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 2008年4月の独想録


 4月2日  すべてか無か
 以前に、病院でカウンセラーをしていたとき、登校拒否の高校生が何度かやってきた。
 登校拒否の理由が変わっていた。別に学校が嫌いなわけではない。勉強が嫌いなわけではない。それどころか、成績はいい方だった。また、いじめがあるわけでもなかった。その女の子が登校拒否になった理由は、あるとき、風邪か何かで一日だけ学校を休んだことがあり、一日休んだことで、無遅刻無欠席で登校したという記録が作れなくなったからであった。
 その女の子は、完璧主義者であった。何をするにしても、“欠けている”というのが嫌だった。いわゆる「すべてか、さもなくば無」という極端な考え方をするタイプであった。無遅刻無欠席で学校に行こうと思っていたのだが、一日休んでしまってそれが達成できなくなってから、学校に行く意欲がなくなってしまったというのである。ニコニコと愛そうがよく、素直だった。頭の回転が速そうな感じで、とにかく、本当に普通の女子高生であった。
「何事もそうだと思うけれど、完璧というのは難しいよ。八割くらい達成したら上出来だと考えるようにできないかなあ」といった説得をしてみたが、ダメだった。とにかく、完璧でなければ気持ちが悪いのだそうで、もはや出席日数が完璧にはなり得ないのを知りながら、登校する気にはなれないのだという。それで、テストのときだけ学校へ行き、あとは自宅で勉強しているのだが、成績はけっこういいのである。
 私は仕方なく、一年間という記録ではなく、一ヶ月という短い期間に区切って“完璧”にしてみようと提案した。つまり、一ヶ月休まずに登校したら、その一ヶ月間は“完璧に”学校へ行ったことになるじゃないかと。それもひとつの完璧さには違いないじゃないかと。
 また、彼女の抱く完璧さの定義を変えたいと思い、本当の完璧さというのは、どこか欠けているところがあるものなのだという(少し無理のある?)話もした。たとえば、栃木県の日光東照宮に行くと、一本だけ逆さまに建ててある柱がある。神社を設計した人が、何もかも完璧すぎるのはよくないと考えて、わざと不完全さを残したらしいのだが、彼女にこの話をして、わざと不完全なところを残してある方が完璧なのだといった話をしたりした。
 結局、そのように“だましだまし……”といった感じで、ぼちぼちと学校に行くようになり、何とか単位をもらえて卒業することができた。
 この女の子の気持ちは、まるでわからなくもない。
 しかし、自分の理想と少しでも違うというだけで、その理想をすべて否定してしまう極端な性格は危ない。たとえば、「家族というものは、すべて愛し合っていなければならない、喧嘩などすべきではなく、何の問題もあってはいけない」という理想をもっていたとしても、実際には、喧嘩のない家族はほとんどあり得ず、何の問題もない家族というのも、ほとんどあり得ない。すると、「こんなのは家族なんかじゃない」といって、家族がバラバラになってしまうかもしれない。
 人生で大切なのは、理想をめざしながらも、同時に「少しでもよくなるように」という姿勢を忘れないことではないだろうか。
 お金を損したら、その不満をさらにお金を使うことで晴らそうとせず、じっと我慢して、お金を損してしまった悔しさや自己嫌悪の念にじっと耐えながら、もうそれ以上お金は使わないようにするのだ。ダイエットを頑張って続けてきたのだが、ついうっかりと大福もちを一個食べてしまったようなときでも、「ああ、こうなったら家じゅうのお菓子を食べてやる!」などといわないで、それで止めるのである。誰かと喧嘩したときでも、「どうせもう絶交だろうから、今までいいたかったこと、全部言ってやる!」などと油に火を注ぐようなことをせず、もうそこで謝ってしまうのだ。謝ることができなくても、それ以上、口を慎んでおくのである。宿題をやるのを忘れたというような場合も、「どうせ、今からやっても終わらないから、もういいや」などといわず、できるところまでやっていくのである。
 そのときは、ものすごく気分が悪い。人間は、白黒つけないと気分が悪いものだ。しかし、そこはじっと我慢だ。自制心を発揮するのだ。自分にうち勝って、とにかく「少しでもマシ」な状態にしていくのだ。舟の底に穴が空いて水が入ってきたら、「ああ、こうなったら沈んでしまえ!」などといわないで、せこせことでも水を外にかきだそう。それはすごく格好悪い姿かもしれない。舟と一緒に沈んでいくんだといって何もしない方が格好いいかもしれない。しかし、いざ沈むときになって「助けてくれ〜」とあわてて醜態をさらす方がみっともない。それよりも、せこせこと水を外にかきだして、少しでも現状をよい方向へもっていく努力をした方がいい。
 そのときは気分が悪くても、「少しでも現状をよくし続ける努力」をしていくなら、長い目で見ると、ものすごくいい結果になっているものだ。金銭的にはまた豊かになってくるかもしれないし、ダイエットもちょっと太っただけでたいしたことなくすむかもしれないし、喧嘩した友達ともまた仲直りして助け合うようになるかもしれないし、少しでも宿題をやってあれば、先生もそれなりの評価をしてくれて成績はあまり下がらないかもしれない。しかし、投げやりになってしまえば、そのときは気分がスカッとするかもしれないが、後で長いこと苦い思いをしなければならなくなる。
 完璧をめざすのはいいが、完璧でないからといってすべてを否定するのはやめよう。とにかくじりじりと、少しずつでも現状をよくするために、忍耐強く努力していこう。そうすれば、決して後悔するようなことにはならないはずだ。


