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 2008年1月の独想録


 1月14日  言い訳はしない。しかし・・・
 もし人間的に成長したいと思うならば、「言い訳」というものは、おそらくあまりしない方がいい。人生は結果がすべてだとは思わないが、しかし周囲や社会や世の中というものは、ほとんど結果で評価をする。学生にしたって、教育や学習の目標は決してテストで高い点数を取ることではないはずだが、結局のところ、受験ということになれば、問われるのは点数で、すなわち数字で評価されてしまう。営業という仕事もまた、必ずしも数字で評価されるべきものではないが、しかし最終的には売り上げという数字で評価されてしまう。
 こういう傾向は決していいことだとは思わないが、世の中というものが結果、特に数字で評価されるようにできているのであれば、そんな世の中に対して、結果が出せなかった言い訳をしたところで、おそらく空しいだけである。やや極端にいえば、世の中にとって、結果が出せない人間には、価値がないということになる。
 そうであるならば、結果が出せなければ、すべて自分が悪いのだ、自分に力がなかったのだと思った方がいいかもしれない。「こんなにいい仕事をしているのに、なぜ世の中は評価してくれないんだ」などと愚痴っても仕方がない。それは単なるひとりよがりとしか思われない。恋人にふられてしまったら、自分に魅力がなかったのだと、潔く認めることだ。「私はこんなに尽くしているのに、なぜ私を愛してくれないのか?」などと真面目に考えても仕方がない。
 もちろん、人生には言い訳をしたくなることはたくさんある。そして実際、その言い訳には、客観的に見ても正当性がある場合もあるだろう。試験会場へ向かう途中、電車が事故で止まってしまい、試験時間に遅れて不合格になってしまったような場合、不合格になった言い訳をしたくなるだろう。しかし、それでもぐっと我慢して、いっさいの言い訳をせず、すべて自分が悪いのだと思うことで、人間は鍛えられ、成長していくように思う。厳しいことをいえば、事故があっても試験に遅れないように、もっと早い時間に家を出ることもできたはずだ。やはり、どこかに甘さがあるということが圧倒的に多いのだ。
 結局のところ、言い訳をせず、結果を出せる人間になるために、もっと実力を磨くために努力し、もっと魅力的に、もっと人気が出るように、あらゆる努力をする、それしかないように思われる。もしへたに言い訳をして、たまたまその言い訳を認めてくれるような友人なり同僚がいて、たとえば酒を飲みながら傷を舐め合うような関係ができてしまったら、これは最悪だ。その言い訳はどこまでも際限なく広がっていって、ついには自分を向上させる努力など何もしないくせに、自分を認めないまわりや世の中を呪うだけのような人間になってしまいかねない。
 なので、言い訳や愚痴というものは、人に話してはいけない。もし話すとしても、相手を選ばなければならない。厳しいことを言ってくれる人に話すのならいい。しかし、あなたに嫌われたくないために、何でもあなたのことを受け入れようとするような相手には、決して言ってはいけない。世の中で生きなければならない限り、どこまでも自分を変え、鍛え続けていくより他に道はないのだから。お金も愛も、すべて何不自由なく所有しており、世の中とかかわらなくても楽しく生きていける自己完結的な立場になったなら、そのときはじめて言い訳でも愚痴でもいえばよい。

 しかしながら、以上のような覚悟ができて、言い訳や愚痴をいうことのない人がいたならば、私は同時に、次のようなこともいいたい。
 たとえば、今日、音楽CDの売り上げがミリオンセラーになっている音楽といえば、ほとんどが流行歌であろう。ベートーベンの交響曲第6番「田園」がミリオンセラーになったという話など、まったく聞いたことがない。けれども、私は流行歌などよりも、ベートーベンの交響曲の方がよほど素晴らしいと信じている。
 もしも、売り上げという数字、すなわち結果がすべてというのなら、ベートーベンの交響曲には価値がないことになる。実際、商業的な点では価値がないといえるだろう。しかし、文化的な価値は計り知れないものがある。そして音楽というものは、もともと文化なのだということだ。
 人間にしても、ルックスがいいというだけで、とりあえず異性の人気を勝ち得るのが世の中だ。あるいはお金をもっていたり、地位が高いというだけで、異性の愛を獲得できてしまう。誠実さ、高潔さ、真面目さ、忍耐強さといった、それこそが人間性の本質であるはずのものが、異性のハートを射止めるということは、少なくなってきているように思われる。数の多さからいえば、おそらく、そのようなことは考慮されない。いや、そのようなことを考慮できる人が少ない、といった方が正確かもしれない。それは、ベートーベンの交響曲が売れないのは、その音楽を理解できる人が少ない、ということと同じである。

 したがって、自分が世の中や周囲に認められないのは、すべて自分が悪いのだと思うと同時に、心の中では反対の思いも抱いて生きるべきである。「自分の価値を理解できる人が世の中にいないだけなのだ」と。さもないと、あまりにも寂しくなってしまうから。そして、貴重な才能をダメにしてしまうこともあるから。過去の偉人たちを振り返ってみよう。特に芸術家など、生前は認められなかった作品が、その作品の価値が理解できるほど世の中の精神性が向上したときに、大人気になったといった話など、たくさんあるではないか。生前、世の中に認められないという理由で、芸術家たちは失望し、自信を失い、それで精神を乱してしまった人もいれば、病気になったり、自暴自棄になったり、死んでしまったり、二度と作品が作れなくなってしまった人もいた。それはなんともったいないことであろう。

 だから、すべて自分が悪いのだ、だからもっと実力を磨こうという厳しい気持ちをもちながらも、ひそかに、自分の才能に自信をもち、「自分の価値がわからないのは、世の中が悪いのだ」と考えるようにしよう(しかし決してそれを口にしてはいけない)。そして、人気のある他の人のスタイルをマネするようなことはせず、あくまでも自分らしさを貫こう。どこまでもどこまでも、ひたすら、自分のスタイルを磨いていこう。
 そうして努力し続けていけば、もしかしたら、生きている間に世の中が変わって、自分の価値が認められるようになる時代がくるかもしれない。そうなる保証はどこにもないが、しかし、それが一番いい生き方であるように思う。

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