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 2007年7月の独想録


 7月3日 苦しみから学ぶもの
 人は辛いことを経験すると、いろいろなことを学ぶ。それは知恵であったり、忍耐であったり、いろいろだ。そして、辛い苦難を通して学んだ知恵は、やがて苦難がとけて物事が順調にうまくいったときには、そのときの知恵がとても活かされることになる。あるいは苦難で身につけた忍耐力もまた、順調のときにはますますがんばり抜く力となって活きるであろう。知恵や忍耐力は、苦難が解けた後でも比較的、失われることなく、その人によい影響をもたらすようになる。
 ところで、苦難のときに養われるもの、苦しみから学ぶもののなかには、「謙虚さ」がある。
 人は辛い経験をすると、たいていは謙虚になるものだ。そして謙虚さというものは、おそらく人間の美徳のなかでも、愛に続いてもっとも美しいものであろう。謙虚な心には感謝の心が育ち、感謝の心には愛が育つ。謙虚さは、あらゆる美徳の温床となり得るものであり、その点でもっとも価値ある美徳であるとさえいえる。逆にいえば、謙虚さの反対である傲慢さほど、人を醜くさせるものはないということだ。傲慢さはある種の狂気であり、それがいかに醜悪で異常なものであるかということが、はたからはよくわかるのに、本人は気づかないことが多い。
 いずれにしろ、辛い苦しみを経験したとしても、この謙虚さを学んで、身につけることができたならば、苦しんだ経験へ決して無意味とはならなくなるし、場合によっては、その苦しみを補って余りあるくらいの恩恵を与えてくれることもある。
 ところが、苦難のときにつかんだ知恵や忍耐力といったものは、苦難から脱して人生が順調にまわったときでも、それほど失われることがないのに、謙虚さというものは、あまりにもはかなく失われることが多い。苦しいときには、人の痛みや自分の至らなさが身にしみて感じて、謙虚であることの大切さを実感する。そして、苦難から解放された直後は、救われたことへの有り難さが感じられてしばらくは謙虚さが保たれる。
 けれども、しだいに人生が自分の思うように回ってくると、謙虚さは急速に失われていき、醜悪な傲慢さがやってくる。苦しみから解放できたのは、人や神様のおかげであると思っていたのに、「自分の力で乗り越えたんだ」と思うようになる。辛いときにいろいろ支えてくれた人に対する恩を忘れ、その人たちが自分に苦言を呈そうものなら、「自分に反抗する生意気な奴だ」などとさえ思うようになる。そして、傲慢でありながら「自分は謙虚なのだ」と勘違いし、世界が自分を中心に回っているように感じられ、自分は何でもできると妄想して、傍若無人に有頂天となり、とんでもない醜態をさらすようになる。しかも、そんな自分がはたから見ていかに醜いかということが、わからない。
 こうなると、今まで経験した辛い苦難のすべてが無駄に、無意味なものに帰してしまう。せっかく苦労して貴重な宝物を得たのに、それをみすみす捨てることになるのだ。謙虚さは、幸運になると、まるでお湯をかけられた雪だるまのように、みるみるうちに消滅してしまう。
 数多くの病人に治療法のアドバイスをしてきた霊能者エドガーケイシーは、次のような言葉を残している。
「病気が治ることによって傲慢になるようなら、病気なんか治らない方がいいのだ」と。
 傲慢さは、魂の病気である。魂が病むくらいなら、肉体が病んでいた方がよほど救われるということなのだろう。肉体が病んでも苦しむのはほとんど自分だけだが、魂が病んだ人間は、他者をも苦しめる。その点ではもっとも罪深いものだ。
 人生の苦しみが過ぎたのに、傲慢になってその苦しみの経験が無意味になるということは、そのぶんの時間を無駄にしたことであり、つまりは、人生を無駄にしたことと同じである。
 私は、そんなもったいないことは決してしたくない。私もそれなりに苦労を経験してきたけれど、それを無駄で無意味なものにはしたくない。苦しい日々は、辛いものではあったが醜いものではなかった、そこには美しいものさえあったと信じたい。醜悪な傲慢さは、すべてをだいなしにしてしまう。
 人生における本当の危機は、苦しんでいるときではなく、苦しみから解放されたときに訪れる。


