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 2008年2月の独想録


 2月6日  愛はお金で買えるか?
 お金では買えないものがある、という言葉はしばしば耳にする。
 たとえば、人の愛はお金では買えない、といわれる。果たして、本当にそうなのだろうか?
 たとえば男性の場合、お金で女性の愛を買うことは無理だろうか? もちろん、いくらお金があっても、嫌悪感を覚えるほどの容姿や性格をしていたら、ほとんどの女性はその男性を愛することはできないだろう。
 しかし、容姿も性格も、その他の条件もほぼ同じであったとき、一方はお金持ちで、もう一方は貧乏だったとしたらどうだろうか? おそらく、大半の女性はお金持ちの男性を恋人や結婚相手に選ぶに違いない。これはある意味で、女性の愛をお金で買ったことにならないだろうか?
 女性からすれば、「お金がすべてではないけれど、お金も大事」ということであろう。お金があれば楽しいこともできる。しかし貧乏は辛いものである。ある程度、大人になれば、このことがよくわかってくる。

 しかしながら、厳密にいえば、この男性は、女性の愛をお金で買ったことにはならない。なぜなら、女性が愛しているのはお金であって、男性その人ではないからだ。ただ女性と親密な関係になるその「権利」を手に入れたにすぎない。
 けれども、たいていの人は、そこまで考えない。本当は自分ではなく、自分が所有するお金を愛して自分にくっついたに過ぎないのに、たいていの男性は自分自身が愛されたのだと錯覚する。これはある意味では、「知らぬが仏」、幸せな錯覚であるといえるのかもしれないが。
 こういう男性にとっては、まさに、「愛はお金で買える」のだといえるだろう。本人は自信をもってそう主張するに違いない。破産して貧乏にでもならない限り、この幻想が覚めることはなく、この男性は女性の愛をお金で買い続けるかもしれない。

 一方、女性が愛しているのはお金であって自分自身ではないことがわかっている男性であれば、いくら女性を「恋人」や「配偶者」にしたとしても、それは自分が愛されたからそういう関係になったのではないとわかるから、やはり、愛はお金では買えないのだと主張するだろう。
 それでは、お金とか物質にはまったく影響されず、真に人を愛することができる人は、いるのだろうか? たとえば、キリスト教のように愛を説く信仰をもった人は、お金などは関係ないかもしれない。貧しくて、さえない男を愛することができるかもしれない。
 しかし、それもまた、本当の愛とはいえないのではないだろうか?
 宗教の世界では、貧しく困っている人を愛することが美徳であり、立派な信仰者であると評価される。貧しい人を愛する者は神からほめられ、天国に行けるといわれる。
 だとすると、実は信仰者として立派になりたいという動機から、誰かを愛している(ふりをする)ということが起きてくるのではないだろうか? だとすれば、それは「お金」が、ある種の「信仰的優越心」に代わっただけのことで、本質的には同じではないのだろうか? もし、その人がキリスト教の信仰を捨てたとしても、貧しい人を愛したりするだろうか?
 愛するという行為は、無条件のはずである。お金があるとかないとか、信仰があるとかないとか、そのようなことに関係なく、愛するということではないのだろうか?

 そう考えていくと、超人でもない限り、真実の愛というものは、存在しないように思われる。極端にいえば、食べるものも着るものも、住む場所もない男を愛して恋人や配偶者になる女性(男性)は、ほとんどいないだろう。いくら相手が立派であっても。
 しかし、だからといって、そのことで責めるのは酷であろう。現実に、衣食住に困るということは、非常に辛いものである。誰だって、そんな苦しい道をあえて選択したいなんて思わない。

 ここまで厳しく考えてしまう人間は、ある意味では不幸であろう。たとえ女性から愛の告白を受けたとしても、「どうせこの女は俺の金だとか、名誉だとか、地位だとか、そんなことに惹かれたのだろう」などと、過敏にその背後にある動機、いわば下心を読んでしまい、ロマンチックな愛に酔うことができないだろう。
 確かに、女性がそういう物質的な面にも惹かれるというのは否定できないだろう。それは人間として仕方がないことだ。しかし、多くの女性は、それだけで彼を愛したわけではなく、やはりどこか真実に彼のことを愛する気持ちが、大なり小なりあったからなのだと思いたい。
 恋人や配偶者と出会い、結ばれるときには、このように、お金やその他の物質的な要素が大きく関係する。それは、不純といえば不純ではあるが、生身をもった人間世界の現実でもある。

 しかしながら、動機はどうであれ、一度結ばれて、ある程度の時間をともに生き、お互いを深く理解し合い、深めていったとき、しばしば真実の愛が顔を出すこともある。
 すなわち、もし相手が何らかの事情によって、食べる物も着る物も、住む場所さえ失ってしまったとしても、「金の切れ目は縁の切れ目」などといって去っていくようなことをせず、一緒に苦しむことを選び、一緒に飢え、一緒に着る物も住む場所もない生活をともにする、といったことが起こる。肉体が麻痺したり重い障害をもったりしたような場合でさえ、パートナーから離れないといったことも少なくない。
 このときには、お金があろうとなかろうと、あるいは信仰だとか、そういったものとは関係なく、ただ相手への愛ゆえに、ただ相手と一緒にいたいという純粋な思いから、あえて苦しい道を選ぶのである。ここには、真実の愛がある。

 最初から完成された愛というものは、存在しないのだろう。最初は、不純物が混入した原石のようなものなのだ。しかし、二人が努力していくことで、不純物はしだいに精錬され、磨かれていって、ついには透明な輝きをもったものになる。
 しかし、原石から宝石にまで仕上げるのは、並大抵の努力ではない。ちょっとでも自分の気に入らないことがあったからといって、すぐに別れてしまうような人は、真実の愛の輝きを知ることなく、ただ表層を生きただけの人生を終えてしまう。
 だが、長い忍耐の末に原石から宝石にまで仕上げた二人は、その真実の愛だけがもつ、比類なき美しさを見て、これまでのすべての苦労をおぎなってもなお余りある、魂がふるえるような幸せをつかむに違いない。

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