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 4月19日  地獄の沙汰も金次第・・・
 最近、私の友人が病気となり、しばらく入退院を繰り返している。軽い病気ではないので、いろいろと治療するのにもお金がかかるといっていた。治療費だけで、月に10万円ほど使っているという。もし、その治療をしなければ、もしかしたら命を失うようになるかもしれない病気だ。友人は何とかお金をやりくりし、必要なら借金をしなければ、といっていた。
「地獄の沙汰も金次第」ということわざがあるが、ふっと、そんな言葉が脳裏に浮かんできた。
 誰もが健康で、病気になれば誰でも満足のいく治療が受けられるということが、少なくとも人間としての最低の権利というか、福祉であるように思われるが、そうではないということだ。つまり、病気になれば、お金持ちは助かるが、貧乏人は助からない、ということなのである。
 現代では、人の価値はほとんどお金で決められてしまう。だが、不条理を感じさせるのは、勤勉で正直な人が金持ちになり、怠惰で悪いことをしている人が貧乏になるとは限らない、ということだ。むしろ、今の時代では、勤勉で正直では、あまり金持ちにはなれないといった方がいいかもしれない。今日、いわゆる大金を稼いだ人というのは、たいてい何らかの投機的なことで成功した人である。株だの企業買収だの、あるいはIT系の仕事でうまく時流に乗った人たちが、金持ちになっているわけだ。コツコツと正直に地道に金持ちになったのではない。いわば、ほとんどギャンブルのようなことで金持ちになったようなところがある。
 しかし、投機的なことは、何ら創造的な活動もサービスも提供していないという点で、少なくても直接はしていないという点で、何も社会貢献していないのである。
 投資家など世の中にいなくなっても何も困らないが、喫茶店のウエイトレスがいなくなったら、私たちは困ってしまうだろう。つまり、社会貢献度という点では、投資家よりウエイトレスの方がよほど価値があるわけだ。それなのに、投資家は何千万とか何億も稼いだりするが、ウエイトレスの収入は、せいぜい時給千円とか、それくらいであろう。
 もちろん、投資家は別に悪いことをしているわけではないし、責めるつもりはない。
 むしろ、それよりも許せないのは、公金を横領したり、天下りする役人である。
 ほとんど仕事もしないのに、年収が医者並であるというのがごろごろしている。医師が高い収入を得るのは当然だ。高い知識と技術をもっているし、今日では社会問題となっているほど長時間のハードな仕事をしているからだ。
 ところが、必要もない団体を作ってそこに籍だけおいて、知識もなければ技術もなく、労働もろくに提供していない人間が、医師と同じくらい、場合によってはもっと高い報酬を得ているというのは、どういうことなのか? これはあきらかに「合法的な詐欺」であり、「窃盗」ではないだろうか。
 こういう「泥棒たち(とあえていう)」を養うために、年間数百億もの金が使われている。かたや、75歳以上の高齢者の医療費を年金から天引きしているのである。それこそ一ヶ月7万円とか、5万円で生活している老人からむしりとっているわけだ。
 愛国心をもたせるために、子供に「君が代」を歌わせようとしているが、こんな腐った連中を野放しにし、弱い者いじめをしている国に対して、どうして愛国心など、育つものか。
 そして、もし重い病気になったら、税金を泥棒しているろくでなしの役人は治療を受けられて命が助かるのであるし、そういう不正はせず、まじめにコツコツ働いてきたウエイトレスは、治療が受けられずに死んでいくのである。世の中は不条理である。

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