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 2015年1月の独想録


 1月27日 「人生は苦である」
 私は相変わらずウツ病(ウツ状態)に悩まされている。多少の波はあるが、たいていは世の中が灰色に見える。今から思えば、私のうつの最初をたどっていくと、高校生のときにすでに患っていたように思う。ときおり、生きるのが悲しく、勉強も遊びも、何もかもに対して意欲を失ってしまっていた。そういう時期が定期的に訪れていたが、程度はそれほど重くなかったので、それで学校を休むとか、そういうことはなかった。しかし、それ以前と比較すると、人生というものに対して、ずいぶん悲観的に、厭世的に考えるようになった。人生が悲しいものに思え、世の中というものがとてつもない不安定で、はかないものに感じ、表現しがたい不安が常に胸の奥に渦巻いているのだ。
 それでも、人生というものを「絶望的」に感じることはなく、青年から壮年の時代においては、いずれがんばっていればすばらしい人生が待っているという、(まるで根拠のないある種の幻想的な)気持ちがあった。そうしてどうにかこれまで希望を持って生きていた。その間は、私のウツ傾向は多少はあったものの、ほとんど影を潜めていた。
 だが、40歳のときに、過労と精神的な悩みが重なりウツが重くなり、このとき初めて精神科医を訪れた。そして投薬治療をしたが、激しいアナフィラキシーに襲われ、それに懲りて投薬治療はやめてとにかく休養することにした。1週間ほど寝ていると少し楽になった。そこに、カウンセラーの仕事の依頼が来たので、カウンセラーになった。その仕事にやりがいを感じたせいか、ウツはほとんど(完全ではないが)影を潜めた。そうしてしばらく、ウツに悩まされることのない歳月が過ぎた。
 だが、初老となり、すでにこの場でご紹介したように、母が急に体調を崩して結局施設に入ることになったのだが、それをきっかけに、再び私のウツは復活した。他にも家族や経済的な問題などが重なり、いろいろ悩みもあった。あまりにも苦しいので、再び精神科医の門を叩いた。アナフィラキシーが心配だったが、一か八か投薬治療をした。だが、3ヶ月間抗鬱薬を飲んだが一向によくならないのでやめた。今は気休め程度の精神安定剤を服用している。効いているのかいないのかよくわからず、飲めば何となく暗示のせいなのか少しはマシなような気がするくらいである。
 私が母の問題でウツを発症した大きな理由のひとつは、「歳を取ると誰もがこうなってしまうのか」という思いだった。いや、「思い」というより「事実」と言った方がいいだろう。かなりの高齢でも元気な人もいるにはいるが、それは少ない方だと思う。母の場合、今まで元気に歩いていたり、頭もしっかりしていたのに、あれよあれよという短期間の間に足腰が立てなくなり、結局クルマ椅子になり、おまけに認知症にまでなってしまった。83歳ときであった。今は施設でぼんやりと暮らしている。施設を探すのも楽ではなかった。私はまだ恵まれている。多くの人が自宅で介護をしているのだ。それが日本の現状だ。しかし、自宅で老人の介護をすることがいかに大変か、それはもう想像以上なのだ。
 それはさておき、仏陀は、伝説によると城から外に出たときに、苦しむ人、老人、病人、死んだ人などを見て、この世は「苦」であると思ったという。
 両親がまだ健在で、未来がある20代や30代くらいのときは、「この世(人生)は苦」という仏陀の言葉を聞いても、それほど実感は感じないであろう。だが、初老となり、親も死んでいなくなり、体力も落ち、家庭や仕事などでいろいろと悩みがあったりすると、いったい何のために生きているのかわからなくなり、そのときに仏陀の「人生は苦である」ということが、身に染みてわかるようになるのではないだろうか。ショーペンハウアーという哲学者も同じことを言っている。この世は盲目的な運動によって人々は翻弄されているのだと」。要するに、正義と秩序の神など存在しないと言っているわけだ。
 だが、私は思った。
 このような悲観的な考え方をするのは、ウツという病気のせいではないのだろうかと。ウツがそのように考えさせているのではないのかと。人生はそんなものではなく、私はウツのために、人生の実相を歪んで見ているのではないだろうか?
 テレビでウミガメの赤ちゃんが大量に産まれて海に戻っていくシーンを見たが、そのうちの大部分はほかの動物のエサなどにされたりして、結局、生き残れるのはほんの数%であるという。生まれてすぐに捕食されてしまうカメは、いったい何のために生まれてきたのだろうか? そこには生きる意味も何もないように思われる。人間には生きる意味があって、ウミガメにはないのだろうか? 人間とウミガメは違うのだろうか? だが、私はウミガメと人間とがそう違うとは思わない。生まれてすぐに捕食されてしまうカメは、前世で悪いことをしたカルマのせいであるとでもいうのだろうか? それはあまりにも馬鹿馬鹿しい。人間も同じではないのかと思う。人間と人間以外の生物に哲学的な生存の意味の違いがあると考えるのは、ある種の幻想ではないだろうか。
 実際、生まれてすぐ死んでしまう赤ちゃんはたくさんいるし、脳性麻痺で人生の大半をベッドで過ごさなければならない人もいる。また私自身、カウンセラーの経験を通して、本当に悲惨な人生を生きてきたクライアントさんを何人も見てきた。
 そのような苦難に遭遇しても、笑って過ごせる人も中にはいる。だが、たぶん少ない。よほどの楽観主義者としか思えない(ある意味では幸せな人と言えるかもしれないが)。
 私は思う。
 実は、ウツの状態で思ったり考えたりすることこそが、よりこの人生の実体をとらえているのではなのかと。もちろん、中にはあまりにも極端な考え方をする人もいる(たとえば、すべての人に愛されなければ人間として失格だといったような)。そういう人は、「認知療法」という心理療法で、極端に考える傾向を矯正していく。
 だが、そのような極端な考え方をするのではなく、この人生を幅広くありのままに見るならば、やはりこの世(人生)の実体は「苦」であると見るのが事実であると思うのだ。目が見えない人、一人では歩けない人、一生の大半を精神病と戦っている人、そのために、世間並みの仕事も娯楽もできず、恋愛も結婚もできず、孤独で、不自由に生きている人が世の中にはたくさんいる。
 もちろん、幸せかどうかは本人が決めることだから、他人がとやかく言う筋合いではない。どんな状況であろうと、本人が幸せと思えば、それは幸せなのだ。
 けれども、一般的に考えるならば、このような状態の人が自分を幸せに考えることができる人が、どれだけいるだろうか? 少なくとも、私にはとうていそうは思えない。
 結局、若い頃の人生に抱くバラ色の希望というのは、ほとんどは幻想であり、人生という「苦」を背負いながら生きていくものではないのだろうか。それが人生ではないのだろうか。日常の、ほんの小さな幸せを慰めと支えにしながら。
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