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 2008年11月の独想録


 11月1日  引き寄せの法則
 しばらく前から、「引き寄せの法則」という本がよく売れているらしい。私は読んでいないが、読んだ人によれば、自分が経験する運命は、自分の想念や思いの結果であり、要するに自分が引き寄せたものであるという。そして、これには例外がない。なぜなら、これは法則だから・・・という。
 そして、この考えに基づいて、自分の願望を叶えるために、自分が欲しいものを紙に描いたり写真を貼り付けてビジュアル化しましょうといったセミナーなども、行われているようだ。
 たとえば、家が欲しければ、広告などから自分の気に入った家の写真を切り取って紙に貼り付ける。さらに徹底する場合は、自分の写真を切り抜いて、その家の写真の前に貼り付け、いかにも自分の家を所有しているかのように、リアリティ豊かに工夫する。そうすると、その願望が実現するのだという。
 このようなことは、果たして本当なのだろうか?
 私は、半分は本当であると思っているが、半分は本当ではない思っている。
 本当であるという意味は、実際に、こうして具体的にビジュアル化すると、確かに人間の意識はそれを現実にしようと働く傾向をもっていると考えられるからだ。これは私自身の体験からもいうことができる。
 しかし、人間の運命がすべて自分が引き寄せたものであるといえるかというと、そうはいえないと思っている。
 私はこの本を読んでいないので安易な批判はできないが、もし本当に「これには例外はない。なぜならこれは法則だから」と書かれているとすれば、あきらかにおかしいと思う。
 というのは、いったい誰がどんな根拠で「法則だから」と断言しているのか? ということになるからだ。それが宇宙の法則であると証明できる人は、現代の最高の科学者であっても無理であろう。科学でなければ宗教や哲学上の信念ということになる。信念を主張するのは自由だが、それはしょせん、その信念を信じるか否かということになるわけで、普遍的な説得力はもたない。
 仮に、百歩ゆずって、これが本当に法則であるとしよう。ところが、その場合でも、大きな誤りをおかしている。それは、数学の法則と自然界の法則を一緒にしているという誤りだ。
 数学の法則は、確かに例外はない。ある関数に数を入力すれば、必ず決まった数値が出力される。だが、自然界はそうはいかない。誤差というものがある。物理の世界ではその誤差は比較的少ないが、生物の現象となると、この誤差はさらに拡大し、心理の現象となると、その誤差はかなりのものとなり、実質的には「例外」とみなされるような結果が出ることはたくさんある。
 なぜなら、生物や心理の領域は、未確定なパラメーター(変数)がたくさんあり過ぎて、すべてを処理することが事実上、不可能だからだ。たとえば、天気予報がはずれることがあるのは、気象という現象があまりにも複雑で、天気を変えるすべての要因を考慮することができないからである。
 運命という現象も、気象と同じか、むしろ、もっと複雑であろう。たとえ、そこに法則のようなものがあるとしても、数学のような仮想世界とは違い、あまりにも多様な要因に満ちているので、確かな予測はできないのである。そういうことがわかっていれば、とても「例外なく・・・」などという言葉は出ないはずだ。
 この一文だけからこの著者の姿勢を推測するなら、最初からこの法則は正しいと決めてかかっているように思えてならない。要するに、結果論で持論を展開させている。そのため、たとえば、ある人が不幸になったら、不幸になったという事実だけで「あなたの想念がそれを引き寄せたのだ」と決めつけているのではないのか? もともとこの考え方は心が原因なのだから、「どのような心理がどのように働いて不幸になったのか?」と、心のありかたに焦点を向け、そこから客観的な実証研究をするべきだと思うのだが、おそらく、そんな研究などしていないだろう。たとえ、そのような研究をしたとしても、実証することは、おそらく不可能である。研究対象が複雑すぎるからだ。複雑な気象現象を、たったひとつの方程式だけで予測しようとするようなものである。
 また、このような引き寄せの法則を絶対的なものと考え、安易に振り回すことは、ときに人を傷つけかねないことにも注意した方がいい。子供を病気で亡くした母親は、その運命を自らが引き寄せたことになる。母親は「私が引き寄せなければ、子供は病気になって苦しみながら死ぬ必要はなかったんだわ」といって嘆くかもしれない。イエスが十字架にはりつけになったのも、釈迦が毒キノコを食べて食中毒になって死んだのも、広島に原爆が落ちて苦しみながら死んでいった人たちも、みんな自分がそれを引き寄せたとでもいうのだろうか?
