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 2008年12月の独想録


 12月8日  人はなぜ自ら死んでしまうのだろう?
 先日、ニュースを見ていたら、自殺をするために、富士の樹海を歩いている30代の女性のことが報道されていた。テレビ局のスタッフが様子がおかしいということで声をかけたところ、自殺をしようと迷っていたと話した。所持金は数百円しかなく、東京に帰るための切符もなかった。なんでも、5年ほど、派遣社員として工場で働いていたのだが、ここ最近の不況で解雇され、「もう死ぬしかないかな」と思ったのだという。
 ここまで見た時点で、「なぜ、まだ若いのに、解雇されたくらいで死を選ばなければならないのかな」と思った。もっと歳をとった人で仕事を失っている人はたくさんいる。その人たちは、みんな死を考えているかというと、そうではない。この年齢なら、少なくても40代、50代の人よりも仕事は見つかるだろう。なのに、死を選ぶのは、どうかしている、考えが甘いのではないかと感じた。
 また、この女性は、住む家もなく、いわゆるネットカフェ難民だという。いったい、働いて稼いだお金はどこに行ってしまったのか? そのへんの説明がなく、ちょっと腑に落ちない。
 そして、彼女に両親はいないという。父親は事故で、母親は病気で死んでしまったのであると。
 もし女性のいうことがすべて本当だとしたならば、私は彼女が死にたくなる気持ちがわかるような気がしてきた。
 派遣で工場労働というのは、たいてい楽ではない職場だ。稼いだお金はどうしてしまったのか不思議だが(別に高価な持ち物をもっている様子でもなかったし)、とにかく一所懸命にきつい仕事をして稼いできたのに、そのお金も今はなく、住む家もなければ、親もいない。おそらく恋人もいないだろうし、そう親しい友人もいないようだ。
 となると、本当に孤独ということになる。職もお金も温かい人間関係もなければ、いったいこの地上に生きる意味、希望や励みというものが、どこにあるだろうかと思うようになっても無理はないだろう。
 こういうことは、理屈というよりも、むしろ感覚的なものが大きいように思う。つまり、人間というものは、職もお金も、温かい人間関係もなければ、気持ちは自然にすさんでしまい、萎えてしまって、ちょっとしたことにも耐えられなくなっていき、弱々しくなってしまうように思われる。
 もし彼女に、ある程度の蓄えがあり、あるいは共感してくれる温かい人間関係があったならば、たぶん、職を失っても、死を選ぼうという気持ちは起こらなかったに違いない。
 全財産を失っても、頑張って再起を果たす人もいる。そういう人は、苦しみを理解してくれて、励ましてくれるような家族や友人がいてくれたのではないかと思う。もし、そういう人もなく、財産も職も失って頑張れる人は、すごい人であると思う(なかには復讐心や病的な出世欲で頑張る人もいるが、それはちょっと例外としておきたい)。
 一所懸命、真面目に正直に働いてきたのに、正義と善を尊重して生きてきたのに、それが報われず、報われないどころか迫害されるようなこともある。たとえば、一所懸命に会社に尽くしてきたのに、その会社が不正なことをしようとしているので上司や社長に止めるよう忠告したら、嫌がらせを受けてリストラされた。ところが、、見て見ぬふりをして不正に加担している同僚は出世した・・・、といったようなことが、この社会ではよく起こっている。しかも、家族はそんな事情など理解しようともせず、会社をリストラされたことを責める一方・・・ということになれば、それこそ、もう家などにはいたくなくなり、外へ行って酒を浴びるように飲んだり、人間嫌いに陥ってニヒルな人間になったり、あるいは一人ビルの屋上に昇って夕陽を見ながら、この世にさえいたくなくなってくるかもしれない。自分を励まそうと本を開いてみれば「そのような状況はあなたが引き寄せたのです」などと書いてあったりする。
 いったいどうすればいいというのだ!
 こう叫びながら、たくさんの人たちが、毎日毎日、死んでいっているのではないかと思う。

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