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 2008年6月の独想録


 6月22日  大殺界
 友人や知り合い、未だお会いしたことのない読者の方から、ときどきメールをいただくが、ご自身の悩みを書いてこられる人もいて、最近は、「こうした悪いことが起こるのは、私は大殺界の時期にいるからなのでしょうか?」と書いてあるものを見かける。
 大殺界と言えば、ご存じのように、同名の本がベストセラーになっている。私は詳しくは知らないが、占い師の細木数子さんが独自に考案したもので、何年かに一度、悪い運勢が訪れる時期をさすらしい。
 むかしは、天中殺というのが流行した。天中殺の時期に結婚したりビジネスを始めると必ず失敗するといって不安を煽った本が大ベストセラーになり、社会現象ともなった。
 ところで、本当に、悪いことが起こるといった時期があって、占いでそれを当てることができるのだろうか?
 たとえば、占いでは、大殺界や天中殺のように、周期的によい運勢が来たり悪い運勢が来たりするといったことが説かれている。この二つだけでなく、九星気学や四柱推命も独自に、そういう周期性を説いているし、西洋占星術も、数秘術も、そのような周期を説いている。
 いまあげただけでも、6つもの占いが、独自の周期を唱えている(調べればもっとたくさんあるだろう)。そして、それらは、それぞれ、違う周期を主張している。たまたま悪い周期の時期が重なることはあるだろうが、基本的に、それぞれがバラバラなことを主張しているわけだ。
 そうなると、いったい、どの占いの周期を信じればいいか、という問題になってくる。
 真実はひとつしかないとすれば、ひとつの占いが真実なら、他の占いはすべて偽物ということになる。もし細木さんの大殺界が本物なら、その他の占いはすべてデタラメということになる。
 天中殺が流行したとき、そんなものはあり得ないという声もあがったが、「いや、天中殺は当たる。天中殺の時期には本当に悪いことが起きていた」という人もたくさんいて、有名タレントなども何人か天中殺を支持していた。
 そして、今は、天中殺とはまた違う大殺界が流行していて、「いや、大殺界は当たる。大殺界の時期には本当に悪いことが起きていた」という声が聞かれるようになった。
 いったい、どちらが本物なのだろう?
 西洋占星術の研究家は、西洋占星術の方が本物だと主張するし、九星気学の研究家は、九星気学の方が本物だと主張するだろう。
 これに関して、私なりのひとつの見解をもっている。
 それは、人間は、“自分が当たる占いに縁がある”というものだ。大殺界がいう時期に悪いことが起こる運命をもった人は、大殺界の占いに縁が生じて、たとえばその本を買って読むようになるのではないだろうか。天中殺がいう時期に悪いことが起こる運命の人は、天中殺の占いに縁があり、九星気学がいう時期に悪いことが起こる人は、九星気学の占いに縁ができ、九星気学の占い師や本に出会って、その通りに実現されることになる。
 そして、さらにいえば、悪い運命をもっていない人は、「この時期に悪いことが起こる」という説き方をする占いには、縁がない、ということだ。「この時期によいことが起こる」という占いの本を、もし私が書いたならば、その時期によいことが起こる運命をもった人が、読者になるだろう。
 だとすると、あまり悪いことが起こると主張する占いには、積極的にかかわらない方がいいように思われる。類は友を呼ぶというが、人の恐怖や不安を煽っても、いいことはひとつもない。むしろ、恐怖や不安の気持ちを抱くと、その思いが恐怖や不安を実際に招き寄せるということが起こりやすくなってくるだろう。
 私のもとに送られてくる「大殺界の時期に本当に悪いことが起きた」という人は、大殺界のような占いに接したから、実際に悪いことが起こったという可能性も、否定できないのだ。
 大殺界にしても九星気学にしても西洋占星術にしても、研究家たちは実際に多くの人を占って統計的にその方法を編み出したのだろうが、そもそも、自分が研究する方法に合致した人がやってきて、それを素材に構築されたものだから、その方法が絶対的な普遍的真理にはなり得ない。
 したがって、もし全人類すべての人のデータを集め、よい時期と悪い時期について統計を取ることができたら、おそらく、そこには何ら法則的なものは発見されないはずである。
 人生は、確かにある種の周期性があることは否定できない。いいときもあれば、悪いときもある。それは、ある程度は避けられない。だが、いたずらに恐怖や不安を抱くことによって、わざわざ不運を招き寄せることは愚かなことである。
 したがって、「この時期に悪いことが起こる」的なものに関わることなく、どんなときも明るく前向きに生き、不運が訪れたときも心静かに受け入れて対応していく、こうした生き方こそが、もっとも幸運を引き寄せる、ベストな生き方ではないかと思われる。


