HOME独想録

 2008年5月の独想録


 5月10日  能力は使わないと衰える
 人間の体は使わないと、どんどん退化していく。たとえば、骨折などで一ヶ月ほど足にギブスをはめていたような場合、最初は筋肉が衰えてうまく歩けない。三日ほど家にこもっているだけでも、外出して歩いたりすると、軽い筋肉痛になったりする。
 私はひとりで何日も仕事をすることが多く、その間はあまり人と話をしない。そんなときに、講演などでいきなり長い時間話したりすると、最後の方では声が枯れ始め、あくる日には喉やあご周辺の筋肉痛になる。
 プロのピアニストなど、少しでも練習をさぼると、とたんに能力が下がってしまうという。一日でも練習を休むと腕が下がったことが自分で気づき、二日休むと他人にわかるそうだ。
 外国に長い間住んでいて、日本語をまったく使わない生活が数年も続くと、母国語の日本語さえ話しづらくなり、言い回しが怪しくなってくるそうだ。
 筋肉も脳も、内臓も、使わないと、とたんに衰えてしまう。どんなことであれ、使わないと、どんどん衰えてしまう。定年になり、仕事をしなくなり、家にいて、刺激のない生活をすると、とたんにボケたり、病気になって死んでしまう人が多いのもそのためだ。「隠居三年(隠居したら三年で死んでしまう)」という言葉は、よくいったものだと思う。
 ところで、人生というものは、晴れのときもあれば、雨のときもある。ときには、嵐の中を歩んでいかなければならないときもある。これまでは平穏な生活をしていたのに、突如として苦難に見舞われ、何らかの「戦い」をしなければならない状況におかれるときがある。
 そんなとき、これまでは戦いをしてこなかったので、戦いの能力が衰えている。そのため、最初はそういう状況におかれて非常に辛い思いをする。しかし人間の能力は、使わないとすぐに衰えるが、使えばどんどん伸びていくという長所もある。
 そうして、最初は、とてもこんな生活には耐えていけないと思うが、忍耐強く頑張っていると、しだいに戦うことが容易になってくる。自分でも驚くほど、勇気と自信が出てきて、大胆に、ときには荒々しくさえなってくる。そうして、それが経済的な問題であれ、人間関係でのトラブルであれ、仕事上の困難であれ、何とか乗り越えていけたりする。
 そして、そのうちまた、穏やかな生活がやってくる。
 だが、そのときに、新たな問題が起こる。
 今度は、「穏やかに生活する能力」が衰えてしまっているのだ。心身が常に「戦闘態勢」モードとなり、そこから抜けられないのである。
 そのため、地味な仕事をコツコツこなし、他者と穏やかにコミュニケーションし、派手なことはせず、質素に、謙虚に生きるということが難しくなる。そういう“平凡な”生活に、苦痛を感じるようになる。そこには、戦っていたときのようなスリルがない、興奮もない。目の前には、味気ない事務的な仕事ばかり。そうして、毎日が空しくなってくる。その空しさの苦痛をまぎらわすために、酒を飲んだり、ギャンブルをしたり、何らかの危険を伴うようなことをしてしまう。こうして、しばしば苦難のときよりも悪くなり、崩壊してしまう、といったことが起こる。
 したがって、どのような人生の移り変わりであれ、状況が変わったときは、しばらくの間は、非常な用心が大切だ。平凡な生活から突然の波乱に満ちた困難な状況に移行したときは、絶望によって悲観したり自殺したりしてしまう危険があるし、困難な状況から平凡な生活に戻ったときは、倦怠感や空虚感に襲われ、油断してはめをはずしたり、自己破滅的になってしまう危険があるのだ。