 私には、人間の意思を超えた、なにか別の要因も働いて、そのような悲劇も起こるとしか思えない。とても、「例外なく自分が引き寄せた結果である」などと、単純に片付けてしまう考え方がわからない。
 自分が願っていることが現実になったり、類は友を呼ぶといった現象があることは、すでに述べたように、確かにあると私も思う。しかし、それがすべてではないのだ。しかも、このような、ある種の念力のような形で自分の願望を手に入れたような場合、たとえそれが手に入ったとしても、長くは手中に残らないという傾向があるように思われる。
 むかし、ある有名な社長が、この引き寄せの法則を利用して、会社の成功を強くビジュアル化して願望した。すると、確かにその会社は大きくなり、一時はマスコミに大きく取り上げられるほどにまで成長した。しかし今では、その会社は倒産して看板を見ることはない。
 なんでも法則に帰してしまう、「引き寄せの法則」の著者からいわせれば、「会社が倒産したのも、あなたが引き寄せた結果だ」といって片付けてしまうかもしれないが、その社長はそうとう熱をいれてこの法則を信じていたので、あそこまで信じていた人が、結局は倒産してしまうとしたら、そもそもこの引き寄せの法則を使いこなせる人はどれくらいいるのかと思ってしまう。
 もちろん、真相はわからない。本当に社長の心のなかに倒産を引き寄せてしまうものがあったのかもしれないが、それは確かめようもないし、実証できるものでもない。ただ、私には、なにかこうした念力的な願望の行使というものには、無理があるように思われる。一時期はドラマチックにうまくいっても、どこかに無理が生じたり、長続きしないように感じられるのだ。まるで、誰かから一時的に借りてきたかのように。
 幸せになった人が、みんな願望をビジュアル化させていたわけでもない。「もうダメだ」と未来に絶望していた人が成功することもある。「どうせ自分は結婚なんかできない」とあきらめていた人が良縁に恵まれることだってある。
 願望を描くことは大切だが、それ以上に大切なのは、その願望を手に入れるに価する人間となるよう、日々、努力していくことではないかと思われたりもする。


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 11月14日  悪循環
 このところ、経済の問題が騒がれている。つい先頃まで好景気だったのに、あれよあれよという間に、総理大臣の言葉を借りれば、“百年に一度の”経済危機になった。これから、生活が厳しくなるといわれている。
 いったいなぜ、こんなことになったのか?
