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 2008年8月の独想録


 8月3日  真実を探求する姿勢
 今日、オカルトという言葉は、「怪しくいかがわしいもの、嘘で軽蔑すべきもの」という意味として使われている。しかし、もともとオカルト(occult)とは、隠れた知識、秘密の知識、秘教・・・といった意味である。むかし若いとき、英国人の知り合いから、「ミスターサイトウ、あなたはオカルト・マター(occult matter=オカルト的な事柄)に関する本を書いているのですね」と、軽蔑的なニュアンスなく言われたことがある。私は胸をはって「イエス」と答えた。これが本来の使い方だ。
 しかし、オカルトが軽蔑的で怪しい言葉のようにいわれたのは、根拠も何もない幽霊話だとか、「エクソシスト」のような、本来のオカルトとはほとんど関係のないようなことを「オカルト映画」という言葉で呼んだりして、そういう間違った使われ方をされたために、結局、オカルトという言葉は汚されてしまったのである。
 そして、他にも、今日、ずいぶん汚されてしまったと思う言葉が二つある。
 ひとつは「波動」であり、もうひとつは、「スピリチュアル」だ。
 波動という言葉は、未知なるエネルギーや現象を、とりあえず比喩的に説明するのには便利な言葉である。しかし、それはあくまでもとりあえずの、仮説的なものとして使われた場合である。
 ところが、今日では、不思議な現象を説明するのに、なんでも「それは波動だ」といえば、なんとなく科学的な信憑性があるかのように思われて受け入れられてしまう。しかも悪いことに、波動グッズだとか、波動測定器だとか、波動水といったような名前で、高価で怪しい商品が売られている。さらには、「あの人は波動が低い」などといって、人を波動という言葉で差別するようなことをしていたりする。
 そうして、本来はとても便利でよい言葉であった「波動」が、一般の人にとっては、口に出すのが恥ずかしいような言葉になってしまった感がある。私なども、本を書いているとき、この「波動」という言葉を用いるのを、躊躇してしまうときがある。
 そして、「スピリチュアル」という言葉もまた、汚されつつあるように思われる。
 もともとスピリチュアルとは、霊的な、精神的な、宗教的な・・・という意味であり、チャネリングだとかオーラだとか、そういったものだけをさした言葉ではない。「あなたはスピリチュアルな人ですね」と英語でいうときには、「あなたは宗教的な人ですね」といった意味合いになる。しかし、これを日本語でいったら、おそらく、「あなたはオーラが見えたり、チャネリングができるとか、前世や生まれ変わりを信じたり、スピコン(スピリチュアル・コンベンション)に行く人ですね」といった意味になるだろう。
 結局、一部の商業主義にまみれたマスコミや怪しい霊能者などと、スピリチュアルという言葉がくっついてしまったために、スピリチュアルという言葉は、オカルトと同じように、怪しくいかがわしいという言葉になってしまったように思われる。
 私は、ニューエイジやスピリチュアルな事柄の研究家と思われているに違いないが、私自身は、いわゆるニューエイジだとか、昨今のスピリチュアルといわれているものが、実は嫌悪感を覚えるほどイヤでたまらない。
 もちろん、私はチャネリングだとか、前世だとか生まれ変わりだとか、オーラといったものを否定はしない。否定しないどころか、あり得ると思っている。しかし、そのことを人に信じるように押しつけようとは思わないし、盲信もしない。「チャネリングで宇宙人と交信した」という人がいても、「たぶん、そういう可能性はなくはない」という冷静な受け止め方をしている。実際、それを肯定する証拠も否定する証拠もないからだ。
 ところが、いわゆるニューエイジだとかスピリチュアルに夢中になっている人は、とにかく頭からそれが事実であると決め込んでいるところがある。それが宗教であればかまわない。宗教は根拠なく信じるところから始まるからだ。しかし、彼らは、自分たちの信じていることを宗教といわれるのは好まない。宗教ではなく直感から得た真実だとか、なかには科学とまでいう人がいる。
「科学というからには、客観的に実証しなければならない」と、ニューエイジにそまった人に言ったときがあった。そうしたらその人は、「あなたは波動が低いからわからないのだ」と言った。
 彼らは、現実離れしたファンタジーの世界で遊んでいるとしか私には思えない。ディズニーランドのなかで王子様になったり、魔法の剣で悪魔をやっつける「ごっこ」の遊びを、ニューエイジやスピリチュアルというもっともらしい言葉を盾にして、はしゃいでいるにすぎない。
 かといって、このような事柄を、頭から否定するのも、私からいわせれば、同じあやまちをおかしている。そういう人たちは、自分たちを「科学的」と自認しているようだが、根拠もなく肯定すると同様に、根拠もなく否定するのも、科学的とはいえない。彼らは、自分たちの科学的な基準に合わないというだけで、たいして調べもしないで否定している。これも、まったくひとりよがりで幼稚な考え方である。「科学教」とでも呼ぶべき「宗教」の盲信者であると言ってもいいだろう。なかには、「トンデモ・・・」などといって、不思議な事柄を研究している人たちを笑いものにする品のない連中もいる。確かに、いかがわしい研究者も少なくないが、まじめに一生懸命に研究をしている人だっているのだ。こういう人は純粋な人が多いから、「こんな研究をしていたら世間から笑われるだろう」なんてことを考えない。もっとしたたかに、権威や肩書きを得てうまく立ち回ればいいのだろうが、そういうことができない。要するに、世間的に不器用なところがある。そういう人を「トンデモだ」などとからかうように口にするのは、手足の不器用な人が懸命に頑張っている姿をあざけり笑うのと同じくらい下劣な行為であると、私は思う。
