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 2008年9月の独想録


 9月10日  神様におまかせする
 いうまでもなく、人生というものは、たとえどんなに頑張っても、うまくいかないことがある。
 というより、うまくいかないことの方が多い(うまくいくことの方が多いという人がいたら、きっと自分の実力よりもずっと低いことしかやっていないのではないか?)
 一回や二回くらいうまくいかなくても、それほどがっかりするには価しないとしても、これが五回も六回も、あるいは十回も二十回もうまくいかないということになると、たいていの人は、次のようなことを考えるに違いない。
「自分にはそれをやれるだけの実力がそもそもないのだ」
「私は、やってはいけないことをやっているに違いない」
 霊能者エドガー・ケイシーが、霊能力を使って人助けをしているのに、いつまでも生活が苦しくて貧しくなっていったとき、彼は、「私はきっと、やってはいけないことをやっているに違いない」と奥さんにこぼした。すると奥さんは、「これは神様の試練なのよ。あなたのやっていることは間違っていないわ」と励ましたという。
 日本に仏教の戒律をもたらし、帰化して律宗をうち立てた中国の鑑真などは、日本へわたるのに裏切りや天候の悪化などで五回も挫折し、十年もかけてついに日本にやってきた。その間に失明までしている。普通の人だったら、やってはいけないことをやっているに違いないと思うのではないだろうか。しかし、彼は不屈の精神でついに目的をやり遂げた。
 漫画家の水木しげるは、二十年もの間、漫画を描き続けたが生活するのがやっとだった。二十年すぎてから一気に売れるようになったという。
 しかし、なかなかここまで努力を続けられる人は少ない。
 頑張っても、頑張っても報われなければ、将来が不安で、いてもたってもいられなくなる。世の中や人生を呪いたくもなる。
 こういうときは、「神様にまかせる」という心境がいいのかもしれない。
 すべて、神様がうまくやってくれるのだと信じてしまうのだ。そうすると、いくぶん気持ちが軽くなる。
 ただし、その前に、徹底的に自力の限りを尽くす必要がある。さもなければ、本気で神様にまかせる気持ち、神様がきっとうまくやってくれるのだという確信をもつことができないからだ。自分で頑張って、頑張って、限界ぎりぎりまで、絶望と自己嫌悪と無力感がピークに達するまで頑張り抜く。
 それでもうまくいかないとき、本当にそんなときは死にたくなるくらいだが、自然に神様におまかせするという気持ちが生まれてくるに違いない。
 神様にまかせるというのは、たとえ自分に不都合なことが起こっても、「これでいいのだ」と思える気持ちだ。いいことも、悪いことも、文句や不平をいわずに静かに受け入れる気持ちである。
 もちろん、実際にはイヤなことが起こったらイヤな気持ちがするが、それでも、「理由はわからないが、とにかくこれは私にとっていいことなんだ。神様、ありがとうございます」と感謝するようにしてみるのだ。
 そのうえで、「最終的には、必ずいい結果が出るように、すべて神様が手配してくれているのだ。だから何も心配はないのだ」と楽観的な思いを抱くようにする。
 そうすると、覚悟ができるというか、肚が座るというのか、いろいろな不安や悩みや取り越し苦労が減って、たとえ心配しているようなことが起こったとしても、それを受け入れられるような気持ちになってくる。そうして、心穏やかに、これまで通りの努力を続けていけるようになる。
 今までは、同じ努力でも、あせりや不安など心を乱しながらの努力であったから、とても疲れるし、疲れる割には効率的にうまくやれておらず、集中力にも欠けていたが、「神様がうまくやってくれるんだ」というおまかせの気持ちになると、リラックスして心穏やかにできるので、その方が効率的で疲れもなく、集中力もアップして、うまくやれるようになる。
 そもそも、よほど恵まれた人でない限り、人生にはさまざまな心配事、煩わしいこと、やっかいなこと、やらなければならないことが山ほどある。そんなものをひとりで抱えてすべて自分で解決しなければならないと思ったら、とてもそんな重みに耐えていくことはできない。絶望して自ら命を絶ってしまいたくなる。
 かといって、やらなければならないことを投げ出し、なげやりになったり、義務を果たさず目先の安楽に走ったりしたら、それこそあっというまに転落の人生を歩むことになってしまうだろう。
 自殺もしたくない、転落もしたくない、かといって強くもない、そんな人はどうすればいいのか?
 神様におまかせするしかない。
 神様におまかせするというのは、単なる気休めではない。神様がうまくやってくるのだという確信をもってやることは、実際、うまくいくことが多いのだ。「自分の力でどうにかしなければならない」という我力は、どうしても緊張して悲壮な感じになるので、余計なエネルギーを使ってしまう。しかし、神様がうまくやってくれるのだというおまかせの気持ちで努力するときは、肩の力が抜けて、いい意味でリラックスできるから、それだけ実力が発揮されることが多い。
 もし、いまあなたが、疲れ果てて絶望のどん底にあるとしたら、神様にすべてをまかせてみてはどうだろうか。きっとあなたのかわりにうまくやってくれる。神様があなたの体を動かし、あなたの口を動かして、最終的には救われるように導いてくれるかもしれない。いかなる心配も抱かず、自分は神の「人形」のように思っていればよいのだ。


