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 2007年8月の独想録


 8月4日  「悟りを与える」という奇跡?
 ある人から、「悟りを与えるという奇跡」と題する、ある本の一部分のコピーが送られてきた。
 ここに書かれてある文章によると、バガヴァンというインドのグルのもとに行けば、悟りを与えてくれるのだという。修行をしても悟りは得られないのであると。彼はこういっているらしい。
「これをしなさい、あれをしなさいと人々に説き、哀れな生徒はそうなろうと一生懸命努力します。悟りを得た人を手本にします。教えを実践したからこそ悟りに到達したのだと人々は考えます。一生懸命に試みますが、結局失敗し没落します」
 また、彼から作り方を教わった「奇跡の水」なるものを作って配ったら、驚きの体験談が寄せられたということも書かれてあった。
 それで、以上に対して、私はどう考えるかと尋ねてこられたので、次のような返事を書いた。
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 同封いただいた資料ですが、断片的な部分しかありませんでしたので、即断は避けねばなりませんが、私はこの資料に書かれてあることを、肯定的に受け入れることができませんでした。正直な感想を申し上げますと、これは悪徳商法の手口と同じであると思いました。つまり、人間は楽をして利益を得たいという欲望があります(言葉は適切ではないかもしれませんが、要するに乞食根性です)。いわゆる悪徳商法は、人間のそんな欲望を巧みに利用します。もっともらしい、立派な言葉でコーティングしながら、金を巻き上げるわけです。
 このバガヴァンという人が実際に金儲けをしているかどうはわかりませんが、楽をしてお金を儲けたいという人がいる反面、楽をして悟りを開きたいという人も世の中にはたくさんいて、そういう人のウケを狙って書かれた本、自称グル、指導者といった人たちがたくさん出てきました。「奇跡の水」なるものは、オウム真理教の「オウム水」と基本的には同じ発想です。この本は、そういう乞食根性をたくみに煽っています。
 しかし、どんなにスピリチュアルといっても、「お金」が「悟り」に変わっただけのことで、まったく低俗であり、幼稚であることに変わりはありません。
 もし、このバガヴァンという人のいうことが本当なら、この世の中で宗教的な修行をしている人たちをすべて否定することになります。みんな無駄なこと、彼の言葉を借りれば「哀れな人」ということになります。そんな修行なんかせずに、みんな彼のもとへ行って悟りを与えてもらえばいいということになります。「あくせく働いているサラリーマンは哀れだ。この儲け話を信じて私のもとにくればいいのに」という悪徳商法の話し手と同じように、私には聞こえてしまうのです。果たして、常識的に考えて、そんなことがあり得るのでしょうか? ならば、釈迦やイエスなど必要なかったことになります。信仰し修行をしている世界中の数多くの人が無駄なことをしている哀れな人になります。
 仮に、それで意識に何らかの変化があったとしても、地上で人に奉仕をして生きる道具となるのは、自我、物質的人格です。いくら意識が変わったとしても、その人格が急に変わることはありません。左利きの人が右利きになるわけではないように、習慣化された自我の行動はなかなか変わりません。だらしなくいい加減な人が、一夜にして清廉潔白な人になるとは思えません。自我は根気強い自己修練を重ねて立派になっていくのです。
 おそらく悟りを与えるといっても、自己満足的な快感が得られるくらいで、それなら麻薬をうった方がもっと早いということになります。いわゆるこの種の精神世界にかぶれた人のなかには、自己満足的な人がたくさんいます。
 どんなに優秀な料理人でも、道具が貧弱だったらいい料理はできません。優秀な料理人は常に包丁を磨いてピカピカにすることを忘れないはずです。修行とは、意識を変革するというよりも、高い意識を忠実に行動として反映できるために、自我という道具を鍛えるという意味があるのだと思います。料理人の価値は、自己満足的な意識にあるのではなく、いかにおいしい料理を客に出せるかで決まります。同じように、人間の価値は、自分だけが満足をしているかどうかではなく、いかに他者や世界に奉仕できるかで決まります。それには、地上の道具である自我を鍛えていかなければなりません。それが修行です。修行には、そのような価値があると私は思うのです。