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 7月11日  七つの子
 私は音楽を聴きながら原稿を書くことが多い。今朝もFMラジオの音楽を聴きながら原稿を書いていた。すると、なじみ深く非常に美しいメロディが流れてきた。それは弦とハープシコードで演奏されたバロック調に編曲された「七つの子」であった。歌はなかったが、私は頭の中で思わず口ずさんだ。何とすばらしい歌であるかと、今さらながら深い感銘を受けた。

 からす なぜ鳴くの からすは山に
 かわいい七つの 子があるからよ
 かわい かわいと からすは 鳴くの
 かわい かわいと 鳴くんだよ

 山の古巣に 行ってみてごらん
 まるい眼をした いい子だよ

 カラスは、どちらかといえばあまり好かれていない鳥である。実際、ゴミを散らかしたり、巣を守るために人間をつっついたりすることもある。そして、あの「カー!」という鳴き声もキレイとはいえず、何よりもあの黒い姿が不吉で不気味に見えて忌み嫌われている。ホラー映画に登場するのも、日本でも西洋でもたいていカラスだ。
 このような嫌われ者のカラスに対して、この歌はカラスに対する愛情に満ちあふれている。
 耳障りとも聞こえる「カー!」という声は、「か(ー)」わい」(可愛い)と鳴いているんだよというのだ。そして、そんな嫌われ者のカラスにも子供がいる。カラスも人間も親が子供を愛おしむ心は変わらないのだ・・・といったメッセージがここに読みとれなくもない。そして、そんなカラスの子供は、まあるい眼をした、いい子だというのである。つまり、カラスの本当の姿を見てごらん、それは可愛いよといっているのだ(実際に、カラスは愛嬌があって可愛いと私も思う)。
 この歌の作詞をした野口雨情という人を、私はあまり知らないけれど、とても優しい人なのだなと思ってしまう。
 ところで、この「七つの子」であるが、七羽の子供がいるという説と、七歳になる一羽の子供がいるという説がある。どちらなのかはわからないのだが、私はどちらかといえば、七歳の子供がいるとした方が自然であるように思う。
 というのは、鳥のヒナを数えるのに、「つ」という言葉を使うことはないだろう。卵なら七つといえるだろうが、ヒナは七つとは数えない。「つ」という言葉は、普通はモノに対する数え方である。しかし、あきらかにカラスを擬人化し愛情が込められているこの歌が、カラスをモノ扱いしていると解釈することはできない。
 もっとも、カラスは七歳(七年)もたてば大人だから子供とはいえないという意見もあるかもしれないが、すでに述べたように、これは擬人化されているのだから、そういう生物学的な見解は的はずれであろう。
 では、なぜ七歳なのだろうか?
 ひとつには、七という数字が縁起がいいといった意味があるのかもしれない。
 あるいは、子供の成長を祝う七五三と関係があるのではないだろうか?
 つまり、七歳といえば、最後の成長を祝う歳である。つまり、(途中で死ぬといったことがなく)七歳まで成長することができたんだといった、親の喜びが込められているのかもしれない。
 この、途中で子供が死ぬことがなく・・・という点でいえば、実は野口雨情は幼くして子供を失うという経験をしている。生後、わずか七日で亡くなってしまったのである。そのときの心情を歌にしたのが、「しゃぼんだま」であるといわれている。

 しゃぼん玉 飛んだ
 屋根まで飛んだ
 屋根まで飛んで
 こわれて消えた

 しゃぼん玉 消えた
 飛ばずに消えた
 生まれてすぐに
 こわれて消えた

 風 風 吹くな
 しゃぼん玉 飛ばそ

 今まで、深い意味も知らず無邪気に歌っていたこの歌が、こんな悲しい歌であること、涙なしには歌えない歌であったことを、最近になって知った。
 「七つの子」が発表されたのも、「しゃぼんだま」と同じく子供が亡くなった後である。たぶん、「七つの子」にも、成長を迎えることができず亡くなった子供への思いが込められているのかもしれない。
 しかし、「しゃぼんだま」が胸をつきさすほど痛ましい感じがするのに対して、「七つの子」には、そうした悲しみというものは感じない。
 ここには、悲しみよりもむしろ、悲しみを乗り越えてやさしさに変容させた豊かな人間性が感じられると同時に、自然や、あらゆる生き物、いのちに対する深い愛情の念が感じられる。これは日本という国が伝統的に受け継いでいる、もっともすばらしい精神的資質ではないだろうか。この歌には、ともすると忘れられかけている、そんな大切なものが見事に表現されているように思う。