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 9月21日  姿が醜いというだけで
 家のなかに、ゴキブリが入ってきた。家族の者は悲鳴をあげ、殺虫剤をもってきて吹きかけた。ゴキブリは必死になって廊下を逃げ、家族の者は逃げるゴキブリを執拗に追いかけ回し、狂ったように殺虫剤をかけ続けた。ゴキブリはひっくりかえり、ついに力つきた。
 私はその光景を見て、ふと思った。
 いったいどうして、ゴキブリはこれほどまでに嫌われるのだろうか? いったい、ゴキブリが何をしたというのだろう? どうしてこれほど嫌われ、殺されなければならないのだろう?
 ゴキブリだって、ゴキブリに生まれたくて生まれたわけではないだろう。それなのに、ゴキブリに生まれたというだけで、これほど嫌われ、姿を見られただけで、殺虫剤をかけられて殺されてしまうのだ。私は、ゴキブリという存在に、哀れなものを感じた。
 そのことをいうと、家族の者はあきれたようにいった。
「悪いことをした人が、ゴキブリに生まれ変わるのよ。だから、こういう目にあって当然なのよ」
 本当に、そうなのか?
 私は、生き物を殺すのは良心が痛むから、なるべく殺さないようにしている。ただし、蚊だけは例外で、私は蚊に対して何も悪いことはしていないのに、蚊は私に悪いことをする。だから、蚊取り線香で蚊に刺される前に蚊を殺しても、あまり良心は痛まない。
 しかし、ゴキブリは私に何か悪いことをしただろうか?
 前世で私に悪いことをしたなどという説はともかくとして、それほどゴキブリが人間に悪いことをしているとは思えない。確かに、多少は不潔であり、ばい菌を運んでくるかもしれないが、たぶん、想像するほどではないように思う。実際、ゴキブリのせいで病気になったという人は、いったいどれくらいいるだろう? たとえ、多少はばい菌を運んでくるとしても、私たちがゴキブリを忌み嫌うのは、そのためではない。
 要するに、ゴキブリが嫌われるのは、その姿が醜いからなのである。
 もしも家のなかに、カブトムシや鈴虫が入ってきたとしても、悲鳴をあげてたちまち殺虫剤をかけられるようなことはされないはずだ。「ゴキブリは飛ぶからイヤだ」と言う人がいるが、ならば蝶だって鳥だって飛ぶではないか。「ゴキブリは飛ぶからイヤだ」というのは、醜いものが飛ぶということがイヤなのだ。醜いものは飛んではいけないのだ。飛んで、あっちこっちと自由に動き回るのが許せないのである。
 だが、果たして、姿が醜いという理由だけで、これほど嫌い、これほど簡単に殺していいのだろうか? 「ゴキブリホイホイ」のような製品がなぜ売れるのだろう。「鈴虫ホイホイ」といった製品をもし私が作って売りに出したら、きっと社会からひんしゅくを買い、バッシングを受けるに違いない。鈴虫ホイホイはダメで、なぜゴキブリホイホイはゆるされるのか?
 ゴキブリホイホイよりもっと残酷なのが、ゴキブリ○○だ(製品名はあえて伏せる)。説明書によると、ゴキブリはこの製品をエサと間違えて食べる。すると、ゴキブリは猛烈な喉の渇きを覚え、水を捜して必死に動き回り、水を飲むと化学反応が起きてもだえ死ぬという。
 いくらゴキブリとはいえ、こんな残酷な方法で殺していいのだろうか? 動物実験などで、ネズミなどが残酷に殺されており、それを動物虐待だといって、動物愛護団体が運動を起こしている。それなのに、ゴキブリがこんなに非人道的(?)な方法で殺されているというのに、誰も抗議したりしない。「ゴキブリ虐待」なんて言葉を、聞いたことがない。
 すべては、ただ、姿が醜いという理由だけなのだ。
 姿が醜いという理由だけで、嫌われる。
 姿が醜いという理由だけで、残酷な仕打ちをされ、誰からも同情されない。
 姿が醜いという理由だけで、「前世で悪いことをしたせいよ」などといわれる。
 姿が醜いという理由だけで、あっちこっち自由に動き回るのをイヤがられる。

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