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 2004年9月の独想録


 9月19日  真の「苦行」とは何か?
 宗教的な修行として、しばしば「苦行」が行われる。
 断食をしたり、断眠をしたり、真冬に滝を浴びたり、朝から晩まで祈ったり、走ったりする。釈迦が6年間、断食などの苦行をしたことはよく知られている。結局、釈迦は「苦行では悟りは開けない」として苦行をやめ、スジャータと呼ばれる女性から乳粥をもらって食事を摂った。それを見た信奉者は、「落伍者」だと非難し、彼のもとから去ってしまったという。
 そもそも、どうして宗教には苦行がつきものなのだろうか?
 はためには、ただ自分をいじめているだけのように見える苦行には、どのような意味があるのだろうか?
 釈迦がいうように、悟りを開くうえで、苦行は役に立たないのだろうか?
 こうした疑問を解くには、そもそも宗教でいう「悟り」や「救い」とは、どういうことなのかについて調べてみなければならないだろう。何らかの形で「悟り」や「救い」の役に立つから、苦行を行うのであろうから。
 ここで、悟りとは何か、救いとは何かについて論じていたキリがないので、とりあえず、おおざっぱな言い方(しかし、たぶん本質的な言い方)をすれば、悟りというのは、限定された意識、いわゆる「我識」というエゴから解放され、宇宙的で広大な意識に目覚めることである。こういっても、間違いではないと思う。そこで、エゴから解放された人(すなわち、悟りを開いた人)は、いわゆるエゴ的な意識や行動とは無縁の生き方をするだろう。
 エゴ的な生き方の典型としてあげられるのは、「競争意識」であり、いわゆる虚栄心である。それは、「自分が一番優秀なのだ」「自分が一番正しい」ということを認めさせたい欲求に振り回されて生きることである。ある意味では、これは向上心となり、優秀な学生や有能な社会人になる原動力にも成り得るが、「優秀になりたい」「有能になりたい」という気持ちが、「人に負けたくない」という動機に基づいている点において、こうした人たちが心の平安や、真の幸せをつかむことはきわめて難しくなってしまう。なぜなら、常に自分が一番でないと満たされないなら、現実には常に自分が一番になることも、また、それを維持し続けることも不可能だからである。
 むしろ、人間の本当の幸福は、他者より抜きんでることにあるのではなく、他者と共感し合うことにあると、私は思う。
 その点、エゴから解放された人は、「人に負けたくない」といった虚栄心とは無縁なので、この世に敵もライバルもない。自分の優秀さを見せびらかしたり、自慢したりといった必要もない。「優秀になりたい」「有能になりたい」という気持ちはあるかもしれないが、その動機は「他者に奉仕できる人間になるため」である。
 だから、どこまでも謙虚であり、本人は自分が「謙虚である」とさえ思っていない。こうした生き方が当たり前になっているからであり、そういう生き方をすること、そのものが「喜び」になっているからだ。
 こうした生き方が自然にできることが「悟りを開いた」ということだと思う。
 ならば、苦行というのも、こういう生き方ができるために貢献するものでなければならないはずである。
 ところが、苦行を熱心に行ってきたこと自体が、その人の虚栄心を消してエゴをなくすどころか、逆にエゴを強化してしまうことがあるように思われる。たとえば、「どうだ、自分はこんなにすごい苦行をしたんだぞ」といって自慢をする行者などもいる。
 聞くところによると、本来ならエゴを消し去る宗教修行の世界が、実は俗世以上に醜い競争心、なわばり意識、妬みや嫉妬、権力争いといったものにまみれているらしい。そういう人に限って、熱心に祈りを捧げたり、苦行などを行っていたりする。本末転倒なのだ。苦行は、一歩間違うと、逆にエゴを強化し、人を醜悪にしてしまう危険性が非常に高いように思われる。
 そもそも、多少の断食だとか、真冬に滝を浴びるなどというのは、プロのスポーツ選手やオリンピックに出場するような選手たちが行う練習の厳しさに比べれば、自慢するほどのことではない。
 むしろ、私たちにとってもっと苦しく、また、もっと必要とされている「苦行」というものは、この世俗の世界のなかでたくましく生きながらも、清らかな心や純粋性を失わないでいる、ことではないだろうか。
 理不尽で我が儘で威張っている客に対し、下げたくもないし、下げる理由などない頭を下げて、ご機嫌を取るという行為、これは苦行ではないだろうか。
 無能なくせに威張り散らし、仕事がうまくいかないのを部下のせいにする上司と仕事をすること、これは苦行ではないだろうか。
 憎しみに対して愛をもって返すという生き方、これなどは、究極の「苦行」ではないだろうか。
 悪意や敵意、軽蔑や侮りの気持ちを抱いて、自分に意地悪をしたり、悪意に満ちた批判や悪口、嘲笑や露骨な蔑みの言葉を投げかけてくる相手に対し、自分も同じ敵意と憎しみで返すのではなく、逆に、親切、善意、優しさ、愛の気持ち、言葉、行為で返す生き方ほど厳しく、難しく、辛い苦行はないかもしれない。
 釈迦はいった。「憎しみに対して憎しみをもって報いる限り、憎しみは消えることはない。憎しみに対して、憎しみをもって報いないことにより、はじめて憎しみは消える」と。
 この世の中を見渡してみると、ひどいことをされた人は傷つき、人間不信になり、憎しみを抱いて、他の人に対しても憎しみをもってひどいことをするようになる。こうして、連鎖的に、世の中には憎しみが蔓延していく。
 だが、憎しみを受けても憎しみをもって返さず、親切と善意をもって返すならば、憎しみの連鎖はそこで止まる。世の中に必要なのは、まさに、そんな人なのだ。
 誰かが断食をしたり、滝を浴びるような苦行をしたからといって、私たちには有り難くも何ともない。だが、憎しみに対して善意で応える「苦行」をしている人は、本当に有り難く、偉大である。
「なんとか大僧正」といった仰々しい肩書き、金ピカな法衣に身をくるんだだけの宗教者など、私には「賽銭泥棒」くらいの認識しかもたないが、以上のような生き方をしている人には、心からの尊敬を覚えないではいられない。たとえそれが、社会的には平凡な主婦、お年寄り、女子高生、ただの会社員や店員であっても、こういう人たちこそ、霊的には真に偉大な人たちではないだろうか。
 こういう人たちこそ、真の「宗教者」ではないだろうか。
 残念なことは、こういう人たちは謙虚で目立たないから、私がいくらお礼を言いたくても、教えを乞いたくても、なかなかできないということだ。

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