があれば、たぶん、何をやっても成功するのではないだろうか。

 それはともかく、金持ちになるのであれ、神を見出すのであれ、それにふさわしく自分自身を変え、生き方を変えなければならない。
 貧乏のどん底から金持ちになったある人がいうには、「金持ちになる人は、どうしたら金持ちになれるかなんて、いつまでも考えていない。たとえば、プールの水をおちょこでくみ出せといわれたら、すぐにおちょこをつかって水をくみ出す。おちょこでプールの水なんかくみ出せるわけがない。もっといい方法があるはずだといって、黙って考えてなんかいない。とにかくどんなに小さくてもいいから行動する。おちょこを使って水をくみ出していると、もっと効率的な方法がわかってくるものなのだ」といったことをいっている。
 同じように、神を求めている人は、神を探してなんかいない。いつまでもダラダラと瞑想したり、祈ったりなんかしない。本気で神を求めている人は、24時間、ひたすら神のことを思っている。つまり、24時間いつも瞑想している。
「自分を変えるには、どうすればいいか?」と考えること自体、すでに本気で自分を変える意志がないことを示しているのかもしれない。水に溺れている人は、「どうしたら泳げるようになるんですか?」なんて質問したりしないように。そんなことを考えている暇があったら、必死に手足をばたつかせるだろう。そうして、気が付いたら泳げるようになっているのだし、さもなければ、溺れて死んでしまうというだけのことだ。
 人間が変わることができないのは、水に突き落とされるような経験が、幸か不幸かないからなのかもしれない。もし、金持ちになりたければ、徹底的に貧乏の悲惨さを味わえばいいのかもしれない。もしも神と出会いたければ、人間という存在が、いかに孤独なものであるかということを、気が狂うのではないかと思う寸前まで苦悩すればいいのかもしれない。
 そうすれば、自分の弱点だとか醜い面だとか、そういったものを直視できないようなちっぽけなプライド、ひ弱さといったものは吹っ飛んでしまう。ただただ情熱に突き動かされ、目的達成のみに意識が向けられて前進していくようになるのではないだろうか。そうして、自分を変えることができるようになるのではないだろうか。
 人間は、何かをやりたくない場合ほど、「どうしたらいいのか?」などと考えてばかりいる。それは単に、行動をしなくてもすむための言い訳にすぎない。
 考えることは大切だが、行動しながら考えなければならないのだ。
 結局のところ、自分を変えるための方法なんて存在しないのかもしれない。
 やるか、やらないか、変わるか、変わらないか、それだけのことなのかもしれない。

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