 お金が欲しいといって簡単にお金儲けをさせると説く人のもとへ走るのと、悟りが欲しいといって簡単に悟りを開かせてあげると説く人のもとへ走るのは、結局は同じレベルであり、スピリチュアルであるとは思えません。
 それよりも、修行そのものがすでに悟りの表現であるとし(つまり、悟りを得るために修行をするのだという打算的な考えを捨て)、ただ何も求めることなく、淡々と修行に励む人、こういう人こそが、本当に悟りを開いた人の姿ではないでしょうか。たとえ悟りを開いていないとしても、人間としてはるかに価値があると思うのです。
 悟っていない人にとって、求めているものは、結局はある種の快楽に過ぎません。なので、悟っていない人が「悟りを与えられた!」と満足したとしたら、つまり、自分が求めていたものが手に入ったと喜んだとしたら、それは快楽を得たのであって、悟りを得たのではありません。悟りは、おそらく快楽ではないでしょう。だから、もし本当に悟りを与えられたら、自分は悟りを与えられたとは感じないのではないかと思います。
 悟りとは、おそらく愛です。愛は与えることはできません。しかし、その人の内部に眠っていた愛を目覚めさせることならできます。もしバガヴァンという人に愛があり、彼のもとへ来た人を真に愛したなら、ある意味で彼は「悟りを与えた」と表現できるかもしれません。しかし、愛があれば、一生懸命にひたむきに修行をしている人の生き方を否定するようなことは、おそらく口にしないはずです。なぜなら、何であれ愛を持って打ち込んだときには、そこに悟りが開かれるはずだからです。悟りを与えてもらうために、わざわざインドまで行く必要はありません。もし彼が本当に悟りを開いていて、悟りを与えることができるのであれば、そのくらいのことはわかっていると思うのですが。
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 つい最近も、エビの養殖で大もうけできるといって大勢の人をだました「伝説の詐欺師」なる人物がニュースで報道されていた。世の中に、うまい話などないのです。仮にあるとしたら、それは良心の痛むようなことか、あるいはほんの少数の人しか知らないことです。公に公表され、しかも楽をして金が儲かるなどといっているのは、百パーセントといっていいほど嘘であると私は思います。同じことは、精神世界にもいえるのです。修行も苦労もせずに悟りを開けるとか、そんなうまい話など存在しないことくらい、いい年をした人であれば気づくべきです。
 しかし、悪徳商法の場合はだまされたことが客観的な事実として気づきますが、精神世界の場合は、それがあいまいでよくわかりません。悟りなど開いていないのに、指導者から「おまえは悟りを開いたぞ」といわれれば、そう思いこんでしまうでしょう。だまされているということが気づきにくいだけ、悪徳商法よりやっかいであるといえるでしょう。
 世の中にうまい話があるとか、ないというレベルでは、たぶん、凄腕の詐欺師に会ったらだまされてしまうと思います。ですから、たとえ本当にうまい話があったとしても、そんな道を歩むことは自分の生き様ではないという、凛とした信念を貫く覚悟を持つことが大切だと思います。
 もちろん、やたらに苦労すればいいというわけではありません。しかし、そこに品位が欠けているとしたら、その道を歩むべきではないと思います。たとえば、仮にイエスや仏陀が、「私が悟りを開いたのは、すぐに悟りを開かせてくれるという人物のセミナーに行ったからだ。おかげで何の苦労もせず本当に楽だったよ」などと言ったとしたら、人類は彼らを尊敬し、その教えに耳を傾けようと思ったでしょうか。それ以前に、イエスや仏陀は、あの深くて高尚な人格を、果たして持ち得たでしょうか。
「インスタントに何かすれば、すぐに結果を手に入れることができる」といったものが、どのような分野であれ人気を博していますが、少なくても悟りに関しては、そのようなものは存在しません。そうしたものは、歴史という大河の表面にパッと生まれたかと思うと消えていく泡のようなものです。私たちは、単なる「泡」と、真の「流れ」とを、眼の先の損得に支配されない心でしっかりとつかみとる必要があるのです。乞食根性が心を支配していると、つい泡を手にしてしまいます。そして手を広げてみると、そこに何もないことに気づくのです。そんなことをしている間に、人生という貴重な時間がどんどん失われてしまうのです。


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 8月24日  人生は無駄の連続か?
