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 2007年2月の独想録


 2月6日  冬は冬らしく
 私は、春が大好きだ。春になって、幸せを感じるような風の匂いをかぎながら、近くの野原を酔っぱらいのように散歩し、日に日に大地や木々が緑に染まっているのを見るのが、たまらなく好きだ。
 けれど、一年中、春ばかりの気候を望んではない。「常夏の島ハワイ」などと呼ばれているが、確かに夏も好きだけれど、いつもいつも夏ばかりのところに住みたいと思わない。
 今年は、暖冬である。今日も、2月だというのに、4月中旬の気温だった。春みたいだ。けれど、私は冬なのに春のような気温になるのは望まない。この暖かさは気持ちが悪い。外で働いておられる方は助かっていることだろう。それはそれでいいことではあるけれど、あくまでも私の勝手な感想をいえば、冬は寒い方がいい。私の住んでいる場所は、昨年も雪が降らなかったが、たぶん、今年も雪は降らないかもしれない(これが、地球温暖化がもたらす異常気象ではないことを祈りたい)。
 冬は、やはり冬らしい方がいい。ある程度は寒くて、雪も二、三度は降って欲しい。手が凍えて身が縮む思いをして、「ああ、春が早く来ないかなあ」と強く願わないでいられないほど冷たい思いをし、その果てにやってきた春は、格別だ。その春の暖かさに、思わず感謝しないではいられない。冬の辛さをしみじみ感じて、ときにはイヤというほど辛い思いをしてから訪れる春は、何とすばらしいことだろう。その春の幸せな気持ちを思えば、冬の間に経験した冷たく辛い思いなど、補ってあまりあるくらいだ。冬の冷たさを知る者のみが、春の訪れの喜びを知る。
 逆にいえば、冬の冷たさを知らなければ、春の喜びを味わうことができない。辛いときは、その辛さを受け入れてじっと耐えるということも、必ずしも消極的とはいえない。そのおかげで、やがて辛いことが去っていった後には、これまでは小さな喜びにすぎなかったことが、百倍もの喜びに輝いて胸に迫ってくるであろうから。


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 2月15日  海の夢
 今日、海の夢を見た。
 海岸に面した高層マンションらしき部屋に私がいて、窓をあけて下を見ると、非常に美しいエメラルド・グリーン色の海が波打っていた。そのあまりの美しさにハッとしたところで目が覚めた。
 そんな夢を見た後で、私はどうも、自分が場違いな所(地上)にいるのではないかと感じた。場違いな所にいて、とんちんかんなものを求めて必死になっているのではないのかと。
 私が、私の魂が、本当に求めているのは、夢で見たあの美しい海ではないのか?
 あの美しい海、心が洗われるような、深く満たされ、深く癒される、平和と安らぎに満ちた海、そんな海がある世界……。
 あの夢で見た海は、地球のどこにも存在しないことはわかっている。外見だけの美しさであれば、どこかにあるだろう。けれど、夢というものは、自分の心を見ているのだ。あれほどの美しさと平和を感じさせる海は、地上のどこにも存在しない。
 しかし、もしいつの日か、私が非常なる美しさと平和とが具わった心をもって地上の海を見たならば、夢で見たのと同じ海をそこに見出すのかもしれない。