                                            このページのトップへ    
 5月11日  衰えてはいけない能力
 人間が幸せに生きていくためには、衰えてはいけない能力というものがある。泳ぎの能力が衰えても実生活に支障を生じることはないだろうが、職業上の能力が衰えてしまうと生活に問題が生じるので、衰えないようにしなければならない。もっとも、職業上の能力は仕事をしている限り衰えることはないだろうから、それほど心配することもないだろう。
 仕事や経済的なこと以外で人間が幸せに生きていくには、何よりも、他者との良好な人間関係が大切である。他者と良好な人間関係を築くのも、ひとつの能力なのだ。その際大切なのは、他者を思いやる気持ちである。他者の立場にたって物事を考える能力といってもよい。
 世の中には、いわゆる「能力」は高いのに、職業的にパッとしない人がいる。こういう人はたいていこのようにいう。「まわりはバカばかりだ。私の能力を誰も認めない。私にもっと責任ある仕事を与えてくれれば、成功させてみせるのに」。
 だが、どんな仕事でも、人との協調なくしてうまくやれるものはない。こういう人は、部下は自分が命令すればロボットのようにいうことを聞く、また、聞かなければならない、聞いて当然だと思っているようなところがある。しかし、そう簡単なものではない。人をその気にさせたり、みんなで仲良くやる、ということも、大切な能力なのだ。
 他者とうまく協調できない人は、「社会性」に欠けている傾向がある。子供時代から、競争ばかりで他者と協調するという能力を鍛えることができなかったような場合、社会性が欠如してしまうように思われる。
 なので、勉強をして能力を高めることは大切だが、同時に、他者と仲良くやっていくという能力も高めていかなければいけない。そのためには、人との交際を定期的に行うということが必要であろう。
 ところで、恋というのも、ある種の社会性に基づくひとつの能力によるものだ。恋をうまくやるには、ある種のスキルが必要である。若者の悲劇は、このことが理解できず、失恋したのは自分に魅力がなかったからだと思って落ち込んでしまうことだ。
 十代の恋などは、誰もこうしたスキルなど、系統だてて教えてくれる人はいない(せいぜい雑誌などから断片的なテクニックを知るくらいだ)わけだから、そもそも失恋して当然なのである。うまくいったとしても、長続きしないのが当然なのだ。
 こんなことを繰り返して、しだいにスキルを身につけていき、だんだん恋愛が上手になっていく。ところが皮肉なことに、恋愛が上手になった頃にはすでに結婚していたりする。そして、結婚生活の最初の2、3年くらいは、この恋愛スキルがものをいうが、しだいに通用しなくなってくる。
 なぜなら、恋愛と結婚は違うもので、結婚生活をうまくやるには、そのための能力がまた別に必要になってくるからだ。つまり、たいていの人が、結婚生活をうまくやる能力を身につける前に結婚してしまう。そのために、しだいに問題が起こってくるのだ。
 それでも、夫婦の間をごたごたさせながら、どうすれば結婚生活をうまくやっていくことができるかの能力が少しずつ身に付いてくる。ところが、ようやく結婚生活をうまくやれる能力が身に付いたときには、頭は白くなり、顔は皺だらけになっている。つまり、結婚生活も残り少ない状態になっている。
 結局、恋愛と結婚のスキルは身につけたものの、ついにそれが十分に活用されることなく年老いていくというのが、ほとんどの人がたどる道ということになる。
 こう考えると、人生の意義というものは、学んでどうにかするということ以上に、学ぶことそのものに、学ぶプロセスそのものに、あるのかもしれないと思ったりもする。