 今日は、一週間くらいかけて一所懸命に書いてきた原稿を、使えないとわかって没にした。つまり、この一週間の労力が無駄だったことになる。
 もっとも、こんなことは珍しくない。今までだって何回も書いたものを没にしてきているし、膨大な厚さの洋書を何ヶ月もかけて読み、結局、採用した箇所は、全体の5パーセントくらいだったということもある。95パーセントの部分を読んだことは無駄ということになるのだが、全部読まなければどれを採用してどれを採用しないかわからないのであるから、仕方がないことだといえなくもない。
 それにしても無駄な労力が多い。最初からこの部分だけを読めばいいとわかっていれば、なんと効率よく早く原稿が書けることだろう! 機関車は燃料のエネルギーのうち95パーセントは熱となって無駄に空中に放出され、残りの5パーセントで動くらしいが、私はどうも機関車なみに効率の悪いモノ書きのようだ。
 私の場合、だいたい一冊の本を書き上げるときには、その2倍から5倍の原稿を書いている。つまり、大量の没になった原稿があるのだ。そんな没の原稿がなければ、さぞかし早く楽に本が完成できるのだが、なかなか、そううまくいかない。
 要するに、手順が規格化されていて、決まりきった作業をすれば失敗なく製品が生まれる工場ラインにいるのではなく、何回も試行錯誤を重ねて新製品を開発する研究室にいるようなものであるから、失敗することは避けられないのだ。しかし、会社の研究室にいる人は、新製品が開発できなくても給料はもらえるだろう。私は原稿が完成しない限りお金はもらえず、売れなければ採算がとれないということもある。そこが辛い。
 それはともかく、書いては没にし、書いては没にするということが繰り返されると、いい加減に「私は馬鹿ではないのか?」と本気で悩んでしまう。しかし、馬鹿だろうと何だろうと書いていくより他に道はないのだから、泣く泣く机の前に座ってキーボードを叩くより仕方ないのだ。
 思えば、人生というものは、本を書いたり、新製品を開発するのと似たところがないだろうか?
 仕事は規格化することは可能だが、人生は難しい。「こうすればうまくいく」といった確実な道はない。規格化されている工場ラインだって、不良品が出たりするのだから。
 規格化された仕事をしている人であれば、規則通りまじめに仕事をしていれば、そう大きな失敗も無駄もないかもしれない。しかし、仕事以外の、たとえば恋愛や結婚といったことは規格化できない。「このように告白すれば必ず恋が成就する」といったマニュアルはないのだ。普通の人は、結婚するまでに、何人もの異性にアプローチし、何度も失恋の憂き目にあっているだろう。つまり、いくつかの失恋という「無駄な時間と労力」を繰り返すことになる。
 もちろん、失恋を通して、どんな人が自分にふさわしいのかということがわかってくるわけであるから、その意味では無駄ということにはならない。しかし、もしも最初からどんな人がすばらしいのか、どんな人が自分にふさわしいのかということがわかっていれば、悲しい思いをせずに、早く素敵な人を見つけて、それだけ長い間、その人と愛し合うことができるわけであるから、やたらに失恋の体験をもてばいいということにもならないだろう。
 結婚しても、それでめでたしとは限らず、その後もいろいろな波乱があったりする。離婚して再婚する人もいる。そうなると、前の結婚生活は無駄だったことになる。
 仕事だって、本当に自分のやりたい仕事が見つかるまでに、職を転々とするといったこともある。すると、以前の仕事は無駄だったことになる。
 その他にも、人生にはたくさんの無駄が繰り返されるのが普通だ。もちろん、すでに述べたように、無駄といっても、そこから教訓を学んだりすることができるので、まったくの無駄ということではないのだが、もし最初から教訓を心得ていれば、教訓を学ぶための体験をせずにすむという意味では、やはり無駄ということになる。
 私の場合、没になるような無駄な原稿を書かないためには、執筆する前に、しっかりとした計画や見通しなどを立てて、「こういうことを書くのは無駄」ということがあらかじめわかっていれば、没になる原稿を書かなくてすむはずである。
 仕事でも、失敗しないためのノウハウの本だとか、経営コンサルタントといった人たちがいるし、恋愛でも、「成功マニュアル」のような本があって、そういったもので事前によく研究すれば、多少なりとも人生の無駄が回避できるかもしれない。そういう努力はとても大切であると思う。
 しかしそれでも、人生における無駄が完全になくせるわけではない。依然として、人生にはさまざまな無駄が生じる。完全に無駄を避けて通ることは不可能だ。
 だから、人生というのは無駄が多いものなのだ、人生に無駄はつきものなのだと、最初からあきらめるというか、覚悟を決めておいた方がいい。
 ただ、無駄なことがあっても、それに対していつまでもクヨクヨするのは本当に無駄なことなので、せめて、そうした無駄だけでも完全に撲滅するようにしたい。
 というわけで、暑さに苦しみながら書いた原稿(いわば、ただ働きした時間)を没にしなければならなくなったことはもう本日限りで忘れることにして、明日から、また頑張って新たな原稿に前向きに励むことにしよう(たとえ、この原稿がまた没になるかもしれないとしても……)

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