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 2月28日  矛盾する2つの人生の臨み方
 人生を生きるとは、矛盾する物事をいかにバランスよくまとめて生きていくか、ということではないかと思う。人生は本質的に矛盾であり、二元的なのだろう。だから、「自分は右だ、自分は左だ」といった固定化した考えでは、おそらくいずれ行き詰まるに違いない。「自分は右でもあり左でもある」という姿勢が、本来のあり方であるに違いない。
 けれども、この発想がエゴを動機とすると、いわゆる「二枚舌」だとか不誠実だとか、八方美人といったことになってしまう。この点はよく気をつけなければならない。
 さて、そういう前書きをしておいてから、今回は、こうすれば人生で失敗しないだろうと思われる、2つの対処法について述べてみたい。しかし、この2つの対処法は、互いに矛盾している。これを矛盾ではなく、うまくひとつにまとめて生きるということが、たぶん、人生のポイントのような気がする。
 ひとつは、人生で失敗しないためには、いわゆる「転ばぬ先の杖」、「備えあれば憂いなし」の作戦でいくことだ。つまり、何か事を起こす前に、あらかじめ失敗した場合のことを想定しておいて、その対処法をきちんと用意することである。そうして事を起こせば、万が一、失敗した場合でも大丈夫だし、また、失敗しても大丈夫なんだという安心感と心のゆとりがあるから、そのために結果的に物事はうまく運ぶことも多くなるだろう。現代の戦争は、おそらくこの方式である。ひとつの作戦がうまくいかなかった場合、第二、第三の作戦が用意されている。そうしてとにかく勝利に持ち込むのである。
 たとえば、自分はミュージシャンになりたい。しかし、ミュージシャンの道は険しい。もしそれで成功できなかったら、経済的に困って路頭に迷うことになるかもしれない。そうならないために、もしミュージシャンになれなかった場合に、たとえば堅実な職につけるように何らかの資格を取得しておくのだ。貯蓄も心がけることだ。そうすれば何かあっても、失業したとしても、とうぶんの間は生活に困らないですむ。そうして困難に対処することもできる。
 そして、もうひとつの失敗しない方法がある。
 それは、失敗したときのことをまったく考えない、という方法だ。成功することしか考えず、すべてのエネルギーを傾けるのだ。「万が一、失敗したらどうしよう」なんて考えないのだ。
 ジュリアス・シーザーは、敵地に上陸したとき、乗ってきた船を焼き払ってしまったという。「さあ、もう勝つより他に、生きてここから帰る道はないのだ」と同行した兵士に言った。
 そうして兵士たちは、まさに背水の陣をしいて必死に闘った。そうして、勝利をおさめた。「失敗したら死あるのみ」というほど真剣になると、人は信じられないほどの底力が湧いてくるものだ。「万が一、失敗しても他の道があるから大丈夫だ」なんていう気持ちがどこかにあると、どうしても全力を尽くすことができない。全力を尽くしてこそ、偉大な成功を手にすることができるのではないか?
 病気なども、中途半端な病気はなかなか治らないが、生死にかかわる重い病気の方が早く治ったりする。長い間慢性病になっている場合、けっこう本人が心の底から本気で治りたいと思っていない場合もあり、そのために治らないということもある。お金持ちになりたいという人の大半は、それほど貧乏ではない。そこそこ生活がしていけるくらいの貧乏なのだろう。しかし、明日の食べる物もない、住む場所もない、というほどの深刻な貧乏だと、結果的には早くお金持ちになれたりする。
 ミュージシャンになりたければ、もしなれなかった場合に資格を取っておくとか、そういう気持ちがある限りは難しい。そんなエネルギーも何もかもミュージシャンになることに集中し、「自分はミュージシャンになる以外、人生の選択肢はないのだ」と決意して、全身全霊で取り組むことだ。そうすればなれる。
 貯蓄などもするべきではない。そんなものに頼っていると逆に失敗する。どんどんお金を使うことだ。もちろん、つまらない遊びのために使ってはいけない。自己投資のために使うのだ。自分の願望を叶えるのに必要と思われるスキル、教養、知識を高めるために使うのだ。たとえば海外で活躍したいなら英会話を習ったりする。ビジネスで独立したいならセミナーや本にお金をどんどん使う。
 目的さえ誤っていなければ、自己投資は決して損にはならない。「魚を失っても損害ではない。魚の釣り方さえマスターしていれば」。自己投資以上に、失敗のリスクを回避するための有効なお金の使い方はない。たとえ失敗しても、自分が資本となるから、何度でもやり直せる。しかしお金は、一度失ったらもうそれで消えてしまう。自己投資されたものは決して消えたりはしない。失敗したときのことなどまるで考えない大胆不敵な生き方の方が、実は失敗する可能性はずっと低い。
 さて、以上の2つの「失敗しない方法」を紹介した。私はどちらも真実であると思う。問題は、それをどのようにうまく使い分けるか、ではないだろうか。

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