                                            このページのトップへ    
 5月29日 失われていく感動する心
 毎年、この時期になると、広大なポピーの花でいっぱいになる場所が近所にある。遠くから見ると、まるで大地が、オレンジ、赤、黄色の絵の具で塗られたかのようだ。
 他にも近所には、春になは桜と菜の花がいっぱいに咲く場所があり、秋にはコスモスが一面に咲く場所がある。森があり、湖がある。都心からそう遠くない場所にこれだけの自然があるということで、この場所が気に入り、住み始めてからけっこうたった。
 若いときから、こういう自然に触れて、ただ一人そのなかにいるだけで、無上の喜びを感じたものだ。しかし、ここ数年、その喜びが減少してきたような気がする。春になれば、いつもなら酒に酔った以上の幸せな気分に浸ったものだが、少しずつそんな気持ちも色あせてきたように思われる。
 自然ばけでなく、若い時は、お金がたくさんあれば、「あれも欲しい、これも欲しい、旅行もしたい、こんなこともしてみたい」と思うようなことがたくさんあった。たとえば、世界中を旅行してみたいなどと思っていたりした。公開される映画はすべて見たいとか、好きな作曲家のコンサートはすべて行きたいとか思ったこともあった。
 しかし、今では、以前ほどそういう気持ちはない。
 歳を取ると、お金の使い道がなくなり、結局、孫の小遣いになってしまうという話を聞く。その気持ちがわかるような気がしてきた。
 多くのことに興味を失いかけてしまう、真の原因は何なのだろう?
 単純に、歳をとってしまったから、ということなのだろうか?
 歳を重ねると共にいろいろなことを経験してくると、たとえ新しい経験をしたとしても、過去に経験したものと、似たりよったりといった思いがよぎるようになる。私が小学生のとき、初めて日光だとか京都に行ったときは、まるで外国にでも行ったような新鮮な喜びを覚えた。
 しかし、今は、どのような観光名所に行っても、それほどの感動はない。どこに行っても、同じような土産物屋があって、同じような風景のように思われ、それほど面白さというものを感じない。
 本当に感動できる感性をもっていれば、それこそ道端にポツリと咲いている平凡な花にさえ、感動を覚えるに違いないのだ。やはり、私は何かが、失われかけているように思われる。
 子供の頃は、体験そのものが少ないために感動をするということは確かであろうが、おそらく、子供が感動をする理由は、もうひとつある。それは、想像力だ。
 想像力は、ある程度は未知によってもたらされる。知り合ったばかりの男女は、相手がどんな人なのかわからない未知なる部分が多いから、どんな人なのかと想像をすることによって、ワクワクするものだ。しかし、表も裏も、すべてを知り尽くしてしまったら、おそらく恋愛に伴うワクワク感はだいぶ減少してしまうだろう。
 私が自然のなかにいて感動を覚えていた頃は、この自然の美しさや荘厳さというものが、いつかこの世界に、また私の人生に、反映されるに違いないという想像と期待があったように思われる。別にそう思う根拠などないのだが、何となくそういう気がしたのだ。なにかいいことが、これから先の世界、また人生に、待っているような気分になったのだ。世の中は、これからどんどんとよくなっていき、私の人生も、豊かで輝いて何もかも満たされて、すばらしくなっていくに違いないという期待と想像が、自然のなかにいると湧き上がってきたように思う。
 しかし、それからどうなったか?
 世の中は、よくなるどころか悪くなる一方のような気がする。自然は破壊され、災害は起こり、戦争も起こり、経済は低迷し、没落の一途をたどっている。弱い者いじめの政策や腐敗が蔓延している。また、自分の人生もどうだろうか? 毎日毎日が、パッとしない努力の連続であり、明日の生活への不安だとか、大きな苦難ではないにしても、細かい煩わしいことの処理に悩み追われることの連続である。
 このような生活を何年も続けてくると、いわば、ある種の裏切りにあってきたようなもので、人生に対する想像力も枯渇しはじめ、期待をしようという意欲も減退してしまうのかもしれない。
 しかし、たとえ平凡な生活を長いこと続けていたって、そんな生活に感動する人はいるのだ。そういう人は、いったいなぜ、感動をするのかを知りたい。これから先、必ずすばらしいことが起こるのだと、いつまでも期待できるからなのだろうか?
 それとも、最初から、世界や人生に大きな期待や想像などしていないので、ちょっとした小さなことにも喜びと感動を覚え、感謝できるのだろうか?
 私も、過剰な期待はしない方がいいのだろうか? 五体満足で、ポピー畑を見ることができるというだけで、恵まれており、幸せであると感謝しなければいけないのだろうか? そうすれば、再びあらゆるものに興味が湧いてくるのだろうか?
 それとも、まだまだ大きな期待をし、未来へのすばらしい想像をかきたてて生きるべきなのだろうか?
 どちらにするべきなのか、私にはわからない。

このページのトップへ