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 2007年9月の独想録


 9月6日  いつの時代の自分が自分を表しているのか?
 うちで飼っている二匹の猫(どれも捨て猫だ)のうち一匹は、人間でいえばもうかなり高齢ではないかと思う。それでも、やや足取りが鈍くなったくらいで、外見的にはあまり若い頃と変わらない。猫は全身毛におおわれており、皮膚が露出していないから、皮膚の皺だとか、たるみといったものが目立たないので、人間ほど歳を取ったようなルックスにならないのだろう。猫に限らず、他の動物を見ても、人間ほど若者と老人との差が大きくはないように思う。
 その点、人間は、個人差は多少あるものの、二十歳の外見と、七十歳の外見とは、何と違うことだろう。いや、二十歳と四十歳でも大きく違うこともある。しばしば、同じ人とは思えないように容貌が変わってしまうことがある。まるで、若者という人種と、老人という人種が、もともと存在していたかのように。
 時間というものは、連続して量的に積み重なっているものだが、ある程度の時間がたつと、それは質的な違いとなる。昨日の自分と今日の自分は変わらないし、一年前の自分と今の自分もそれほど変わらないが、10年前の自分、20年前の自分となると、まるで別人のようになってしまうのだ。
 人がこのように変わるという事実は、たとえば久しぶりに級友と再会したようなときに、驚きをもって実感することが多い。高校時代はカッコいい青年だったのに、あるいは可憐な美しい少女だったのに、30年もたって見たときは、髪の薄くなった小太りのおじさん、皺や白髪の目立つおばさんになっていたりする。そして、あともう30年もすれば、(もし生きていたら)髪も歯もすっかり抜け落ちた、まるでミイラのような姿となって、コミュニケーションもうまくいかず、ぼんやりした存在になってしまうかもしれない。
 もちろん、容姿だけでなく、性格や人格も変わる。ただし、これは個人差が大きい。青年時代とほとんど性格が変わらない人もいれば、かなり変わってしまう人もいる。しかしいずれにしろ、まったく同じというわけではないから、性格も変わっていく。
 こうなると、いったい、その人がその人であったときというのは、いったいいつの時代をいうのだろうか? 子供時代の私が、本当に私であったといえるときなのか? それとも青年時代か? 壮年時代か? 老年時代か?
 歳を取り、過去の自分のアルバムを見たときに、いったいどの時代の写真が「自分」なのだろうかと思う。
 少なくても、高齢となり、認知症になって、ふにゃふにゃと何を言っているのかわからない状態が、もっともその人らしいときであったとはいえないだろう。あるいは、生後わずかな赤ん坊の状態も、その人らしいときだったともいえないだろう。
 私が中学生のときに、とても好きだった女の子(片思いだったけれど)は、今も私の頭の中では時間がとまったまま、あの少女のままである。私にとって、その恋した彼女は、中学生の彼女なのだ。もし仮にいま、その彼女と再会したとしても、私は恋をすることはないだろう。同じ人でありながら、私にとっては、もはや彼女は同じ人ではない。まったくの別人だといってもいい。
 いつの時代が「私」なのだろう?
 もし、葬式の写真だとか、あるいは人名辞典などに、もっともその人らしさをとらえた写真が載るとしたら、いったいいつの時代の写真になるのだろう?
 もし、その人が単に「きれい」なだけの存在であったら、その人がその人である時代というのは、青年期であろう。容姿が衰えてしまう壮年以後のその人のルックスは、もはやその人を表しているとはいえない。その人の人名辞典には、若い頃の写真が掲載されるだろう。
 だがもし、その人が、長い間に積み重ねた知識と知恵と経験をもち、それが開花されたのが老年時代であったなら、その人をもっともよく表しているのは、老年時代のルックスということになるだろう。その人の人名辞典には、老年の顔写真が掲載されるだろう。 9月25日  感動は魂の振動である
 人を感動させる仕事といえば、小説家や芸術家、俳優やスポーツ選手といった、どちらかといえば特殊な職業に従事している人のことが思い浮かぶ。しかし、もちろん、こういう職業の人だけが人を感動させるわけではない。
 たとえば、レストランに入ったとき、その食事が非常においしかったら、単なる満足だけではなくて感動するのではないだろうか。「これほどおいしい料理を作れるなんて!」と感激し、このような料理を作った料理人の技、おそらくは長い間修行を重ね、工夫を重ね、努力を重ねた末につかんだ、そうした料理の技に敬意を表し、感謝したくなるであろう。
 料理だけではなく、ウエイターやウエイトレスの対応が見事であっても、やはり感動する。その感じのよさ、客が何もいわなくても客の要求を把握してサービスしてくれたり、真心を感じさせる親切な対応、こうしたこともまた、誰もができるわけではなく、努力と鍛錬のたまものなのだ。
 医師や看護師などもまた、命を救う仕事ということで、また、その高度な知識と技術と献身的な行為で、しばしば人を感動させる職業である。しかし、特に命とは関係なく、高度な知識も技術も資格も必要ない、いわゆる平凡な職業であっても、それを立派に、一所懸命に、誠実に、見事にこなすとき、それは人を感動させる。
 どんな職業であれ、それを見事にやる人は、周囲を感動させているのだ。
 逆にいえば、いい加減に、手を抜いて仕事をする人は、お世辞にも尊敬できない。
 もちろん、人間だからときには手を抜きたくなるときもあるし、体調が悪いときもある。そういうのはかまわない。スーパーマンではないのだから、いつも見事にできるはずがない。調子が悪いときは、多少、手を抜いても許されると思う。
 そうではなく、調子が悪いわけではないのに、手を抜いていい加減に仕事をすることが常習的になっている人がいる。たとえば、毎日のように繁華街で酒を飲みにいく医者がいる。医学は日夜進歩しており、常に勉強しなければ最新の治療法に追いついていくことはできないはずだ。勉強することは山ほどあるのだ。それなのに、毎日のように酒を飲みにいくというのは、医師としてどうなのかと思ってしまう。もちろん、医師という仕事は大変でストレスもたまるだろうから、息抜きの意味でときには酒を飲みにいくのはかまわないし、ある意味で必要なことだといえる。だが、一週間に何日も酒場に通うというのは理解できない。プロフェッショナルな意識がないといわざるを得ない。
 そんな連中ではなく、地味かもしれないが、コツコツと見事な仕事をする、真のプロ意識をもった人たちは、何と人を感動させることだろう。誠実に、真心を込めて、どんな小さなこともいい加減にせず、常に研究し、努力し、技を磨いていくその姿勢は、何と美しいことだろう。
 人を感動させるというのは、人の魂を揺さぶっているのである。感動とは、魂の振動なのだ。
 魂が振動するというのは、宗教でいえば、ちょっとした悟りである。人は感動しながら、同時に悪事をたくらんだり、醜い欲望に溺れたりすることはない。感動した人は、自分も立派になりたいという願いをわき上がらせる。見習おうという気持ち、向上しようという気持ちを起こさせる。
 つまり、人を感動させる人というのは、人を立派にする影響力を放っているということなのだ。
 おいしい見事なラーメンを作る職人は、本人は気づかないかもしれないが、ラーメンを通して、人を宗教的に導いているのである。悟りに導いているのである。

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