 ご存じのように、アメリカのサブプライム・ローンの破綻が原因で、アメリカの株が下がったことから、日本の株が下がったからだ。株が下がるということは企業の資産価値が減り業績の悪化を意味するので、倒産を怖れて銀行が融資をしなくなる。融資が受けられないと会社は業績が悪化したり倒産する。すると、給料が減ったり失業したりして、人がものを買わなくなる。ものを買わなくなると企業の業績が悪化し、株がさがり、銀行はますますお金を貸さなくなる・・・・。といったように、悪循環が繰り返され、ますます経済が悪化してしまう。
 世の中で、もっとも怖ろしいことは、悪い方へと「循環」してしまう、ということではないだろうか。
 循環さえしなければ、そこで悪の連鎖は断ち切れるわけだから、損害はそれで終わる。しかし、循環してしまったら、その動きを止めない限り、どんどんと悪くなってしまう。これが一番怖ろしい。
 これは、経済だけではなく、あらゆることにいえると思う。
 たとえば、仕事でちょっとした失敗をしてムシャクシャしたので、お酒を飲む。少し飲み過ぎて翌朝、頭がぼ〜として出社する。そのためにまた仕事で失敗してしまう。それでムシャクシャしてまた酒を飲み過ぎ、それでまた仕事がうまくいかない・・・ということがある。
 ギャンブルで負けて、それを取り返そうとして借金をしてまたやるが、結局負けてしまう。そして、また借金をして取り戻そうとするが、また負けてしまう・・・といったこともある。
 悪循環が起こる最初のきっかけは、たいてい、どれも小さなことなのだ。そのときすぐに解決しさえすれば、悪循環はとめられるのである。
 ところが、なかなかそうはいかないのだろう。つい油断したり、楽観的に構えてしまい、大丈夫だろうと思う。そうして、ずるずると深みにはまっていってしまう。そして、深みにはまればはまるほど、そこから抜け出すのが難しくなり、悪循環のサイクルが強固なものとなってしまう。
 先の二つの例の場合、前者でいえば、仕事で失敗しても、酒で憂さを晴らすようなことをしなければよかったのだろうし、後者でいえば、最初に負けたとき、取り戻そうなどと思わず、その損害を受け入れてしまえばよかったわけだ。
 いずれにしろ、何かうまくいかないことがあったら、そのときもっとも注意して考えなければならないことは、「これがきっかけで悪循環にならないようにするには、どうすればいいか?」ということではないだろうか。
 では、そのために、どうすればいいのだろうか?
 いくつかの原則を考えてみた。
 まず、安易な手段はとらないことだ。たとえば、よほど信頼できる筋からの援助でなければ、いわゆる「うまい話」には飛びつかないことだ。最近は、経済の悪化から、中小企業に融資するといって金をだまし取る詐欺が増えているという。不運なときほど、ますます不運を呼び寄せるような人物や事柄と縁ができやすいので、慎重になる必要がある。
 次に、失敗を修正するとき、決して「ごまかし」をしたり、「ウソ」をついてはいけない。食品偽装や賄賂などのニュースを見ても、「自分はやっていない」などとウソをついても、結局はウソがばれてますます状態を悪くさせているではないか。正直が一番だ。
 そして、その失敗が健全な手段で修正できるならば、すみやかにそれを行わなければならない。くよくよしていたり、ぐずぐずしているだけ、現状は悪くなっていく。すぐに行動することだ。船底に穴があいたら、すぐにふさごうとするだろう。悪循環に陥らないためにも、この迅速な行動が必要だ。
 しかし、健全な手段によって失敗を修正することができない場合は、静かにそれを受け入れ、耐える方がよい。その場合、精神的な辛さを、他のもので埋めようとしてはいけない。酒や買い物や異性や娯楽、その他、辛さを忘れたいために、そういうものが欲しくなるが、それらはたいてい、悪循環への入り口となりやすい。節度をわきまえれば気分転換になるというプラス面もあるが、のめり込みそうなら、最初からいっさい手を出さない方が賢明だ。辛くても、しばらく、ひたすら我慢した方がいい。悪循環に陥って味わうことになる地獄の辛さに比べたら、初期の辛さなど、たいしたことはない。
 悪循環は、初期の段階で、「我慢する」ということさえできれば、かなりの割合でそれを防ぐことができるように思う。アリ地獄にはまったアリのように、やたらにもがくから、悪循環になってしまう。
 失われたものは、無理に取り戻そうとしない方がよい。物であろうと人であろうと、もう自分と縁がなくなったので去っていったのだと達観して、また将来に新たな希望を託したほうがよい。出ていくものがあれば入ってくるものがある。それが摂理というものだ。
 生きている限り、失敗を避けることは不可能である。しかし、悪循環を避けることはできる。悪循環にさえならなければ、いくら失敗したって、挽回することなどいくらだってできる。失敗することは深刻なことではない。だが、悪循環は深刻である。

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