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2007年1月の独想録
1月28日 良寛の伝記の中でもっとも暗い場面のこと
私が敬愛してやまない越後の名僧、良寛について、少し書いてみたい。
ご存じの方も多いと思うが、良寛は今からおよそ250年ほど前、江戸時代末期に誕生した禅僧である。しかし生涯にわたって寺をもつことも弟子をもつこともなく、ただ越後(新潟)の田舎でただひとり、托鉢で生計をたてながら、村人と交流を重ねて一生を終えた。数々のすぐれた書や歌を残し、また、天真爛漫なエピソードが数々残されている。子供と遊ぶのが好きで、一般には「良寛さん」などと親しく呼ばれている。
しかし、私が思うに、良寛ほど高い悟りと霊性を体現した僧はまれであり、本来なら「良寛さん」などと気安く呼べるような人ではなかった。まさに比類なき名僧の中の名僧なのである。
良寛は、名主の御曹司として生まれ、長男だったので後を継ぐはずであった。しかしあまりにも生真面目で純粋で気弱な性格だったため、政治的なかけひきが苦手で、一時期、名主の見習いをしていたたものの、すぐに挫折。結局、18歳で寺に出家することになる。そして22歳のとき、当時、高僧として知られていた国仙和尚の弟子となり、はるばる岡山の寺までいって修行を始めることになる。
これは、仏教の世界では大変な名誉らしく、今日でいえば、ハーバード大学やオックスフォード大学に留学するくらい、すごいことだったらしい。おそらく、家族は、いつか修行を終え、大僧正にでもなって華々しく帰郷することを期待していたに違いない。
さて、良寛はこの国仙和尚のもとで十数年ほど修行し、師匠から印可(ある種の卒業証書)をもらうと、寺を出てしばらく放浪の生活をしたようだ。
そして、ついに故郷である越後の国に帰ってきた。
ところが、すでに実家は衰退の一途をたどった末に没落。母親は48歳の若さで病死、その12年後に父親は川に飛び込んで自殺、細々と弟が家を継いでいるといったありさまだった。
かたや良寛の方も、出世したわけでもなく、着ているものはボロボロで乞食同然、歳も40歳になろうとしていた。まったくの落ちぶれた、ひとりの孤独な雲水(旅をしながら修行する僧)でしかなかった。
さすがの良寛も、こんなみじめな姿を弟に見せられず、実家の近くを通ったものの、顔も見せず素通りしてしまった。そしてふらふらと浜辺に足を向けた。寝る場所さえなかったので、漁師にお願いして物置に泊めさせてもらうことになった。ふとんもなければ、すきま風が吹き込んで来るような、わびしくて寒い物置であった。
良寛の伝記を読み返すたびに、私はこのときの様子に感銘を覚える。
世間一般的な価値観からすれば、良寛はまさに「落ちぶれ者」であり、今日の言葉を借りれば、「負け組」であった。僧侶として成功し故郷に錦を飾って凱旋するどころか、乞食同然の境遇で帰ってきたのだ。名声も、お金も、家族も、なにもない、みじめな姿そのものになって。しかも歳は40歳。今日の社会からすれば、まだ若い年齢だが、当時の40歳は、今の感覚なら60歳くらいかもしれない。
そんな良寛が、ひとり漁師の物置小屋で一晩をあかした、そのときの気持ちは、いかなるものだったのかと思う。聞こえるのは、寄せては返す波の音ばかり。凡人の感覚なら、これほどの屈辱、これほどのわびしさ、これほどの孤独、これほどの絶望に、とても耐えてはいけないのではないかと……。
けれども、こんなにも暗いシーンが、神の目からみれば、あるいは、歴史を経て良寛の人生の全体を知り得た今の私たちの目から見れば、まさにこのときこそが、偉大なる良寛の、その真の人生の始まり、その輝かしい業績の誕生の瞬間であったことがわかるのだ。寄せては返す波の音は、輝かしい勝利のファンファーレである。「負け組」どころではなく、実は最高の「勝ち組」だったことがわかる。
もしも良寛が出世して、大僧正などと呼ばれて、金ぴかの袈裟をぶら下げて故郷に帰ってきたならば、その地方の人にだけは多少は名が知られたかもしれないが、すぐに忘れ去られ、歴史に残ることもなく、私たちを励ましてくれるような人には成り得なかったであろう。
良寛の伝記のなかで、もっとも暗いこの場面こそが、まさにこれからすばらしいことが始まる夜明け前の暗闇であったことがわかる。そう思うと、まったく人生というものはわからないものだと思う。
その後、良寛は弟に発見され、閑静な場所に小さな小屋を建ててもらって住むようになる。
そうして、光るものをもっている人は、やはり自然にその存在は認められるものである。その徳と学識の高さを慕って、当時の有名な学者や文化人が良寛のもとに訪れてきた。
それでも結局、良寛は死ぬまで自分の寺ももたず、弟子ももたず、説教のようなこともせず、子供と遊び、村人と共に泣いたり笑ったりしながら、見事な書や歌を残して、74歳でその生涯を閉じた。多くの参列者がかけつけ、実家から火葬場に列を作って向かったが、先頭が火葬場へ着いても、その後尾はまだ、実家の庭先にいたという。
私にとって、良寛は、私が最終的にたどりつきたい心の故郷であり(かなり難しいだろうが)、これほど深い思いで敬意と思慕を寄せる人はいない。
