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 2004年12月の独想録


 12月9日  粘り強さが成功の鍵
 友人が、これを聴いてみなよといって、一枚のCDをプレゼントしてくれた。
 ハンス・ロット作曲の交響曲第一番である。
 ハンス・ロットは、マーラーと同時期のオーストリアの作曲家だ。交響曲第一番は、彼が二十歳のときの作品で、非常に壮大で重厚なサウンドが展開される、それなりに見事な内容に仕上がっている。後にマーラーが、自分の交響曲作品の数々において、ハンス・ロットのこの曲の中のフレーズから多数引用していることからも、この作曲家の天才ぶりがわかるが、不幸にも、ついにその才能が認められることなく、26歳の若さで死んでしまう。そして歴史からその名前は姿を消してしまうが、1980年後半あたりに再評価され、近年、演奏回数も増えてくるようになった。
 ハンス・ロットは、奨学金を得て音楽家として独り立ちするために、自作の第一交響曲を世に出そうとあらゆる努力を試みた。当時の著名な指揮者リヒターに初演してもらうように頼んだり、ブラームスに認めてもらおうとして面会したりした。だが、リヒターからはそっぽを向かれ、ブラームスからは「美しい部分もあるが、全体としてはナンセンスだ。だから、美しい部分も君が作曲したのではないんだろう」とこきおろされる。そしてコンクールに応募するも、他の作品すべてが何らかの賞を受けたのに、彼の作品ただひとつだけが何の賞も得られず落選。審査員からは嘲笑の声も聞かれたという。
 失意のどん底に落とされたハンス・ロットは、しだいに正気を失い、「ブラームスが自分を殺そうとしている」という妄想が出て精神病院に入院。深刻な鬱病となり、何度も自殺未遂をした上に、結核をわずらって死んでしまった。皮肉なことに、精神病院に入院させられ、まともな作曲ができない状態になった直後に、彼の才能を認めた文部省から奨学金が降りた。
 精神病院の中でも作曲らしきことは続けたようだが、楽譜用紙に音符を書き留めると、その紙を「適切ではない用途」に使って、「人間のすることなんて、なにもかも、この程度の価値しかないのさ」と口をゆがめて喜んだという。

 自分の作品がコンクールで落選したり、評論家に否定されたり、世に受け入れられなかったために、精神の安定を欠いてしまう芸術家は少なくないようだ。ラフマニノフなどもこうした理由から精神的に病んでしまった時期もあった。
 また、精神的に病んでしまうまではいかなくても、最初の試みでつまづいたために自信を失い、努力を続けていけば偉大な成功を収めたかもしれない人が、そのまますばらしい才能を枯れさせてしまったといったことは、たぶん、潜在的にはかなりの数に上るに違いない。
 芸術家に限らず、いかに多くの、せっかくの才能が、親や教師、友人といった身近な人の、心ない言葉や無責任な評論によってつぶされているかといったことは、深刻なほどあるだろう。
 あえていうまでもなく、世にいう「評論家」だとか「審査員」だとか、その当時の社会の評価といったものは当てにはならない。過去の歴史を少し見ればわかるように、当時、評論家から酷評されたり、コンクールに落ちたり(審査員から認められなかったり)、社会から冷たく扱われたりした作品が、今日、すばらしい評価を受け、名作とされ、大衆的人気を得ている例など、枚挙にいとまがないくらいだ。
 その人の才能や作品のレベルを評価することは、難しい。いわんや、たとえ現在の才能や作品レベルをある程度は評価することができたとしても、その人がこれからどれくらい伸びるかを予測することは、本当に難しいことなのだ。ブラームスほどの偉大な才能の持ち主でさえ、ハンス・ロットの才能を見抜くことはできなかったのである。ならば、口先だけ達者で本人自身は才能のかけらもないような、世にいう「評論家」などが何をどういったところで、そのようなものはまったくナンセンスということになる。
 しかし、人間という存在は弱いから、自分自身の価値観や自信を得るには、どうしても他者からの評価を必要とする。子供の頃は、特に親からの評価は絶対的なものとなる。親に否定されたら、幼い心は、いったいどこに自らの価値の証明を求めたらいいというのだろう。
 人間はたいてい自信がないから、自分の影響力を強くするために、さまざまな権威を利用しようとする。「○○大学の教授」だとか、「○○博士」といった肩書きをもつことで、本人も、また世の中も、教授や博士がいうことだから間違いないだろうと信じ込むようになる。
 まったくつまらない絵画や文学なのに、「これはあの有名な○○先生が創作したものだ」といわれるだけで、何となくすごいもののように思われてくる。そして、そのようなすごい先生が創作した作品に対して否定的な感想を述べることは、自らの芸術性の貧しさを表明するようで、怖くてできなくなる。へたなことをいおうものなら「芸術というものが理解できないんだね」とバカにされそうなので、つい「さすがに、すばらしいですねえ」などといってしまう。同じことは宗教の世界にもいえる。「これは教祖、大僧正、グルが説いた教えだ」というだけで、無批判に受け入れられてしまう。
 だから、自分の才能や作品などが、「あの有名な先生」だとか「一流の○○大学の教授」から否定されたら、本当に自分の才能や作品には価値がないのだと感じてしまっても無理はない。
 けれども、それはナンセンスであることは、歴史が証明しているのだ。
 だから、たとえ誰からであろうと、自分の才能を否定されたとしても、決して失望することはない。いや、決して、失望してはならない。
 あのハンス・ロットが、どこまでも自分の作品に自信をもって努力を続けていってくれたら、今ごろ私たちは、彼の残した数多くのすばらしい音楽によって、どれほど心励まされていたかわからなかっただろう。何というもったいないことか。まさに人類の致命的な損失であったといわなければならない。評論家や審査員といった、あまり当てにならない、むしろ偉大な才能を殺してしまう罪を犯しているような連中の評価など、気にしてはならないのだ。自らのトラウマを他者に投影して相手を否定するだけの親や教師、友人などからの無責任な言葉にも、耳を貸してはならない。
 あなたの才能が、もしかしたら人類の偉大な遺産になるかもしれないのだ。それは決して誰にもわからないことなのだ。ならば、あなたは、未来の人類のために、あなた自身の才能を守らなければならない。守ることが義務であるともいえる。
 そして、あなたの才能や作品に肯定的な評価をしてくれる声だけに耳を貸せばよい。人を褒めることができるという人は、人間が大きい人である。小さい人間は他者を褒めることができない。かわりに嫉妬するだけで、そういう人から聞かれる言葉は悪口や批判ばかりだ。けれども、芸術や文学の真価というものは、おおむね、心の大きい人にしか理解できないものである。小さい人間を相手にせず、大きな人間を相手にすることで、人は成長し、その才能も開花されていく。だから、あなたの才能を評価し褒めてくれる人だけを相手にしていけばいい。自信過剰にならず、謙虚な向上心さえ忘れなければ、そのことで道を誤ることはない。むしろ、頼まれもしないのに余計なアドバイスをしてくる相手に真面目に耳を傾けてしまう弊害の方が大きい。
 誰が何といおうと自分の才能を信じきる「厚かましさ」と、自分の才能が開花するまでどこまでもひたすら努力を続ける「ねばり強さ」こそが、どのような世界であれ、成功の秘訣であると私は思う。一度や二度、いや、十回や二十回くらいの挫折や失敗で道を諦めてはいけないのだ。

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