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 2007年5月の独想録


 5月30日  「うさぎと亀」のお話について
 誰も知らない人はいない有名な「うさぎと亀」の話について、雑談的に書いてみたいと思う。
 うさぎを相手に、かけっこの競争に挑んだ亀は、途中、うさぎが油断して居眠りをしている間に遅いながらも歩み続けた亀が最後には勝ったというこの物語は、いわば「たとえ歩みは遅くても油断せずにコツコツ努力していけば、歩みは早くても油断をする者に勝つことができる」という教訓的な意味を含んでいる。
 この話を、ある人が外国人に聞かせたところ、その外国人はこう言ったという。
「なぜ亀は、寝ていたうさぎを起こさなかったのだ?」
 寝ている間に先を越していった亀は、フェアではないというのだ。競争なら、正々堂々と相手を起こして戦うべきであると。
 確かに、そのような考え方もあると思う。
 うさぎに対して、無謀ともいえる競争に挑んだ亀は、どのような亀であったのか?
 まず、どう考えても、亀がうさぎに勝てるわけがないことは誰だってわかる。それなのに、なぜ亀はうさぎにかけっこの競争を挑んだのだろうか?
 まず、考えられることは、この亀は馬鹿だったということだ。まともに競って勝てるはずがないのに、それさえもわからないほど馬鹿だったということだ。結果として亀が勝ったのは、単なる偶然にすぎない。
 しかし、別の可能性としては、まったく逆に、亀は非常に頭がよかったということである。
 つまり、亀は、うさぎが途中で居眠りをするということを予想して、すべて計算ずみで、勝算を見込んでうさぎに戦いを挑んだのかもしれない。
 その場合、馬鹿だったのはうさぎの方になる。つまり、亀に勝ち目はないのは当たり前すぎるほど当たり前であり、当然、亀もそのことは十分に承知しているはずだと、うさぎは考えるべきだったのだ。だから、かけっこの挑戦を亀が受けた時点で「これはおかしいぞ!」と考えるべきであった。
 それなのにうさぎは、何もおかしいとは思わなかった。たぶん亀のことを馬鹿だと思ったのかもしれないが、このように相手をみくびった甘い考え方が、結果として途中で居眠りをしても大丈夫だろうなどという甘い考えを招き、負けてしまったのだといえる。
 亀は、そうなることを本当に読んでいたのだとしたら、ものすごく頭の切れる亀だったことになる。
 そんな計算をして勝負に挑んだのだとすれば、うさぎが途中で居眠りをしていたからといって、起こすようなことはもちろんしない。それをフェアではないということもできるかもしれないが、勝負というものは、何も「かけっこ」だけに限定されて判断されるべきものではない。相手が途中で居眠りをするだろうと推理するような、いってみれば知性の力をも含めた勝負というものだってあるし、それが人生における勝負の本質であるともいえる。だからこそ、何らかの不利な状況でも、それを別のもので補って勝負に勝つことだってできるということだ。
 人生というものは、限定されたルールのもとで行うゲームとは違う。正攻法のやり方だけがすべてではない。ルールを守ることを前提に行うゲームの場合、勝負に勝つのは論理的推理力の強い者だ。カンや運といったものもあるが、原則的には論理的な思考力の勝負である。しかし人生には、ゲームほどの厳格なルールはない。もちろん論理的な思考力が強い者は有利ではあるだろうが、それがすべてではない。トンチの効いた柔軟な思考力が大きくものをいうときがある。AがダメならAに変わる手段を臨機応変に、柔軟に探し出せる力が、結局は人生の勝負に勝つことができるのではないだろうか。

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