 真に科学的な姿勢とは、安易に肯定も否定もせず、とにかく探求をしていくことなのだ。
 肯定も否定もしない態度というのは、居心地が悪いものである。人間は、白黒決めたがる傾向がある。その方がすっきりするし、安心する。しかし、世の中は、そう簡単には白黒決められないことの方が多い。これまで何年も正しいと信じられてきた学説でさえ、否定されることだって珍しくはないのだから。
 自分はこう思うと堂々と主張することは間違いではない。しかし、そこには謙虚さがなければならない。「もしかしたら間違っているかもしれない」という気持ちを忘れてはならない。断定的な言い方をし、自分のいうことが受け入れられない者はバカだといった傲慢さが、スピリチュアルの信奉者にも、スピリチュアルを否定する「科学的な人」にも見受けられる。
 だが、いずれにしろ謙虚さがなければ、それはスピリチュアルでもなければ、科学でもない。


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 8月15日  生まれ変わったように生きる
 いきなりヘンな話だが、「カツラをつけるいいタイミング」というのがあるそうだ。
 それは、転職するときだという。つまり、今まで禿げていたのに、いきなり髪がふさふさになれば、誰だってカツラをつけたとわかるし、いろいろと冷やかされたりして、ばつが悪い思いをする。
 しかし、転職して新しい職場に顔を出す前に、カツラをつけてしまえば、それがカツラだということは誰も知らないので、冷やかされることもなく、堂々としていられるというわけだ。
 ところで、人間というものは常に変化している。今まで臆病だった人が勇気をもつようになったり、今まではお調子者だった人が凛々しくなったりする。実際、努力して、そのように自分を成長させていくべきであろう。
 ところが、今まで臆病だった人が急に大胆になったり、お調子者だった人が凛々しくなったりすると、職場や学校、その他、親しい人たちは驚き、あるいは冷やかしたりするものだ。「おまえ、いきなりどうしたんだよ〜」などと笑われたりして、恥ずかしい思いをしたりする。
 人間というものは、最初の印象で相手の人物を決めつけてしまう傾向がある。逆にいえば、一度、ある特定の評価をされると、それ以外の評価はなかなかされにくい。とくに、最初は悪い評価をされて次に良い評価をされるというのは、なかなか容易ではない。
 そのため、いくら自分自身が変わろうとしても、周囲が自分のことを、あいかわらず以前の自分のように見なしてしまうので、ついそれに負けてしまい、なかなか自分を変えることができない、ということになる。
 しかし、カツラではないけれど、転校や転職などをして、以前の自分のことは誰も知らない環境に移るときには、成長した新たな自分を発揮するチャンスといえる。今まで臆病だと思われていたが、新しい環境において、堂々と振る舞えば、周囲から勇気ある人だと評価されるだろう。その評価がさらに、自分自身を勇気ある人にさせていくだろう。今まではネクラだと思われていたが、新しい環境において最初から明るく振る舞ったなら、自分に対する評価は明るいものとなるだろう。
 それは、まるで生まれ変わったように、新しい環境で生きるということだといえる。
 とはいえ、転職や転校などという機会は、そう多くあるものではない。
 となると、同じ環境にいる限り、自分が変わっても、新しい自分を発揮できにくくなる。むしろ、それ以前に、自分を変えることができないとか、自分を成長させることができないかもしれない。周囲の評価や反応が気になり、かつらをいきなりつけるのと同じような恥ずかしさがあるからだ。
 けれども、周囲を気にするあまり、自分の成長を損ねてしまうとしたら、それはなんともったいないことだろう。今までお調子者で、周囲から軽蔑されていた男が、お調子者ではなくなって凛としたら、最初は上司も同僚も冷やかすだろうし、酒宴の席で「おまえ、いきなりどうしたんだよ! いつものように、ギャグでも飛ばしながらみんなに酒でもつげよ!」などといわれるかもしれない。それに対して、真面目な顔をして「いいえ。お断りいたします」などといおうものなら、「おまえ、熱でもあるんじゃね〜か!」などと頭をポカリと叩かれて笑われるかもしれない。そこまでされると、さすがに恥ずかしくなって、頭をかきながら舌をペロリと出して、「やっぱ、そうっすよね。オレ、こんなの似合わないっすよね〜」などといわざるを得なくなって、いつものように、ビール瓶をもってふらふらと歩き回らなければならなくなるかもしれない。表現を変えれば、周囲はいつまでもあなたをお調子者でいつづけさせようとする。