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 7月22日  “行きて尊ばれることあり”
 易という占いは、竹の棒(筮竹)やサイコロなどを使い、全部で六十四の卦(パターン)の中からひとつを出して占う。大吉の卦もあれば、大凶の卦もある。大凶の卦のなかでも最悪といわれるものが「坎為水(かんいすい)」(習坎とも呼ばれる)である。この卦が出ると、占い師は眉をひそめて「最悪です。進むも凶、止まるも凶、一難去ってまた一難です」といったことを告げなければならない。六十四卦のなかでも、もっとも忌み嫌われている卦である。
 しかしながら、それは表面的な見解であって、易の経典「易経」(孔子の愛読書でもあった)を見るならば、次のように書かれているのである。
「習坎は孚(まこと)あり。維(こ)れ心亮(とお)る。行きて尚(たっと)ばるることあり」
 現代語に訳すると、「習坎というこの卦には誠意がある。その心は貫かれる。進めば尊ばれることがあるだろう」
 要するに、この卦の意味は、今はさまざまな困難があるが、誠意を貫いて困難を乗り越えるために勇気をもって進んでいくなら、やがてその困難は克服され、周囲から尊敬されるようになるだろう」といっているのである。
 したがって、表面的な占いの本では、この卦が出たら最悪の状態であり、布団をかぶってじっとしていた方がいい……といったように書かれていることが多いけれども、そうではない。苦労はあるが、誠意をもって頑張れば克服できること、進めば尊敬されるようになるのだ。
 それと、この卦はなんでも悪いというわけではなく、実は学問や研究といった分野では吉と解釈することが多い。精神的に非常に深くなり学問や自己修養などがうまく運ぶという暗示なのだ。いずれにしろ、そういう困難を受け止め、それにあえて進んで乗り越えていくという経験を経ることで、人は成長し、人間的にも磨かれ、尊敬され、幸せをつかむことができるということを暗示している卦なのである。
 易は奥が深く、人生の教科書ともいうべきものである。孔子が易に深い愛着をもっていたのもうなずける。
 しばしば親というものは、子供に苦労させないために、つい過保護になってしまう。仕事やお金で苦労した親は、子供にだけはこんな苦労はさせたくないと思い、子供が自分の職業を選択するときには、堅実な公務員だとか大企業といった会社を選ばせようとし、しばしば子供の意思を無視してまでそれを強要してしまう。子供が「自分は将来ミュージシャンになりたい、野球選手になりたい」などと言おうものなら、「そんな夢みたいなことをいうな」といって怒ったりする。
 しかし、「可愛い子には旅をさせよ」ということわざもあるように、苦労というものは人間が成長するためには必要不可欠なのだ。苦労することで自分自身の力が強化され、創意工夫の力も生まれ、忍耐力や、他者に対する思いやりも育つ。そして結局、そういう人間になった方が、人生は幸せになるように思われる。
 けれども、現代社会は、とにかくインスタントで、安易になっている。「手っ取り早くお金を儲けよう」といった風潮がはびこり、結局、お金を右から左へ動かして短期間で大金を儲けた人が「時代の寵児」などといって英雄視されたりする(もっとも最近では少し風向きが変わってきた様子があるけれども)。
 創意工夫と改善によって効率的にやっていけば、しだいに仕事の労力は減らしながらお金を稼ぐことはできるようになる。しかし、創意工夫と改善は安易に短期間でできるものではない。それには非常な忍耐力と努力が必要である。なによりも継続されなければならない。そうしたことをしなくても、ちょっとしたことで運良く成功し大金を得ることがあるかもしれないが、決して長続きしないだろう。
 そして、そうした忍耐力や創意工夫の力といったものは、たいていの場合、失敗や困難の道を勇気をだして進んでいた人こそが身につけられるものなのだ。
 しかも、成功に必要なのは、とりわけ長期的に成功を維持するために必要なのは、人や社会からの信用である。信用がなければ長期に繁栄させることはできない。信用は短期間で得ることはできない。小さなこともいい加減にしない誠意が積み重なって得られるものだ。これは仕事にかぎらず、人間関係でも同じことだ。要するに、尊敬されるような人間にならなければならないのだ。

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