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 6月12日  規則は守るべきとはいえ……
 私の友人で、ヘルパーをしている女性がいる。
 ときどき、個人情報に問題がない範囲で、訪問先でどんなことがあったのか、その体験をメールで送ってくれる。それを読むたびに、胸が痛んだり、感動したりする。
 彼女が報告してくれるのは、老人や身体に障害のある人、精神病を患った人たちのことだ。
 単に、介護を必要とする老人になっただけで、あるいは身体に障害があったり、精神病を患っているだけで、十分に辛いことだと思われるのに、そのうえさらに、他の辛さが重なっていること(夫婦そろって身体に障害があるといった)が少なくない、ということをときどき教えてくれる。
 それでも、お金が十分にあって裕福であれば、まだ救われるのだが、そうでないことも多いという。身体障害者のための工場とか、内職だとか、そういう仕事でわずかなお金を稼ぎながら、それこそぎりぎり食べていけるだけの生活を送っているという話を聞くと、思わずため息が出てしまう。
 本来なら、こういう人たちを助けるために、役人や官僚や政治家がいるはずなのだが、そういう連中が、天下りだとか、横領だとか、賄賂といったことで不正な金を懐にしていると思うと、なんともやりきれない。
 また、友人が報告してくれるところによると、ヘルパーにはずいぶん規制があるらしい。「これをしてはダメ、あれをしてはダメ、余計なことはせず、ただ決められたことをさっさとして帰る」といった感じなのである。まるで、家畜の世話でもするかのような規則だといったら、言い過ぎだろうか?
 先日も、その友人が、ある精神疾患を患っている人の家に行ったとき、帰り際に「コーヒーを入れてあげる」と誘われたそうである。ところが、規則では、お菓子やお茶をいただくのは禁止されているというのだ。
 そうした規則を設けているのにも、それなりの理由はあるのだろうが、少なくてもそれは、介護を受ける人の立場から設けられたものであるとは思えない。ヘルパーの都合、というより、ヘルパーを管理する者の都合で作られた、冷たい事務的な、まさに“お役所的な”決まりではないかと思われる。
「コーヒーを入れてあげる」というのは、善意や厚意でそういってくれているのだろう。そういう厚意の申し出を断ることは、相手を傷つけてしまうだろう。厚意とは、要するに愛情を与えてくれようとしているのだから、それを断ることは、少し極論かもしれないが、「あなたの愛情なんて欲しくないよ!」といっていることになるのではないか。これほど傷つくこともないだろう。コーヒーやお茶を断るというより、相手の愛情を拒絶する規則だということにならないだろうか? 温かい人間的な触れあいをもっとも必要としている境遇にいるであろう人たちに対して、なんという冷たく、非人間的な、杓子定規の規則なのだろうと思う。
 コーヒーを誘ってくれたこの方は、精神疾患の他に糖尿病も患っていて、毎日、インシュリンを注射しなければならないという。そういう事情もあってか、何もしないで、寝てばかりいる生活をしているらしい。なので、当然、あまり人と話したり、接したりする機会も少ないのだろう。たぶん、寂しく孤独な思いで生活しているに違いないのだ。
 そんな人に対して、ちょっと一緒にコーヒーでも飲みながら雑談でもして帰ってあげれば、ある種の心のケアにもなるわけだし、元気も出てくるというものだろう。
 しかし、私の友人は、そんな規則なんか無視をして、喜んで一緒に飲んできたという。
 しかも、そのコーヒーは賞味期限が四年も前に切れていたことを知っていたが、気にせずに飲んだというのだ(別におなかを壊すようなこともなかったという)。
 なんと、すばらしいヘルパーだろうかと、感心してしまった。
 こういう人がいるからこそ、まだ何とか現場に人間的なものが残っているのかもしれない。
 この友人は、二つの意味で規則を無視したことになる。ひとつはヘルパーの規則であり、もうひとつは「賞味期限が過ぎた食品は食べるべきでない」という規則だ。
 確かに、賞味期限が四年も過ぎたものを食べれば、もしかしたらお腹を壊す危険もなくはない。だが、せいぜいその程度であろう。それよりも、コーヒーを一緒に飲むのを断ることで相手の人を傷つけてしまう、その重大性に比べれば、少しくらい下痢をするなんていうリスクは、たいしたことではない。たとえ下痢をしたって、相手の人が心の触れあいで喜びを感じてくれれば、それほどすばらしいことはないではないか。
 友人の行動を見て、ライ病者を抱きしめ、そのウミをすすったといわれる聖フランシスコのことを思い出した。誰もが嫌悪して、近づこうとさえしないライ病者の苦悩は、その肉体的な苦しみもさることながら、その孤独の苦しみは想像を絶するものがあったであろう。フランシスはそうした思いやりが強かったから、ライ病者のウミなど気にならなかったのだろう。
 ヘルパーの世話を受ける人たちも、おそらく境遇的に孤独な人が多いように思われる。孤独ほど辛いものはない。孤独を癒してあげることも、ヘルパーの大きな存在意味になると思うのだが。
 規則は守るべきとはいえ、その規則は何のために、誰のために作られたかということを考える必要がある。また、神の目から見て、その規則を守ることは正しいのかどうか、といった視点も必要になるかもしれない。ユダヤ人にビザを発給して多くの生命を救った杉浦千畝は、外務省の命令を無視し、規則を破ってビザを発給した。そのために外務省をクビにされ、しばらく不遇な状況におかれることになったが、今では、誰もが尊敬する英雄となっている。
 規則を守ることが勇気がいるとは限らず、規則を守っていた方が勇気を必要としないときもある。「本当はこんな規則なんて守るべきでないのだが、守らないとトラブルが起こるので怖い」という理由から、規則を守っているだけの人もいる。
 社会的に規則を守るべきかどうかよりも、人道的に規則を守るべきかどうかという視点から、自分のとるべき行動を選択しなければならない状況に、人は立たされるときがある。その判断は非常に難しいが、少なくても臆病さゆえの理由から、規則を守るということだけはしたくない。
 規則を守らなければ社会は混乱する、という見解は一面で正しい。だが、世の中を見渡すならば、社会的にも、宗教的にも、いかに多くの馬鹿らしい規則があることか。そういう規則まですべて守っていたら、たとえ混乱は起きなくても、確実に社会は腐敗していくに違いない。

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