 ところが、もしも、「いいえ。お断りします」と、凛として答え続けるなら、その場はシラケて、周囲は当惑したり不愉快な感情を抱くかもしれない。「どうせ、またすぐに、いつものあいつに戻るに決まっているさ」などと内心思いながら、しばらく無視されるようになるかもしれない。
 だが、断固として、凛とした新しいあなたを貫き通すならば、しだいに周囲の目は変わっていき、新しいあなたが周囲の心のなかに生まれてくるようになる。ついには、誰もあなたをお調子者とは思わなくなり、自己を変革した見事な手本として、尊敬の念さえ抱かれるかもしれない。
 周囲が期待するような「私」を演じなければいけない、などということはないのだ。
「おまえはどうせバカだ、どうせたいしたことなんてできやしない、どうせダメだ・・・」といった、自分に向けられたいっさいの否定的な評価など、完全に無視をするべきだ。自分が人からどう思われようと、まったく気にしない図太さを持つべきだ。
 いつでもその気になったら、生まれ変わったように生きよう。周囲など気にせず、いつでも生まれ変わりながら、この人生を自由に自分らしく生きていこう。


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 8月28日  雨の日ツバメを見て
 シャワーのような、かなり強い雨が降ってきた。
 ふと、窓から外を見ると、電線の上で数羽のツバメが、なんだか嬉しそうに羽をパタパタさせている。何をしているのかと思ったら、雨で水浴びをしているのだ。
 たいてい、人間は、このような雨が降ってくると、イヤだなと思う。「雨=悪い=イヤだ」という条件反射的な結びつきができてしまっているようだ。しかし、よく考えれば、雨が降らなければ困るわけだし、砂漠などでは、雨が降れば「今日は、いい天気ですね」となるのかもしれない(本当にそのように言うかどうかは知らない)。
 ツバメは、まさにポジティブ・シンキングをしているように見えた。雨が降れば、イヤだと思って嫌悪するのではなく、それをうまく利用しているわけだ。実際、水たまりで水浴びするよりも、雨の方が清潔であろう。
 このように、なんでも、どんなことが起こっても、それをいいように解釈して利用できるようになったら、さぞかし幸せだろうなと思う。きっと余計なストレスも感じないだろうし、そういう生き方ができれば、なんだかいつまでも若々しくいられそうだ。
 しかし、頭ではわかっていても、なかなかそうできないところが、人間の悲しさだ。
 自分の期待通りにいかないと、なんでも、それがイヤなものであると感じてしまう。
 ならばいっそのこと、あまり人生に期待しないで生きた方が、何があっても前向きに受け入れることができるようにも思われる。
 ツバメは、いつでもスイッチひとつでお湯が出るシャワーなんてもっていない。人間だって、天災か何かでライフ・ラインがストップし、何日もお風呂に入れない状況が続いた後で、シャワーのような雨が降ってきたら、その雨はありがたく、気持ちのいいものとなるはずだ。
 だからといって、いまさら、シャワーのない生活をすることはできない。原始人のような生活をすることはできないのだ。
 もし、このまま文明が進歩していって、あらゆることが快適に便利になっていったら、いったいどうなってしまうのだろう? 現在、携帯電話なしでは心の安定を保てない若者がたくさんいるという。携帯電話なんて、むかしはなかった。私の子供の頃は、普通の家庭電話さえない家があった(大家さん経由で呼び出しとか)。では、そのころの若者がそのために心が不安定だったかというと、たぶん、そんなことはなかった。
 私たちは、自ら環境に適応する条件を狭くしているように思えてならない。金魚は少しくらい水温が低かったり高かったりしても平気だが、一部の熱帯魚などは、水温を常に一定にしておかないと死んでしまう。私たちも、これから先、「これがないと生きられない」といったものがどんどん増えていって、本当に恵まれた条件でなければ、心身の健康が保てなくなってしまうのではないかと危惧してしまう。ウォシュレットがないトイレでは排便ができなくなり、こしひかりでなければ米が食べられなくなってしまうかもしれない。
 だが、いくら文明が発達したとしても、常にそんな恵まれた条件で生活できるということなどないだろう。ウォシュレットだって壊れて使えなくなるときがあるだろう。そうなると、ウォシュレットのない便器に座らなければならない事態に遭遇するかもしれない。そのとき私たちは、まるで人生の一大悲劇のように感じてしまうのだろうか?、ウォシュレットのない便器が使えないといって落ち込み、うつになったり、果ては自殺を考えてしまうほどになってしまうのだろうか?
 いまさら文明生活を捨てることは無理だが、雨のときに水浴びをして楽しむツバメのような、ある種の野性的なたくましさを、私たちは決して失うべきではない。いざとなれば、裸で野山をかけめぐり、木の実や草や小動物をつかまえて食することもできるような、そんな野生の根性だけは、たとえ意気込みだけでも、心のなかに保っているべきである。
 そうすれば、いざ、自分の期待通りに物事が運ばない状況になっても、もともとそれが当たり前で自然なことなのだと考えることができ、悠々と対処していく肚がもてるかもしれない。

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