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 2007年10月の独想録


 10月9日  患者に尽くす医師の話
 私は、あまりテレビを見る習慣はないが、ときどきふっとスイッチをつけることがある。
 すると、まさにそのとき放映している番組が、今の私にとって必要な情報や教訓そのものであるといったことがよくある。これは、シンクロニシティのようなものではないかと思う。
 さて、そんな感じでたまたまテレビをつけると、眼に飛び込んでくるのが、献身的に尽くす医師のドキュメンタリーなのだ。先日も、高度な技術と知識をもって、自分の時間などまったくないほど患者のために尽くす外科医のことが紹介されていた。この医師は高い名声をもち、報酬も桁はずれに高いものに違いないが、おそらくお金を使う暇そのものがないはずだ。名声などというものも、ここまで来るとあまり魅力を感じなくなってもいるだろう。
 たいていの人は、名声やお金のために仕事を頑張り、お金を十分に手に入れると、早々とリタイアして、なかにはハワイあたりで朝から晩までゴルフをして過ごすといったことをする人がいる。名声やお金を十分に手に入れると、普通の人は仕事などしたくなくなるのに、この医師は、どうして自分の人生のほとんどを患者の治療に捧げることができるのだろうかと不思議に思った。この医師はいっていた。「患者さんがよくなって、その笑顔を見ることでエネルギーをもらっている」と。
 確かに、この気持ちはわかる。人の幸せに貢献して感謝されたときは嬉しいし、元気になるものだ。とはいえ、患者さんから感謝されていれば、誰でもあの医師のようにひたすら長い年月にわたって過酷な激務をこなすことができるわけでもないだろう。患者さんからの感謝で元気をもらえるとはいえ、あの医師の活動は、あまりにも激務である。生まれながらに強靱な肉体と精神をもっているのかもしれないが、それでも、あれほどの緊張と集中力を要求される高度な手術を、毎日のようにこなすなどというのは、超人的であると思う。いったい何が、あの医師をして、そこまでさせているのか、また、何がそうすることを可能にしているのか、私はその謎を知りたいと思った。
 そして昨日の夜も、たまたまスイッチを入れたとき、やはり同じように、極めつけともいうべき医師のことが紹介されていた。
 自分の財産をなげうってアフリカにわたり、現地の人々の医療活動をしている、66歳の医師である。数名の現地の人をアシスタントにしながら、実質的にはたったひとりで、朝から晩まで患者を診察したり手術をしたりしているのである。最初は夫人と一緒だったのだが、この地で病気で亡くなってしまった。この医師は、一日に二度、お墓の前で夫人に語りかける。これが医師の唯一の慰めとなっているようだった。
 多忙なので、昼食もきな粉などを水に溶いたものをそのまま流し込むだけ。何もないアフリカの僻地だから、娯楽や慰安といったものもない。来る日も来る日も、患者を救うだけの毎日。自分の時間などはない。まさに、シュバイツァーやマザーテレサに匹敵する活動だ。マザーテレサも最初はひとりで救済活動をしたが、まもなくたくさんの仲間に恵まれて一緒に活動することができた。しかしこの医師は、たったひとりで戦っている。それも、本来なら隠居でもしてのんびりと過ごしている年齢であるにもかかわらず。せめて夫人が健在であれば孤独も癒されるであろうが、夫人はこの地に来て原因不明の高熱で死んでしまった。なぜ神は、そんなひどいことを許すのかと思う。しかし、この医師は、そのような悲劇にも負けずに、夫人なき後も、こうした激務をこなし続けているのだ。たったひとり、何もない辺境の地で!
 いったい、何を支えに、何をエネルギー源に、このような人間離れした活動ができるのだろうか? この医師には、最初に紹介した医師のような名声もなければ、おそらくお金もないだろう。それどころか、自分の財産をなげうっているのだ。患者からの感謝は支えとエネルギーにはなるだろうが、やはり、それだけなのかと不思議に思う。
 この医師は、力むこともなく、淡々とした感じで医療活動を行っていた。最初に紹介した医師はカリスマ的な存在感があったが、こちらの医師は、一見すると近所によくいるような、ひとのいいおじいさんといった雰囲気であった。この医師のドキュメンタリー番組は、本当に強い感銘、強いショックを受けた。
 いずれの医師も、世の中にこういう人が存在しているということだけで、神に感謝したくなる。私はこういう人に強い憧れを抱くけれども、その足下にも及ばないというのが恥ずかしい。ああ、私はまだまだ甘い。甘すぎる。努力が足らない。少しは努力をしていると自負していたが、こっけいだった。私の努力など、努力のうちに入らないということが、よくわかった。

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