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 2007年11月の独想録


 11月5日  死んだ猫を思う
 先日、13年飼っていた三毛猫が死んだ。
 もともと野良猫で、あるとき庭に姿を見せた。近所の猫だろうと思って牛乳をあげたのがまずかった。その日から、この猫は私の家の庭から外に出ていかなくなった。どうせエサをやらなければ、お腹がすいてよそのところへ行くだろうと思い、エサをやらずにいた。しかし、この猫は三日三晩、何も食べずに我が家の庭に居続けた。さすがに、その根性に負けて、飼うことにした。
 メスだったので、子供が生まれないように、避妊手術のために獣医に連れていった。お腹の毛を剃ってみると、すでに手術した後があった。
 どこかで飼われていたのを、捨てられたのだろうが、この猫は最初、首が曲がっていた。もしかしたら、虐待を受けていたのかもしれない。それで逃げてきたという可能性もある。いずれにしろ、このときは大人になっていたので、おそらく死んだときは15歳以上の年齢だったはずだ。人間でいうと80歳くらいになるかもしれない。
 実際、ずいぶん弱々しい様子にはなっていたが、一週間前は何でもなかったのだ。ところが、三日前からエサを食べなくなり、水しか飲まなくなって、最後の日は水さえも飲まず(飲めず)、ぐったりと眠ったまま、家族全員が見守るなかで、静かに息を引き取った。
 この猫は、おとなしいというか、奥ゆかしい猫であった。私が深夜に帰宅するときには、ほとんど必ず玄関の前に“三つ指をついて”待っていた。甘えん坊で、私の膝に乗ってきたり、体を密着させて眠ったり、晩年は食卓を前に私の横にちょこんと座り、おこぼれをもらうのを期待していた。丸い目をした、可愛い猫だった。
 もちろん、困ったこともいろいろあった。ふすまをボロボロにされたり、布団におしっこをかけて2枚もダメにしたことがあった。こんなときは腹が立って「早く死んでいなくなってくれればいい!」などと思ったりもしたが、もちろん、本気でそう思ったわけではない。
 そして、今、本当に死んでいなくなってしまった。
 家の中にいるときでも、庭に出ているときでも、いつも近くにこの猫がいた。空気のように、それが当たり前のようになっていた。
 しかし、いつもいるはずの存在がいなくなると、寂しいものだ。
 あまりにも身近だったので、そう頻繁に頭をなでてやるようなこともせず、どちらかといえば、私は放任しているような態度であった。
 もし、この猫が生きているときに、私が「私にはこの猫がいるんだ」と思っていたなら、もっと頻繁に頭をなで、猫の顔をもっとよく見つめていたことだろう。もっと大切にしていただろう。
 しかし、こんな思いは、もはや決してやり直すことのできない後悔なのだ。
 もっていないものばかりに目を向けるのではなく、せめてこれからは、もっているものに目を向けようと思った。「私にはこれがない」ではなく、「私にはこれがある」のだと。


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 11月28日  大食い競争
 ときどき、テレビで「大食い競争」のような番組をみかける。どのくらいたくさん食べられるかといったことを競っている。私がもっとも嫌いな番組のひとつだ。エロティックな番組や暴力シーンのある番組と同じくらい、あるいはそれ以上に醜悪なものだと思っている。
 だが、こうした番組がしばしば行われるということは、こういう番組を喜んで見ている人が少なくない、ということなのだろう。
 世の中には、食べるものがなくて飢えている人がたくさんいる。飢えと病気で、一日に2万人以上もの子供たちが死んでいる。そういう人たちがこの番組を見たら、どう思うのだろう?
 むかし、某テレビ局が毎年行っているチャリティ番組を見ていた。世界中の恵まれない人たちのために募金を集める番組だ。その番組の中で、大食い競争をやっていた。タレントがグルメを腹一杯詰め込み、「くるしい! もうこれ以上、おなかに入らない!」などと言っているのである。そして、その次には「飢えている子供たちを救うために寄付をお願いします」などと言っている。いったいどういう神経をしているのか? それ以来、私はこの番組を見ようとは思わなくなった。
 私は何も、「食べるために生きるのではない、生きるために食べるのだ」とまでいうつもりはない。食はひとつの文化でもあるし、楽しむために美食をすることは悪いことではないと思っている。
 しかし、大食い競争は違う。必要以上に苦しむほど食べて何が面白いのだ? そんな有様を見て何が面白いのだ? ああいう行為をすることは、飢えて死んでいる人に対する人道的な罪である。
 それに、あんなに無理して体に食べ物を詰め込んで、体にいいはずがない。体は、そんなことのためにあるのではない。
 たいてい、若いときにそのような無理をすると、そのときはなんでもないかもしれないが、中年以降になって、そのダメージが現れることが多い。だから、大食いなんていう習慣は、間違ってもしてはいけない。必ず後悔するときがくる。
 ところで、日本はさまざまな問題を抱えているが、そのうちのひとつが、食料受給率である。米の食料受給率は30パーセント台であり、小麦や大豆などは10パーセント台だ。あとはすべて輸入なのだ。しかし、もしも世界的な食糧危機が訪れたら、どうなるのか? 日本は確実に飢えることになるだろう。自分の国民を飢えさせてまで他の国に食料を輸出する国など存在しない。
 しかも、世界的な食糧難は、地球温暖化などの影響もあり、それほど非現実的な話でもない。程度はともかく、いつか必ずやってくる問題と思っていた方がいい。
 そんなときが来て、食べ物の有り難さが身にしみてわかったとき、大食い競争のような番組を喜んで見る人もいなくなり、ああしたケダモノのような番組も放映されることはなくなるだろう。
 栄華を極めたローマ帝国の末期には、人々は美食を腹一杯食べた。食べきれなくなると、吐くための薬を飲んで食べたものを吐き出し、そうしてまた食べるといったことをした。快楽をむさぼるために体を酷使した。だが、このように退廃した国民が長くその繁栄を維持することはできない。ご存じのように、ローマ帝国はまもなく没落してしまった。
 日本には、「もったいない」という精神がある。特に、食べ物に対して「もったいない」という気持ちが強い。私など、お茶碗に米粒が残っていたりすると、母から「お米を粗末にすると目がつぶれるわよ」などといわれたものだ。いまどき、そんな教育をしている若い母親などいないだろう。毎日毎日、残飯が大量に捨てられている時代である。
 しかし、わずかな食べ残しでさえ、「もったいない」という気持ちを子供に示せる母親がいたならば、その母親は子供に対して、すばらしい教育を、その子が幸せになるような、すばらしい教訓を授けていることになる。なぜなら、「もったいない」という心は、要するに、そのものの価値を認め、そのものに対する感謝の気持ちの表れだからだ。
 食べ物に対して「もったいない」という気持ちをもつなら、それはどんなことに対しても、同じ心をもつようになるだろう。友達に対しても、恋人や配偶者にたいしても。「もったいない」の心で相手を大切にする人が、他者から大切にされないはずがない。
 食べ物を粗末にしてはいけない。食べ物を粗末にする人は、たいてい人も粗末にするし、結局は自分の人生を粗末にすることになる。

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