2007年1月の独想録
1月28日 良寛の伝記の中でもっとも暗い場面のこと
私が敬愛してやまない越後の名僧、良寛について、少し書いてみたい。
ご存じの方も多いと思うが、良寛は今からおよそ250年ほど前、江戸時代末期に誕生した禅僧である。しかし生涯にわたって寺をもつことも弟子をもつこともなく、ただ越後(新潟)の田舎でただひとり、托鉢で生計をたてながら、村人と交流を重ねて一生を終えた。数々のすぐれた書や歌を残し、また、天真爛漫なエピソードが数々残されている。子供と遊ぶのが好きで、一般には「良寛さん」などと親しく呼ばれている。
しかし、私が思うに、良寛ほど高い悟りと霊性を体現した僧はまれであり、本来なら「良寛さん」などと気安く呼べるような人ではなかった。まさに比類なき名僧の中の名僧なのである。
良寛は、名主の御曹司として生まれ、長男だったので後を継ぐはずであった。しかしあまりにも生真面目で純粋で気弱な性格だったため、政治的なかけひきが苦手で、一時期、名主の見習いをしていたたものの、すぐに挫折。結局、18歳で寺に出家することになる。そして22歳のとき、当時、高僧として知られていた国仙和尚の弟子となり、はるばる岡山の寺までいって修行を始めることになる。
これは、仏教の世界では大変な名誉らしく、今日でいえば、ハーバード大学やオックスフォード大学に留学するくらい、すごいことだったらしい。おそらく、家族は、いつか修行を終え、大僧正にでもなって華々しく帰郷することを期待していたに違いない。
さて、良寛はこの国仙和尚のもとで十数年ほど修行し、師匠から印可(ある種の卒業証書)をもらうと、寺を出てしばらく放浪の生活をしたようだ。
そして、ついに故郷である越後の国に帰ってきた。
ところが、すでに実家は衰退の一途をたどった末に没落。母親は48歳の若さで病死、その12年後に父親は川に飛び込んで自殺、細々と弟が家を継いでいるといったありさまだった。
かたや良寛の方も、出世したわけでもなく、着ているものはボロボロで乞食同然、歳も40歳になろうとしていた。まったくの落ちぶれた、ひとりの孤独な雲水(旅をしながら修行する僧)でしかなかった。
さすがの良寛も、こんなみじめな姿を弟に見せられず、実家の近くを通ったものの、顔も見せず素通りしてしまった。そしてふらふらと浜辺に足を向けた。寝る場所さえなかったので、漁師にお願いして物置に泊めさせてもらうことになった。ふとんもなければ、すきま風が吹き込んで来るような、わびしくて寒い物置であった。
良寛の伝記を読み返すたびに、私はこのときの様子に感銘を覚える。
世間一般的な価値観からすれば、良寛はまさに「落ちぶれ者」であり、今日の言葉を借りれば、「負け組」であった。僧侶として成功し故郷に錦を飾って凱旋するどころか、乞食同然の境遇で帰ってきたのだ。名声も、お金も、家族も、なにもない、みじめな姿そのものになって。しかも歳は40歳。今日の社会からすれば、まだ若い年齢だが、当時の40歳は、今の感覚なら60歳くらいかもしれない。
そんな良寛が、ひとり漁師の物置小屋で一晩をあかした、そのときの気持ちは、いかなるものだったのかと思う。聞こえるのは、寄せては返す波の音ばかり。凡人の感覚なら、これほどの屈辱、これほどのわびしさ、これほどの孤独、これほどの絶望に、とても耐えてはいけないのではないかと……。
けれども、こんなにも暗いシーンが、神の目からみれば、あるいは、歴史を経て良寛の人生の全体を知り得た今の私たちの目から見れば、まさにこのときこそが、偉大なる良寛の、その真の人生の始まり、その輝かしい業績の誕生の瞬間であったことがわかるのだ。寄せては返す波の音は、輝かしい勝利のファンファーレである。「負け組」どころではなく、実は最高の「勝ち組」だったことがわかる。
もしも良寛が出世して、大僧正などと呼ばれて、金ぴかの袈裟をぶら下げて故郷に帰ってきたならば、その地方の人にだけは多少は名が知られたかもしれないが、すぐに忘れ去られ、歴史に残ることもなく、私たちを励ましてくれるような人には成り得なかったであろう。
良寛の伝記のなかで、もっとも暗いこの場面こそが、まさにこれからすばらしいことが始まる夜明け前の暗闇であったことがわかる。そう思うと、まったく人生というものはわからないものだと思う。
その後、良寛は弟に発見され、閑静な場所に小さな小屋を建ててもらって住むようになる。
そうして、光るものをもっている人は、やはり自然にその存在は認められるものである。その徳と学識の高さを慕って、当時の有名な学者や文化人が良寛のもとに訪れてきた。
それでも結局、良寛は死ぬまで自分の寺ももたず、弟子ももたず、説教のようなこともせず、子供と遊び、村人と共に泣いたり笑ったりしながら、見事な書や歌を残して、74歳でその生涯を閉じた。多くの参列者がかけつけ、実家から火葬場に列を作って向かったが、先頭が火葬場へ着いても、その後尾はまだ、実家の庭先にいたという。
私にとって、良寛は、私が最終的にたどりつきたい心の故郷であり(かなり難しいだろうが)、これほど深い思いで敬意と思慕を寄せる人はいない。